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「おい、坂下。この成分計算の表、間違ってるぞ」
「あ、すみません。東條先輩。すぐに直します」
「お前はいつもこういうところが抜けてるよな。確認ぐらいしっかりしろよ」
ネチネチネチネチ。ミスをした私が悪いのはわかっているんだけれど、そこまでネチネチ嫌味をいうことないじゃない、と思うほどに、小言が繰り返される。職場のいけすかない上司、東條アキラは、分厚いメガネの向こう側に透けて見える鋭い形の目をさらに鋭くさせて、私を睨みつけた。
「まったく、ちゃんとやってくれよ。坂下」
他の人が同じようなミスをしてもここまで言わないのに、私に対してだけは、なぜか当たりがきつい。
「はい、すみません……」
反抗する気力もなく、ひたすら謝って済ませようとする。
それでもネチネチと言われることにうんざりしながら、表情は殊勝に、内心では舌を出していた。
ようやく解放されて、私は会社の食堂へと向かった。
「お待たせー」
「お疲れ、お説教は終わった?」
「なんとか」
同期の山本愛梨と挨拶を交わす。
「もう、どうして私にばっかりあんなにきついのかしら」
「由梨のこと意識してんじゃないのぉ?」
「んなわきゃないでしょ、小学生じゃあるまいし」
愛梨からはふざけたからかいが飛んでくる。
「もう、やめてよね。本当に嫌いなんだから、あいつ。私にだけ当たり強くってさ」
「由梨のこと、期待してんだよ。同期の中じゃ一番優秀なんだしさ」
「そんなことないわよ」
愛梨の慰めに、ひらひらと手を振って否定すると、愛梨は「そうかなぁ」なんて長い茶色の巻き髪を指先でくるくるといじりながら疑問を呈す。
研究職といえどもおしゃれを欠かさないこの同期と比べて、私は味も素っ気もない黒髪を一つに括って、メガネをかけてすっぴんだった。
化粧品研究会社にいる私がなぜこんな姿をしているのかといえば、学生時代のトラウマが原因である。
私には、幼い頃から美人の極みみたいな幼馴染がいた。楠木マリアというハーフのその女の子は、こぼれ落ちんばかりの大きな瞳に、色素の薄い虹彩、高い鼻に、形のいい唇と、全てを兼ね備えた精巧な人形のような女の子だった。
幼稚園の頃、まだ日本語がおぼつかないマリアに同情して、私は彼女の世話係を買って出ていた。その結果として、親友として懐かれてずっと一緒に過ごすことになったのである。
しかし、その結果は残酷だった。
『坂下さん、少しいいかな』
憧れていたバスケ部の先輩に呼び出され、ドキドキしながら着いて行った放課後。
『楠木さんのこと紹介して欲しいんだ。仲良いんでしょ?』
そんな風に言われた私の気持ちを、想像して見てほしい。
そうしてマリアの影のようにしてずっと過ごしていた学生時代。紹介を断った男子の中には、私のことを逆恨みするものもいた。
ある日、初めてメイクというものを母のメイク道具を借りてやった日。たまには服を買いに行こうと出かけた先の駅前で、その私を逆恨みしている男子と行き合った。
『は? 何お前化粧してんの? だっさ。お前みたいなブスが化粧なんかしたってブスが目立つだけなんだよ!』
そんな風に言われて、私は二度とメイクができなくなった。
幼い頃から、女児向けアニメなどでメイクをしている姿に憧れていた。
母がメイクをしている姿を見て、自分もやってみたいと思っていた。
デパートの一階にある化粧品ブランドのコーナーでは、色とりどりの美しいパッケージに彩られたメイク用品に惹きつけられていた。
けど、そんな思いもへし折られてしまったのだ。
それでも私はメイクに関わる道を諦められなかった。自分自身はおしゃれをする自信がない。私みたいなブス、おしゃれをしたって浮くだけだ。
それでも、あの豪華絢爛で美しいメイク用品の世界に関わりたくて、理系研究職の道を選んだ。
大学院を出て、三年。二十八歳にもなるのにメイクなどほとんどしたことのない私は、裏方でメイク用品の開発を行っている。
そんな私には、推しの美容系動画配信者の人がいた。華麗な巻き髪に、目鼻立ちも華やかな美女。コスメへの愛情に溢れたレビューの数々は的確で、開発者として気づいて欲しいポイントも的確に言ってくれるから嬉しくなってしまう。
そんな美容系動画配信者、AKIの自主イベントに抽選で当たったのは、頑張っている私に、神様からのご褒美だと思っていた。
忙しい平日を乗り越え、八月の三連休にイベント会場まで赴く。普段はオシャレなんてしないけれど、せっかくのAKIのトークショー。ちょっとだけ背伸びしたワンピースを着て、メイクはどうしてもトラウマでできないけれど、色付きのリップクリームを塗って、出かける。
トークショーでは、あのAKIが画面越しじゃなく目の前にいる興奮で、私はテンションが上がりきっていた。
AKIとプロの司会者であるフリーアナウンサーさんが、軽妙な語り口で最新のコスメについて語っていた。
トークショーを見終わり、トイレに行きたくなった私は施設の奥へと歩いて行った。
少しばかり道に迷った末に、スタッフルームなどが並んでいるところまで迷い込んでしまったけれど、なんとか女子トイレを見かけて用を済ませる。
そうして出た矢先、私は誰かとぶつかった。
「うお、あぶねっ」
「す、すみません。って、え?」
ぶつかりそうになった時に聞こえたその声は、あの嫌味な上司、東條アキラのものだった。
なんで東條先輩がここに? と思いながら、顔を上げると、なぜか華やかなAKIの顔立ちに、東條先輩の髪型、そして東條先輩のメガネをかけた、AKIと東條先輩のハイブリットのような男性が立っていた。
「坂下!? お前、なんでここに……」
「東條先輩こそ……。それにそのメイク……」
「こ、これは……!」
東條先輩はいつもの立板に水の如く嫌味を垂れ流す口を、パクパクとさせながら、絶句している。
なんで東條先輩がAKIの顔をしているのだろう?
薄々勘づいているけれど、私の脳がその判断を拒否していた。
「お、お前! 誰にも言うなよ! 絶対に誰にも言うなよ!」
東條先輩は、私の腕を引っ張って廊下の隅に連れていくと、鬼のような形相でそう言って迫ってきた。
壁際に追い込まれて、腕で逃げられないように閉じ込められる。何この壁ドン! こんなシチュエーションで経験したくないんだけど!
でも、あのAKIの美しい顔立ちが目の前にあって、私は思わずドキドキしてしまった。元々、AKIのビジュは最高に好みなのだ。
「東條先輩……やっぱり……、AKIの正体は……」
「それ以上言うなっ」
東條先輩は、くわっと目を見開いて吠える。その顔立ちは、怒り狂っているにも関わらず、尋常じゃなく美しい。切れ長の華やかな目に、すっと通った鼻筋、自然に口角のきゅっと上がった唇がチャーミングで、その口元にある小さなほくろが独特の色気を醸し出していた。
いつも分厚いメガネと前髪の奥に隠れていた顔立ちは、メイクによってその美しさを遺憾なく発揮している。
「どういうことですか? 私、AKIのファンだったんですけど……」
「そ、そうか……。って、それは今関係ないっ」
私がAKIのファンだと告げると、少し照れたように東條先輩は頬を染めると、ハッとした顔で私に向かって怒鳴ってきた。
「お前、このこと誰にも言うなよ」
囁くように低い声で脅してくる東條先輩に対して、私はついつい勝ち気な笑みを返してしまう。
「ふーん、東條先輩、こんな弱みがあったんですね」
「おっまえ、脅すつもりか!」
「先に脅してきたのは東條先輩じゃないですか」
「くそっ、どうしたら黙る。金か? 金なのか?」
「そんなヤクザな真似はしませんよ」
口止めするために必死な東條先輩に、私は一つ、交換条件を思いついた。
それは、私にとって口に出すのに非常に勇気が必要なこと。これまでの自分を乗り越えなければならないこと。
でも、憧れのAKIを前にして、その願望を口にせずにはいられなかった。
だって、私はAKIの背中をずっと追いかけてきたんだから。
「東條先輩……、いえ、AKIさん! 私にメイクを教えてください!」




