位置について
週刊誌の報道が出てから、これまで毎日のように顔を合わせていたことが嘘だったかのように、晃は芸能の世界へ戻っていった。
鷹見は、御域とブレイムに決別を突きつけたのだという。
所属タレントの共演は金輪際NG。業界は騒然となったそうだが、相変わらずARCは音楽番組にもバラエティにもひっぱりだこで、Summer sonicのヘッドライナーでは、マリンスタジアムに入場規制がかかったらしい。
AirTagと防犯カメラの件に関しては、晃と話し合い、WAY POINTに一任することにした。
それがどう影響したのかは、わからない。ほどなくして、あの人の休業が報じられた。
医師から一定の療養が必要と診断を受けて、秋のドラマ出演を見合わせ、今後の活動については白紙になったと、どこかのネットニュースに書かれていた。
*
バーバーサンライズには、今日もビートルズが流れている。
鏡に映るのは、春の引越しのときに着た、生成りの作業着に身を包んだ自分。
数ヶ月前に切ってもらった髪の毛は、すっかり伸びて、肩にかかるほどになっていた。
「照夫さん、おれ、この髪型がいい」
真人は膝に乗せたカタログを指差して、鏡越しに照夫と目を合わせた。
「ウルフカットってやつだな。まひ男に似合いそうだ」
「そう? なんか、フライトキャップ被ってるみたいで、いいなって」
「なんだそりゃ」
腹を揺らして照夫が笑った。軽快な鋏の音とともに、髪の束がはらはらと落ちて、そのたびに少しだけ身体が軽くなる気がした。
真人はカタログを鏡台に置いて、立てかけていたスケッチブックを取り出した。
新しいページを開いて、鉛筆を滑らせていく。
ぴんと立った耳と、硬そうな黒い毛。つぶらな濡れた瞳と、何かを見つけたときに嬉しそうに出す舌。
「本当に、あっという間だったなぁ。なあ、ハク」
照夫が真人の絵を覗き込んで、そっと語りかけた。
「ありがとうな、まひ男。ハクのやつ、まひ男のこと本当に大好きだったから。最後のときも、きっと怖くなかったろうよ」
「……そうだと、いいけどな」
絵を描き終わるのとほぼ同じタイミングで、カットが終わった。
「わあ、すごい。見て、照夫さん。空が飛べそうだよ」
真人は立ち上がってくるっと回った。頬にかかった髪がふわりと宙を舞い、真人は満足そうに口角を上げた。
「まひちゃん!」
買い物から戻った春枝が店舗のドアを開けて駆け寄ってきた。
「まあ、まあ。とっても似合ってるわ」
「ふふ。照夫さんのおかげ」
照夫が春枝に紙袋を差し出した。
「ママ、これ、まひ男から。大家の多恵子さんが持たせてくれたそうだ。日下家の皆さんに、って」
「あら、ありがたいわ」
春枝は言いながらすぐに口をへの字に曲げた。
「でも、ちょっとやきもち妬いちゃう。私、まひちゃんがうちにちっとも帰ってこないもんだから」
「そんなことないでしょ。先々週も遊びに来たじゃん」
真人が反論していると、店舗の壁掛け時計から十一時のチャイムが鳴った。
「行かなきゃ! カット代、4,500円だよね」
照夫と春枝が止めるのを制して、真人はバイトの給料口座に紐付けたPayPayのQRコードを読み取った。
「じゃあね、照夫さん、春枝さん。行ってきます!」
ギターケースを背に抱え、真人はバーバーサンライズを飛び出した。
雲ひとつない晴れ渡った空に、冬の気配がする秋の風が吹いていた。
迷子にならないよう、真人はGoogleマップを開いた。昔、晃と喧嘩して、迷子になったときに訪れた、石段の上の神社。
そこの神社では毎月、第三日曜日にお焚き上げをしているのだと、田中先生から聞いて、この日に合わせて立ち寄る計画を立てていた。
境内の奥に、空へと立ち上る細い煙が見えた。
真人はツナギの中にしまい込んでいた封筒を取り出して、両手に握って階段を登った。
神主に頭を下げて、真人は手紙を差し出した。
「故人へのお手紙ですか?」
「はい」
「では、丁寧にお預かりします」
「よろしくお願いします」
神主が白い封筒を火の中へと投げ入れた。
少しずつ形を変えていく封筒が、黒く焦げて、煙が立ち上がっていく。
真人は日野の晴れ渡った空をしばらく眺めていた。
いずみちゃんへ
いずみちゃん、あれから元気にしていますか?
いずみちゃんに直接会って話すつもりが、なかなか見つけられなくてごめんなさい。
いずみちゃんにどうしても伝えたいことがあったので、手紙を書いてみました。
まず、お兄ちゃんのこと。
お兄ちゃんは、いずみちゃんのことを心配していました。
まるで、いずみちゃんが最初からいなかったかのように振る舞ってしまっていたこと。
そのことを、いずみちゃんが空から見て傷ついているんじゃないかって。
それから、いずみちゃんのお母さんも、同じことを言っていました。
立ち直るためとはいえ、いずみちゃんの写真や、服や、何から何まで、処分してしまったこと。
ずっと後悔していると言っていました。
でもね、お母さんやお父さん、お兄ちゃんが、いずみちゃんのことを大好きだったこと、ぼくはよく知っています。
お兄ちゃんのおうちでは、朝ごはんに必ず小松菜のお味噌汁が出ます。いずみちゃんの好物だからでしょう?
毎朝、日下家の小松菜の入ったお味噌汁をいただいて、僕は少しずつ元気を取り戻すことができました。
お店にはいつも、ビートルズの曲が流れていました。
いずみちゃんはビートルズが大好きだったんだってね。家族全員でカラオケで歌うのが日課だったんだってね。
いずみちゃんが亡くなってから、お兄ちゃんは小学校へ通わなくなった時期があったと聞きました。
先生が置いていった卒業文集の原稿用紙がずっと居間のこたつテーブルに置かれていて、お父さんは閉じこもるお兄ちゃんの部屋のドアに怒鳴ってしまったと言っていました。
お兄ちゃん、泣きながら、いずみちゃんの大好きだった『In My Life』の歌詞を、そのまま原稿用紙に横殴りに書いて、となりにカブトムシの絵を描いて提出していたと言っていました。
引きこもっているお兄ちゃんを見かねて、特に何か観たかったものがあるわけでもないけど、お父さんは八王子のシネコンにお兄ちゃんを連れて行ったそうです。
「何観たい?」って聞かれて、お兄ちゃんが選んだのが、『となりのトトロ』のリバイバル上映でした。
もう話の内容も、結末も、全部知ってるのに、男二人でバカみたいに泣いたそうです。
いずみちゃん、あなたは家族から本当に愛されていたんだね。
いずみちゃんが大事にしていたものを、お兄ちゃんも、お母さんも、お父さんも、守り続けてる。だから、安心してね。
春から、ぼくは小学校の先生になります。
お兄ちゃんみたいに、華やかな世界の光にはなれなかったけど。
ぼくは、ARCの輝いてる姿を見るのが好き。
いずみちゃん。
ウジウジしたところ、好きって言ってくれて、ありがとう。
徒競走のことを一緒に考えてくれて、ありがとう。
池の前でぼんやりしてたとき、叱ってくれて、ありがとう。
ガレージで落ち込んでたとき、デッサンのモデルになってくれて、ありがとう。
ぼくのことを受け入れてくれた日下家のみんなのことを、ぼくも大切にしていきたいと思っています。
今、この瞬間が、ぼくのスタートラインです。
いつか目の前にトトロがやってきたとき、ちゃんと見つけられるような大人でいたいな。
いずみちゃんと会ったこと、お兄ちゃんたちには内緒にする約束、ちゃんと守ってるからね。
でも、もし気が向いたら、また姿を見せてね。
もし、お兄ちゃんと話したくなったら、いつでも相談して。
元気でね。またね!
神谷真人
*
その日、真人は久しぶりに晃と会う約束をしていた。
日野のアートフェスティバルという、中央コミュニティセンターで毎年秋に開催されるお祭り。
大垣がそこのステージマネージャーをしているという話を聞いたのが、三ヶ月ほど前の話。
真人は、大垣にある相談をしていた。
大垣は真人のお願いを快諾して、当日のタイムスケジュールの打ち合わせ欄の中に、ブチャラティ(仮)とサインペンで書き入れてくれた。
一ヶ月ぶりに会った晃は、カーキのジャケットに身を包んで現れた。
夏を経て顔つきが引き締まったように見える晃に対して、自分の身体は少しふっくらしたように思う。
二ヶ月の間、春枝の手料理に世話になったせいなのか、服を脱ぐと目立っていた肋骨は見えなくなったし、手の甲から浮き出ていた細い血管は、身体の中へと沈んで見えなくなった。
お互い、最後に会ったときとは少し違ってしまった気がして、駆け寄る晃を目にしても、真人は何も言葉が出てこなかった。
「真人!」
久しぶりに耳にする声に、身体が震えた。
髪型のことや、身体のことを何か言われるだろうかと、真人がそわそわする間、晃は目を細めて真人の顔を見つめた。
「……元気だったか」
「うん。晃、少し痩せた?」
「ああ、そうかもな。今、メンバー内で筋トレ流行っててさ」
「ごはん、食べてる?」
真人が問いかけると、晃は目を丸くしてカラカラと笑った。
今日会えるのは、一時間だけ。この後、また都心に戻って打ち合わせらしい。
「ねえ、晃。一緒にあっちのステージ観よう。おれ、晃に聞いてほしいアーティストさんがいるの」
屋台や大道芸のブースの間を、晃の袖を引っ張りながら、この緊張が晃にばれたらどうしようと心臓が煩かった。
晃は痛い痛い、そんなに引っ張るなよ、と言いながら、真人の後ろを嬉しそうについて行く。
ステージの横で台本を脇に挟んだ大垣が二人を待っていた。
「よう、スーパーアイドル。ようこそ、こんな田舎の小さな音楽祭に」
大垣は笑いながら、晃の肩を叩いた。
「ここがおれの地元だろ。ここがおれの出発点。大垣、よくやってるよ本当に」
大垣は真人にちらっと目配せした。
「真人、ほんとに本名でいいのね?」
「うん。お祭りのインスタにも、もう名前出ちゃってるでしょ?」
「うん、まあそれは。いや、ここでマイクで言うよっていう話」
大垣と真人のやり取りに、瞬時に事情を察した晃は、「ええ?!」と声を上げた。
二人はしー! と指を口に当て、顔を見合わせてからいたずらっぽく笑った。
大垣が「日下は最前列ね」と晃の肩を押して、「真人、行け!」と促した。
「あのね、二曲だけなんだ。晃が一番聞きたいかなって曲を選んだから、ちゃんと聞いてね。下手くそでも、怒らないでね。絶対だよ」
真人は呆けてる晃の帽子をひったくった。
演奏している間、晃がどんな顔して聴いているか、ステージからよく見てやりたかったのだ。
真人が足場をたんたん、と軽やかに駆け上がり、ステージの上に立つと、ほんの数人だけ座っていた客席から、わあ、と声が上げた。
真人は周囲のざわつきを気にする様子もなく、中央に置かれたギターを抱えて、パイプ椅子に腰掛けた。
指先で最初のコードを軽く押さえて、チューニングを確認する。
よし。OK!
大垣に真人がピースでサインを送ると、大垣の声がマイクを通じてステージのある広場の中に響いた。
「続いてのアーティストは、神谷真人。僕の友人で、趣味で音楽をやっています。彼の演奏を聞いたところ、ぼくがものすごく感動してしまって。無理を言って、ここに立ってほしいと頼みました」
呆然とする晃の顔に、大垣は口角を上げた。
「それでは、キリンジの『Drifter』と、ビートルズの『In My Life』、二曲続けてお聴きください」
大垣が手を挙げるのを確認して、真人はギターの弦を弾いた。
演奏が始まって二小節目あたりから、頭が真っ白になってしまった。晃の顔を見る余裕は全くなかった。
一体、自分はどこを見ながら歌ったのかという記憶もない。
たった十分間の演奏だったのに、歌い終えて頭を下げたときには、まばらだった客席に、いつの間にか人が集まっていた。
鳴り止まない歓声と称賛のホイッスルに、真人は照れくさそうにもう一度頭を下げ、壇上を駆け下りた。
「緊張した。顔、あっつ! 演奏、大丈夫でした?」
真人が心配そうに大垣に尋ねると、「最高だったよ!」と満面の笑みで大垣が真人の肩を叩いた。
自分がステージに立ちたいとわがままを言ったのに、あんなにリップサービスで盛り立ててくれた大垣に、真人はありがたいやら申し訳ないやらで、すみません、本当に、ありがとう、と何度も頭を下げていると、大垣が困った顔をした。
「それよりさ、あいつのとこに行ってやって。やばいよ、今。このままじゃネットにあのクソダサい泣き顔を晒されちゃう」
大垣くんが指差した方を振り向けば、観覧席に取り残されて、背中を丸めている晃の姿があった。真人は慌てて晃の元へ駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「晃…?」
「真人、歌えるようになったのか」
真人は晃の手を引っ張って、ステージ裏へと連れ出した。
握られた手と反対側の手で、晃は溢れる涙を乱暴に拭っている。
「晃、二階の納戸にギターに埃被せて放置してただろ。勝手に借りて練習しちゃった…ごめん」
「そんなのどうでもいい」
「どうだった? ちゃんと歌えてた?」
「歌えてたよ。ちゃんとどころか…」
ぐす、と鼻を啜った晃は数秒言い淀んで、けほ、と咳をした。
「顔見て言うの恥ずかしいから、抱きしめていいか」
普通、抱きしめる方が恥ずかしいのでは?
真人が首を傾げていると、「ん」と晃が真人の前に両腕を広げた。
真人はしずしずと晃の胸元に身体を預けた。
「ほんとに、大丈夫?」
晃が念を押した。
「いいから、早くやれよ」
真人が胸元で訴えると、肩甲骨に暖かな体温が伝わって、背中を包むように抱きしめられた。
後頭部に回された手が、真人の髪をそっと撫でた。
「綺麗だった。真人、綺麗だったよ。生きていてくれて、ありがとう」
晃は真人の肩口に顔を埋めて、また鼻を啜った。
「おせーよ、アシタカ。やっと正解がわかったのか」
「ちげーよ。ほんとにそう思ったの。真人が生きてて良かった。生まれてきてくれてありがとう、真人」
真人はそっと晃の顔を抑えて目の前に戻す。鼻水の垂れている泣き顔はあまりにも情けなかった。
「スーパーアイドルが台無しだ」
真人はそう言って晃の頭を撫でた。
「真人、ちょっと肉ついたな」
余計なことを。
真人はむう、と口を尖らせた。
「感触確かめてんじゃねーよ。太って悪いか」
「悪くない。真人が減るのはやだ。増える分にはいい」
「おい、ここでいちゃつくな。真人の歌声でアンコール始まる勢いだ!」
突如滑り込んで来た大垣に、二人は固まる。
「関係者出口、あっち! 逃げろ!」
大垣に促されるまま、駆け出すと、晃から手を伸ばされた。
差し出された手を受け取って、真人は会場から飛び出した。
日野の秋空は高く澄んで、どこまでも青かった。
これから、冬がやってくる。その後に、また春が巡る。季節が変わっていく気配に、真人は大きく息を吸い込んだ。
信号につかまり、真人が息を整えている横で、晃は帽子を被り直していた。
「晃、すっかり売れっ子になっちゃってさ。あのとき、よく一週間も休めたね」
「向こう十年分の夏休みの前借りだったって。あとから将軍から言われたよ。ほんとひでぇブラック企業だよな」
「あはは。でも楽しかったね」
「家も落ち着いて良かった。火村さんのとこに住んでるんだろ。火村さん、枕元に立ったりしてないか」
「たまにラップ音する」
「……怖えーな」
「いいの。地縛霊ってより、守護神だから」
真人はクスクス笑った。
「真人、火村さんに、マー坊って呼ばれてたんだろ」
「うん」
「……ずるい」
帽子の陰で顔の見えない晃が放った幼稚なワードに、真人は思わず眉を顰める。
「……どいつもこいつも、まひちゃんだの、まひ男だの。好き勝手に呼びやがって。おれにも、オリジナリティがほしい」
晃は握った手に力を込めた。
「……たとえば?」
真人が晃の顔を覗き込むと、晃は気まずそうに目を逸らした。
「真人……まひ」
「なに?」
「まひ、がいい」
「まひィ? そんなんでいいの?」
真人が困惑したように言うと、晃は満足そうに口角を上げて大きく頷いた。
「おれからもひとついい?」
今度は真人が晃に声をかけた。
「おれ、晃と一緒に歌いたい曲があるんだ。ギター、ちゃんと練習してよ。一緒にセッションしたいな」
「何? なんて曲?」
「それはねえ……」
真人が晃に内緒話をするのと同時に、信号が青に変わった。




