9 大切だから
小雪が去って行った方向を、春馬は呆然と見つめていた。
春の風に髪を揺らされる。顔が赤いのは、夕日に照らされているだけのせいじゃない。
(なんだ、あれ……)
見開かれた桜色の瞳に、先ほどの小雪の顔が蘇る。
──春馬君に、見惚れてる……。
恥ずかしそうに染まった頬と、申し訳なさそうに伏せられた目。こちらと目を合わせてくれなかったのは、自分の気持ちを後ろめたいものだと思っていたからじゃないか。
もしかしたら、彼女は今も先ほどのことを気にして落ち込んでるんじゃないのか。
──言えない。
ギターを弾く時に、抱えている不安を教えてくれなかったのも、自分の気持ちをこちらに伝えることが申し訳なかったからなんじゃないか。
彼女はきっと……自分が抱えてしまった好意のせいで苦しんでいる。
ここまで分かっているのに、気付けているのに。
(どうすればいいんだろう)
春馬は自分の口元を右手で隠して、小さく呟く。
「一原さんにとっての最適解は何だ?」
今まで、他人の気持ちを察することは得意だった。そして、その人に嫌悪感を抱かれないように振る舞うのだって得意だった。
なのに、今はその方法が分からない。
何が最適解なのか、分からない。
こんなこと初めてだ。
いつもなら、自分に言い寄る人間のことは適当にあしらって終わりなのに、彼女に同じことはしたくなかった。できなかった。
「……なんだよ。なんなんだよ、俺」
夕焼け色に染まる、人気の無い住宅街。十七時十五分の町内放送のメロディー。
帰らなくてはいけないのに、春馬の影はその場に縫い付けられたままだった。
* * *
太陽が沈む少し前。小雪は自宅に到着した。
玄関を上がると、肉の焼ける匂いがしてきた。
「ただいま……」
小雪がそう言いながらキッチンを覗くと、父がフライパンで料理をしていた。
「ああ、おかえり」
父は小雪を振り返って柔らかく笑う。その笑顔を見て、酷く安心した小雪はまた泣きそうになってしまった。
「……うん」
「あれ、何かあったのかい? 大丈夫?」
「ごめん、ちょっと……いっぱいいっぱいで。自分の部屋で休んでていいかな?」
潤んだ声でそう言う娘を見て、父は火を止めて歩いてくる。
「無理しなくていいよ。でも、もし誰かに言って楽になることなら、父さんに教えて欲しいんだ。小雪の話なら、父さん、いくらでも聞くから」
「お父さん……」
小雪は潤んだ目元を擦って、目を伏せたまま答える。
「好きな人、できたの」
「好きな人……男の子?」
「うん。私にとって特別で、でも……好きになっちゃ駄目な人」
話しているうちに、小雪の目から涙が出てくる。
「下心を持って近づいたら、すごく傷ついてしまう人……でも、すごく優しくて、私に興味を持ってくれる人」
放課後、ギターを聞かせてくれた時の春馬の顔が蘇る。
あの穏やかな笑顔でギターを奏でる彼の顔が。
──喜んで貰えてよかった。この曲、好きなんじゃないかなってずっと思ってたんだ。
あんな風に、自分の好きなものを考えて貰えたのも、喜ばせたいと思って貰えたのも、小雪にとっては初めてだった。
それが嬉しくて、ありがたくて、幸せで……でも、恋心を抱いたら彼に嫌われてしまうと分かっていたのだ。
だから、どうしたらいいのか分からなかった。
母親に対する気持ちと同じ。また、行き場のない気持ちを抱えてしまった。
「……どうしたらいいんだろう。どうしたら、これまで通り春馬君の傍にいられるんだろう」
そう言ったきり、泣きじゃくってしまう小雪の肩を、父はそっと擦る。
「小雪……父さんの言葉、少し聞いてくれる?」
「え……?」
小雪が泣き濡れた顔を上げると、父の優しい微笑みが目に入った。
「伝えられない言葉を溜め込むと、全部終わった後に後悔してしまうんだ。あの時、もっと気持ちを伝えておけばよかった。こんなつもりじゃなかったって……悔しくて苦しくなってしまう」
父は小雪の薄紫の瞳を見つめて、優しく告げる。
「相手を傷つけてしまうかもという心配はよく分かる。でも、父さんは……小雪の言葉は他人を傷つけるものじゃないと思うんだ。優しくて、澄んでいて、綺麗で……心の傷を埋めてくれる言葉。そういうものだと思ってるよ」
──君の周りの空気は、いつも冬の空みたいに澄み渡ってて、綺麗なんだ。
いつか春馬が言ってくれた言葉が蘇った。
「もし……この気持ちを伝えても、いつもみたいに『綺麗だ』って笑ってくれるかな……?」
小雪は震える声で尋ねる。
父は優しく微笑みながら、そっと頷いてくれた。
「断言はできないけど、そうだって信じてみてもいいんじゃないかな」
「……うん」
父の優しい笑顔と言葉に癒されて、小雪はコクリと頷き涙を拭った。
まだ不安はある。でも、どうか……この気持ちを伝えたとき、彼がいつものように笑ってくれますように。
彼の王子様の笑顔を思い出しながら、小雪は胸を押さえていた。
* * *
小雪が家に着く頃になって、ようやく春馬も帰宅した。
無言で玄関の鍵を閉め、居間に向かうと、テーブルの上には既に出来上がった麻婆豆腐と、ニラと卵の炒め物が置かれ、ラップがかかっていた。
「おかえり。遅かったわね」
台所の方から、祖母の声が聞こえてきた。
「ご飯炊けてるから食べようね」
「ああ、うん。よそうの手伝う」
春馬はいつものように朗らかな声を作って声を掛け、台所へ向かった。
流しで手洗いうがいをしてから、茶碗を持って炊飯器の方に歩いて行く。いつもよりも、きもち大人しい彼の様子を見て、祖母は味噌汁をよそいながら静かに微笑む。
「おうちゃんがお友達を連れてくるなんて、今までなかったわよね」
「そうだっけ」
「そうよ。学校で友達と話したとか、そういうことは教えてくれても、ばあちゃんには一度も紹介してくれなかったでしょう」
祖母がよそったしめじと豆腐の味噌汁から湯気が立ち上った。
「ばあちゃんに紹介したいって思った最初の人が、小雪さんだったのね」
祖母の言葉に、ご飯をよそう春馬の手がピタリと止まった。
「……そうなんだ。一原さんは、俺が初めて自分から興味を持った人」
脳裏に、いつもこっそり見つめていた彼女の静かな顔を思い描きながら、春馬はポツポツと語り出す。
「俺に近づく他の人と違って、俺に媚びない。俺をステータスで見ない。凜としてて、強くて、冬の朝の空気みたいに澄んでる人」
そこまで言って、次に思い浮かんだのは、一緒に昼食を食べたときに見せてくれた微笑みだった。
──あなたがいないと、少し、寂しいの。
その次に、旧校舎で見せてくれた潤んだ瞳と赤い頬、そして柔らかな微笑みが。
──私達、同盟関係で友達なのに、春馬君はいつも私と話すときに辛いのを誤魔化して笑ってる。それが嫌なの……。
その次は、先ほど部屋を見せたときの苛立った顔が。
──ごめん、近い……ちょっと、離れて。
ギターを弾き終えた後、こちらが近づきすぎた時の真っ赤な顔が。
──春馬君に、見惚れてる……。
申し訳なさそうに伏せられた目で告げられた、あの告白が。
彼女の見せてくれた何もかもが、網膜に焼き付いて忘れられなかった。
でも、今までのように忘れたいとは思わない。彼女と過ごした時間にあった何もかも……二人の間を漂う一呼吸分の空気の温度さえも、その時のまま覚えていたかった。
「……一原さんと過ごした時間だけは忘れたくないんだ。彼女のお陰で、記憶力が良くてよかったって初めて思えた。俺にとって、一原さんはそういう人」
春馬は祖母にそう伝えて、再度ご飯を盛り付け始める。
それっきり口を閉ざしてしまった春馬に、祖母は柔らかく微笑みながら告げるのだ。
「そういう人は人生の宝物よ。何があっても大切にしなさい」
祖母は、味噌汁を盛り終えたお椀を一つ、コンロの隣の調理スペースに置きながら続ける。
「心から大切だと思える人のことは、誰よりも愛せる人でありなさい。桜一朗」
祖母が名前をきちんと呼ぶときは、こちらに真剣な気持ちで語りかけている時だと、春馬は分かっていた。
今の言葉は、彼女からの贈り物であり、願いだ。
「どうやったら、愛せるのかな」
春馬はポツリと呟く。
祖母はそれに笑って答えてくれるのだ。
「大切だと伝えて、抱きしめてあげるの。体も、気持ちも、過去も未来も、全て」
二つ目のお椀にも味噌汁を盛りつけながら、彼女は続ける。
「相手の全てを受け入れて、『大丈夫』って笑ってあげるの」
──全てを受け入れて、「大丈夫」と笑ってあげる。
今までの春馬は、それができなかった。
他人には踏み込み過ぎず、こちらにも踏み込ませ過ぎないようにコントロールをしながら生きてきた。
その過程で、「能力の高さ」を打ち明けることや、「都合のいい人間という立ち位置」を確立することはあった。でもそれは、「自分の心の傷の核になるもの」に触れられないようにするためだ。
雑に扱っていい人間の傷なんて、誰も気にしない。その心理を利用して、春馬は自分を守っていたのだ。
そんな春馬にとって、他人は「外敵」でしかなかった。だから、心に分厚い壁を作って、必要以上に知ろうとすることも受け入れることもしてこなかった。
でも、小雪はその人達とは違うのだ。
(一原さんなら、どんなに踏み込まれてもいいし、どんな気持ちだって受け入れたいと思える。だから今日も、俺は彼女を抱きしめたんだ。あんなこと、他人にはしない)
それに気付いた途端、ずっと名前の付けられなかった彼女に対する欲の正体が分かった。
(ああ、そっか)
自分を優先して欲しいという寂しさも、あの可愛らしい笑顔を自分にだけ見せて欲しいという独占欲も、全部、彼女が特別だからだ。
(俺、一原さんのこと好きなんだ)
初めて気付いた恋心は、思っていたよりもシンプルだった。
下心、損得勘定、支配欲……昼ドラのようなどろついたものは何一つない。
彼女の名前にある雪のように、純白で綺麗で、清らかな感情だった。
触れたら溶けてしまいそうで、触れるのも躊躇われる。
ただ、丁寧に彼女を大切にしたい。そんな恋。
(彼女に……笑って欲しい。俺の前で、もう一回。いや、何度でも)
頬が桜色になっていく。春色の瞳も、切なげに伏せられる。
心臓が鼓動する度に、ギュッと締めつけられるような感覚になった。
(他の誰よりも俺の傍で、幸せそうに笑っていて欲しい。そのためなら、何だってできそうだ。俺の能力も、何もかも使ったっていい)
春馬はご飯を盛り終えて、炊飯器の蓋を閉めた。
心から迷いが消えていく。春馬は盛り終えた二人分のご飯を持って、微笑みながら祖母に声を掛けた。
「ばあちゃん、ありがとう。夕飯食べよう」
孫の笑顔を見て、祖母も嬉しそうに頷いたのだった。




