8 初めての気持ち
夕方五時前、そろそろ帰ろうということになり、春馬と小雪は二階から一階の玄関前に降りて来た。
玄関で靴を履く小雪に、春馬が尋ねる。
「忘れ物ない?」
「うん、鞄も持ったし、大丈夫」
「そっか。学校まで送ろうか? 初めて来た場所だし、俺と違って、すぐに道を覚えちゃう訳じゃないだろうし」
「たしかに自信ないかも……でも、いいの?」
「いいよ。送る」
春馬に優しい笑顔で頷かれ、小雪は照れ隠しに俯いて、ローファーのつま先をトントンと叩く。
「ばあちゃん、一原さんのこと学校まで送ってくるねー」
春馬が居間の方に声を掛けると、祖母が玄関まで何かが入ったビニール袋を持って歩いてきた。
「小雪さん、今日は来てくれてありがとね。これ、もし良かったら食べて」
「あ……ありがとうございます。えっと、これは……」
「牛乳寒天。おうちゃんが好きでよく作るんだけど、小雪さんにもお裾分けしてあげる」
そう言って、祖母は小雪の手に袋を持たせ、外側から包み込むように握る。どうやら、遠慮させる気はないらしい。それを感じ取って、小雪は「いただきます」と受け取った。
「ねえ、俺の分の牛乳寒天残ってる?」
春馬が心配そうな顔で祖母の顔を見た。
それを見て、祖母は「大丈夫よお」と笑う。
「いつもいっぱい作ってるでしょう。このぐらいじゃ無くならないわよ」
「ほんと? それ聞いて安心した」
「もう、いつも食い意地張るんだから参っちゃうわよ。ねえ、小雪さん」
祖母に話を振られて、小雪もクスリと笑う。
「ふふ……春馬君って食いしん坊なんですね。初めて知った」
「あ、馬鹿にしてる?」
「ううん……ちょっと可愛いなって思って、おかしくなってるだけ……」
「へえ、可愛いねえ……」
春馬はジトっとした目で小雪を見下ろす。
何か言いたげな顔だ。でも、何が言いたいか分からず、小雪は首を傾げる。
「な、何?」
「何でもないでーす」
春馬は唇を尖らせてそっぽを向いて、心の中で呟く。
(さっきあんなに可愛く笑ってた人が言うセリフじゃないでしょ。多分無自覚だろうけど。……他の人の前でも、あんな風に笑ってるのかな)
心に生まれた疑問に、胸が痛くなる。
(あー、まただ。クッキーの時と同じ。また一原さんに対して欲が出てる。こんな気持ち、無意味でしかないのに……)
「春馬君?」
小雪に声を掛けられて、春馬は我に返った。
「ああ、何?」
「ごめん。馬鹿にするつもりなかったんだけど……」
「あー大丈夫。俺の心の中の問題だから」
眉を下げてこちらを見つめてくる小雪にニコリと笑って、春馬は靴を履いた。
「ほら、暗くなる前に送ってく。ばあちゃん、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
春馬は速足で玄関を出ていく。小雪も慌ててそれについて行こうとしたその時だ。
「小雪さん!」
春馬の祖母に呼び止められた。
振り返ると、彼女が目元に皺を作りながら笑っていた。
「また遊びに来てね」
どことなく、以前見た春馬の無邪気な笑顔に似ている顔。それを見て、小雪はふわりと微笑む。
(素敵なおばあさんだな……)
孫思いな祖母の愛情に触れて、小雪は胸を温かくしながら頷いた。
「はい。また来ます」
ペコリとお辞儀をし、春馬の後をついて行く小雪を見て、彼の祖母は嬉しそうに目を細める。
「おうちゃんも、もう大丈夫になったのね」
* * *
小雪は自転車を押しながら、春馬と並んで夕方の住宅街を歩いた。
二人の影が、アスファルトに長く伸びる。五月も直前の夕暮れの空気は、寂しげだが温かかった。
「ありがとう。今日、楽しかった」
小雪が呟くように春馬に伝える。
「おばあさん、いい人だね」
「ああ、ばあちゃん? そうだねー。昔、両親のことで色々あった時に、迷わず俺に『一緒に暮らそう』って言ってくれた人だから」
「色々……?」
「うん。まあ簡単に言うと、教育方針に問題がある親でさ。会社のために俺を利用しようとして、めちゃくちゃ厳しい態度を取られてたの。それに耐えかねて、ばあちゃん家まで家出して……そっから、一緒に暮らしてる」
まるで何でもないように話す春馬。彼の落ち着いた表情を見て、小雪は暗い顔で目を逸らす。
「そっか……」
「あんまり重たく考えなくていいよ。過ぎたことだし、両親からの仕打ちを気にしたって仕方ない。他人に期待なんてするだけ無駄だから」
フッと笑いながらそう言う春馬に、小雪は小さく「その気持ちは分かるかも」と返す。
「私も……そう思うことが昔あったから」
「へえ、そうなの?」
「うん。でも……期待しても意味ないって分かってるのに、『大事にして欲しい』って期待しちゃうの」
小雪の脳裏に、夜、家を出ていく母親の顔が蘇る。
父がイラストレーターを目指すようになってから一、二か月が過ぎた頃以降、母親が化粧をして深夜に出掛けることが増えた。
当時小学五年生だった小雪には、母親が浮気をしていることに何となく察しがついていた。
その時の小雪は、何度も彼女にそのことを問いただしていたのだった。
「……どこ行くの」
「人に会って来る」
赤いルージュが塗られた厚い唇が動く。
「誰と会うの?」
「仕事の人」
赤いバラのピアスが耳に光っている。
「お父さん、具合悪いんだよ? なのに、看病もしないで他人に会いに行くの?」
ピンクのアイシャドウが塗られた目が、小雪の顔から逸れた。
「遅くならないうちに帰ってくるわよ」
そう言い捨てて、彼女はいつも家を出ていくのだ。
その言葉が守られたことが、一度でもあっただろうか。
――お母さんはいつも、私とお父さんのことを見ていない。他の誰かを見てる。どうして、こっちを見てくれないの……。
そんな苛立ちと悲しみを抱えて、毎日涙を堪えながらベッドで眠っていた。
当時のことを思い出して、また、小雪の目に涙が浮かんでしまう。
「大事にしてって期待しちゃうのは、自分がその人のことを大事にしようとしてるからで、見返りを求めてるだけだって気づいて……その後は、他人にあんまり興味が持てなくなったかも」
小雪は震える声でそう言いながら、俯き加減に歩く。
学校が見えてきた。あと少しで、春馬とも別れることになる。
今生の別れではないはずなのに、小雪はどうしようもなく寂しかった。
彼女が黙り込みながら歩くのを、春馬は横目で静かに見る。
俯き加減で顔が見えないが、先ほどの声から察するに、彼女は泣いているのだろう。きっと自分と同じで何か心に傷があって、それが忘れられずに苦しんでいるのかもしれない。
こういう時、どうしたら安心させられるのか、春馬が知っている方法は一つしかなかった。
昔、家出をしてきた自分を、祖母が抱きしめてくれた時のことを思い出しながら、春馬は彼女の名前を呼ぶ。
「ねえ、一原さん」
春馬の長い影が、その場に縫い付けられる。
急に立ち止まった彼に合わせて、小雪は顔を上げないまま立ち止まった。
「何……」
彼に顔を見られないように、俯いたまま尋ねる。
しかし、彼からは返事が返ってこない。その理由を気にする余裕もない小雪の体に……ふわりと、長い腕が回された。
「え……」
驚いて目を丸くする間に、背後からしっかりと、でも、優しく抱きしめられる。
「大丈夫だよ」
彼の優しい言葉が、温かい声で、耳元に零れ落ちた。
「大丈夫……無責任かもしれないけど、俺と一緒にいるときぐらい、安心して欲しい」
切なげな声で紡がれた言葉。それを受けて、小雪は顔を赤くしたまま目を見開いた。
「……ごめん。心配掛けちゃったけど……嬉しくて、何て言えばいいのか分からない」
やっとのことで、彼にそう伝えることができた。
すると、春風のように優しい声で答えが返ってくる。
「ありがとうでいいの」
春の夕暮れ。少し温くなったそよ風が二人の頬を撫でる。
「ありがとうでいいんだよ」
そう告げる春馬の顔は、穏やかに微笑んでいた。
――彼の優しさに包まれるのは何回目だろう。
羽織らせてくれたグレーのパーカー。朝、こっそりしてくれた挨拶。美味しそうに食べてくれた卵焼き。チョコチップクッキー作戦の時の応援。
そして、今、抱きしめてくれている腕の力――。
胸が痛い。でも、この痛みすら忘れたくない。
心の器が溢れてしまって涙が出そうだ。でも、こんなに苦しいのに幸せで仕方がない。
この気持ちは何なのだろう。どんな名前をつければいいのだろう。簡単な問いなのに、小雪はそれを認めるのが怖かった。
今はただ、もう少しこのまま、彼に包まれていたかった。
「……ありがとう」
「うん。もう平気?」
「……うん」
そう頷くと、彼の腕が離れていった。
小雪はゆっくりと顔を上げて、彼を見つめる。
すると、いつものように王子様の笑顔だった。
柔らかく細められた目、優し気にこちらを見つめる桜色の瞳。綺麗に上がった口角。夕風に吹かれて揺れる、少し癖のある黒髪。
また揶揄われると分かっているのに、見惚れてしまう。
もっと、ずっと、見ていたい――。
「一原さん、また見惚れてる?」
彼が揶揄い口調で尋ねてきた。
初対面の時と同様の、少しウザいニヤケ顔。いつもなら、思いっ切り否定するところだ。
でも、今日は――。
「……ごめん」
「ん?」
「見惚れてる。春馬君に、見惚れてる……」
赤い顔で俯きながら、小雪は小さな声でそう答えた。
彼女の素直な答えが意外で、春馬は言葉に詰まってしまった。
「え……」
「ごめん、私帰る。送ってくれてありがとう」
小雪は短く告げて、自転車に跨りペダルをこぎ始めた。
いつもより早いスピードで、風を切っていく。
――だーれも俺自身のことは考えてくれてないの。目が行ってるのは俺の容姿と能力だけね。
熱くなった頬が、夕方の風で冷めていく。
さっきは温く感じたのに、今は風が冷たかった。
(他の人みたいな下心なんて、抱きたくない。春馬君に嫌な思いをさせたくない。でも……でも……!)
小雪の目に、また涙が浮かぶ。
満たされてしまった心を、どうにか自己嫌悪で傷つけようとした。
幸せを感じたら、前のように戻れなくなる。
親友じゃなくなった後に、耐えられなくなる。
でも……もう、どうしようもなかった。
(私、春馬君のこと……好きだ)
認めてしまったが最後、胸が苦しくなって息が上手くできない。
(好きになっちゃ駄目なのに……好きになっちゃった……)
彼のくれた優しさも、容姿も、たまにこちらを揶揄ってくるところも……私に興味を持ってくれる春馬君が、好きだ――。
痛くて苦しくて仕方がない心臓と、熱くなってしまった頬と、溢れて止まらない涙と共に、小雪は必死に自転車を漕ぎ続けた。




