7 遠いようで、近くて
春馬の部屋は、予想していたよりもずっと物が少なかった。
横向きに置かれた細長い本棚には教科書類とノートが数冊入っているだけで、娯楽用の本は見当たらない。何でこんなに大きな本棚を部屋に置いているのか疑問に感じるほど、本が入っていなかった。
また、棚の上には雑貨が何一つない。更に言うと、白いデスクとありきたりな椅子以外には何も存在していない部屋だった。
殺風景。そんな言葉が小雪の頭に思い浮かんで、困惑のあまり瞬きしながら口を開けてしまった。
(何もない……)
「あれ、なんか驚いてる?」
春馬が不思議そうに小首を傾げた。この部屋の異質さに気づいていない様子だ。
彼の反応が意外で、小雪はびっくりした様子で尋ねる。
「だ、だって……物が少ないから。こんなに物がない部屋、初めて見た」
「あーそっか。一原さんの常識だと意外に感じるよね。たしかにそうだ」
春馬は納得したような顔で、部屋の中の押し入れを開ける。
まるで何も気にしていない様子だ。でも、含みのある言い方だったことが小雪の心をモヤモヤさせる。
(私の常識って……何それ。まるで、君には理解できないでしょ、みたいな言い方)
小雪が眉間に皺を寄せているのを他所に、春馬はアコースティックギターを取り出して椅子に座った。
チューニングを合わせつつ、小雪に「適当に座って」と声を掛ける。それに頷いて、小雪は床に正座した。
春馬はいつも、肝心なところで小雪に踏み込ませてくれない。小雪には、それがもどかしくてならなかった。
でも、踏み込まれたくないことに踏み込まれるのは、普通の人が想像する以上に苦しいのだということも、小雪は分かっていた。
だから、いつもどう声を掛ければいいのか分からなくて、黙り込んでしまうのだ。
(私にとって春馬君は、一番近くにいる友達のはずなのに……いつも、遠くにいるように錯覚しちゃう。春馬君は、いつも私に掴ませてくれない)
「ふふ、難しい顔してる」
春馬がギターを膝の上に置いて、小雪の方を見ていた。表情は、いつものニヤケ顔ではなくて、柔らかい笑顔だった。
「君の考えてること、当ててあげようか」
「……できるの?」
「うん。なんか、一原さんが考えてることが段々分かってきた。今から話すから、正解かどうか答え合わせしてよ」
春馬はそう言うと、ギターのCメジャーコードを丁寧に鳴らして語りだす。
「まず、俺の言葉で少し苛ついてるでしょ。俺の部屋が殺風景な理由を教えて貰えなかった上に、『君の常識と俺の常識は違うんだ』って拒絶されているように感じてる。どう?」
「……大体合ってる」
「そう。どこが違った?」
「拒絶されてるように感じてるんじゃない。単純に、部屋のことを私に教えてくれない事がもどかしいだけ。今だけじゃなくて、他の時もそう。私達、同盟関係で友達なのに、春馬君はいつも私と話すときに辛いのを誤魔化して笑ってる。それが嫌なの……」
小雪は制服のスカートをくしゃりと握って、春馬のことを真っすぐ見つめた。
「いつも、私が助けられてばっかり。どうしたら……私も、春馬君の力になれるの?」
小雪が意を決して尋ねると、春馬は優しく目を細めたまま答えるのだ。
「そのままの君で、傍にいてくれたらいいよ」
Aマイナーコードをゆっくりと奏でて、春馬は言葉を続ける。
「他の人と一緒にいるのは疲れちゃうんだけど、一原さんが隣にいてくれる時間は安心できるの。どんなに心が読めちゃっても、一原さんなら辛くない」
王子様の優しい笑顔を浮かべながら、ギターの弦を見つめる彼のことを見ているうちに、小雪の頬が熱くなる。
彼の言葉も、自分が彼にとって特別なことも、どうしてか嬉しかった。
心臓がうるさい。この音が聞こえないように、この気持ちが察されないように必死に祈る。
(喜んでるって、知られたくない……なんでだろう。知られちゃいけない気がする)
――なんか大体分かるんだよね、下心がある人間とか、俺を利用しようとする人間って。
彼が湖で言っていたことを思い出し、小雪は胸を強く押さえた。
(私の、これは……下心なのかな)
そんな強い不安に駆られて、小雪は目を伏せて手を震わせた。
(春馬君に、嫌われるのはいやだ……)
小雪は唾をゴクリと飲み込む。
彼女の様子に気づいて、春馬は静かに告げる。
「何も気にせず、これからも傍にいてよ」
「そ、そんなの無理……」
「何か不安?」
「……言えない」
――上手く言えない……。
春馬が自分のことを教えてくれないのはもどかしかったのに、小雪だって自分のことを上手く伝えることができない。
それは「どう反応すればいいのか分からないから」ではない。「嫌われたくないから」だ。
こんな気持ちになったことが、今まであっただろうか。
ここまで誰かに「嫌われたくない」と思ったことなんて――。
俯きながら黙り込んでしまった小雪を見て、春馬は責めることもせず、穏やかな声で告げた。
「じゃあ、言わなくていい」
「え……?」
「そんなの、俺と君にとっては些細な事だから」
些細な事。彼が言っている意味が分からなくて、小雪は眉を下げながら言葉に詰まった。
(私にとっては、些細な事じゃない……春馬君と話す時間も、伝える言葉も、全部大事でほんの少しも無駄にしたくない)
「あはは、意味伝わんなかったかな」
春馬は柔らかい笑い声を出した後、Fメジャーのコードを奏でて微笑んだ。
「沈黙も大事にしたいの。一原さんと一緒に過ごす時間はね」
春馬はそう言って、微笑んだまま曲を奏で始めた。
穏やかなギターの音。それに合わせるように優しい声でハミングをする。
この曲に、小雪も聞き覚えがあった。
「ブルームランドのメインストリートの曲……」
小雪の呟きに、春馬は演奏しながら頷く。
ブルームランドというのは、小雪が小さい頃に家族と遊びに行った隣町の遊園地だ。
マスコットキャラクターはライオンのレオネードというキャラクター。小雪が以前、春馬に拾って貰ったストラップがそれだった。
(もしかして、ストラップを見て気付いてくれたのかな……)
彼が一度見た物は忘れないと言っていたことを思い出す。
彼の能力上、あの時のことを覚えているのは当たり前のことだ。
しかし、そうとは分かっていても、小雪は嬉しくて堪らなかった。
何故なら、あの日のことは小雪にとって忘れられない思い出だったからだ。
(覚えててくれたの、嬉しい……)
彼も、二人の関係が始まった日を大切にしてくれていること……それが分かり、小雪の胸が温かくなっていく。
(近くにいるのに、遠くにいるみたいで、でも私に何かあったらすぐ歩み寄ってくれる……春馬君って、不思議な人)
小雪は胸に手を当てたまま、口元をほんの少し緩めて微笑む。
(もっと知っていいのかな……もっと、知りたいな)
先ほどまで感じていたモヤモヤが、少しずつ溶けていく。
沈黙も大切にしたいと言った彼の気持ちが、ほんの少し分かった気がした。
言葉が無くても、他の方法で伝え合える気持ちもきっとある。それに、言葉のない静けさだって、楽しめた方が友達らしい気もした。
似たもの同士の自分達だが、考え方も価値観も少しずつ違う。そんな差を認めて埋めていけたら、また少し彼に近づけるだろうか……と、小雪は考え込む。
出会ったばかりの時は近づくのも知るのも嫌だったはずなのに、今はこんなに彼との距離を埋めたいと思っている。本当に不思議だった。
演奏が終わる。
最後の一音が鳴り終わった後、小雪はギターを持って微笑む彼に伝える。
「ありがとう。聴けて嬉しかった」
柔らかい笑顔と共に伝えられた感謝の気持ち。春馬はそれを見て、微笑んだまま頷いた。
「喜んで貰えてよかった。この曲、好きなんじゃないかなってずっと思ってたんだ」
「やっぱり、ストラップで気付いてくれたの?」
「うん。俺も行ったことのある場所だったから。もうお土産も写真も捨てちゃったけど」
春馬はそう言うと、ギターを撫でながら目を伏せて笑う。
それを見た小雪は、思わず彼に尋ねてしまった。
「なんで捨てちゃったの……?」
「物が無くても思い出せるから。一回見たものとか、聞いたものとか、どんなに時間が経っても忘れられないんだ。だから、形にして残す意味がないの。俺の場合はね」
春馬は伏せていた目をゆっくりと上げ、桜色の瞳で小雪を見つめる。
「部屋の物が少ないのもそういう理由。本とかCDとか、一回読んだり聞いたりするだけで覚えちゃうんだ。だから、覚えたものを端から売ってたらこんな部屋になった」
春馬は、寂しそうな笑顔を浮かべながらそう答えてくれた。
(また、笑いながら辛いことを話してる。でも、今は少し……寂しそうなのが分かる)
小雪は春馬の笑顔を見ながら、眉を下げた。
(どうにかして、励ましたい。私にできることは何だろう……あ、そうだ!)
「春馬君、提案なんだけど……」
「うん、何?」
小雪は緊張に耐えながら、春馬の瞳をしっかり見つめて尋ねる。
「今度、一緒にブルームランドに行かない? 一緒に遊んで、思い出を作って、お土産を買って……部屋を賑やかにしようよ」
小雪の提案に、春馬は二回瞬きして聞き返す。
「二人で一緒に遊園地に行くの?」
「うん。そしたら、春馬君の気持ちも寂しくなくなるかもって……」
「ああ、俺のために……ふふ、そっか」
春馬はクスリと笑った後、王子様みたいな笑顔で小雪告げるのだ。
「ありがと。その言葉だけで少し元気出ちゃったよ」
彼の顔に明るさが戻り、小雪も嬉しくて目を輝かせる。
「ほんと?」
「うん、俺、嘘吐かないから──」
いつものように飄々とした態度を取ろうとした春馬だったが。
「やった……!」
小雪の満面の笑みを見て、冗談で言おうとした言葉が飛んでしまった。
笑うと優しそうに細くなる目。桜色に染まる頬。上品に口元を隠そうとする右手──。
(可愛い……こういう笑い方もするんだ。予想できてなかった)
春馬は息を飲んで、彼女の笑顔を見つめていた。
(他にはどんな顔をするんだろう。まだ俺に見せてない顔もあるのかな)
春馬はギターを床に置き、彼女の傍に歩み寄り……座り込んで、その髪に触れようとする。
(もっと近くで見たい)
近づいてくる大きな手。ほんの少し染まった頬と、真っ直ぐにこちらを見つめる甘い桜色の瞳。
それらに驚いて、小雪はピクリと体を強張らせる。
(何……近い)
心臓が鼓動を早める。頬が熱くて、息をするのも躊躇われてしまう。
(だ、駄目……どうしよう、心臓がうるさいの、バレちゃう……)
小雪は恥ずかしさに耐えかねて、目をギュッと瞑った。
春馬の指先が小雪の銀髪に触れる。さらりと、髪の毛が彼の指を伝うように落ちていった。
ほんの数秒のことなのに、小雪にはとても長く感じた。もう耐えられない。
「ごめん、近い……ちょっと、離れて」
小雪が絞り出すような声でそう伝えると春馬はハッと目を丸くして手を引っ込めた。
「ご、ごめん。好奇心に勝てなかった」
「好奇心……?」
「うん。なんていうか……一原さんの笑顔が、近くで見たくなったんだ。……変だな、俺」
春馬は立ち上がって、ギターを押し入れに戻しに向かう。
「目が悪い訳じゃないし、離れて顔を見ても絶対に忘れないのに……変なの」
そう言いながらギターを押し入れに仕舞った後、小雪に顔を見せないようにしながら、少し熱くなってしまった頬に手でパタパタと風を送る。
(一原さんと一緒の時の俺、ちょっと変だよね……)
そんな春馬の気持ちを知る由もない小雪は、まだドキドキしている胸を押さえながら、深く息を吐いていた。
(びっくりしたあ……ただでさえ春馬君といる時はドキドキしちゃうのに、近づかれて余計に……)
小雪の脳裏に先ほどの二人の距離が蘇る。
あの時、自分が止めてなかったらどうなっていたのだろう──。
(……って、これじゃ本当にいかがわしいことしに来たみたいじゃん! もう考えるのやめよう)
首をブンブンと横に振り、何とか気持ちを落ち着けようとするが、落ち着かない。
お互いに動揺してしまっているのに……二人揃って、まだ自分の気持ちに名前を付けることができないのだった。




