3 近づききれない
翌日、小雪は昨晩の興奮が治まらないまま登校した。
生徒玄関に入り、一年生達から羨望の眼差しを向けられ、同級生からは敬遠される。いつも通りの朝だ。
教室に入ると、自分の二つ隣の席には既に春馬が座っていた。
彼はこちらに気づくと、微笑みながらひらりと手を振る。
口元を見ると「おはよう」と動いていた。声には出していない様子だが。
(友達からの、挨拶……)
高校入学から今まで、されたことのないこと。嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちが込み上げる。
(どうやって返せばいいんだろう……)
小雪が頬を赤くしながら、とりあえず手を振り返そうと右手を上げかけたその時。彼女の奥の方から興奮した女子生徒の声が聞こえてきた。
「ねえ、春馬君、こっちに手を振ってるよ?」
「おはようって、私達に言ったのかなあ?」
二人の声を聞いて、小雪は慌てて手を下ろす。
(そうだ……春馬君って、モテるんだもんね……下手に親し気にしたら、反感買うかも)
小雪はいつものように表情を消して、席に着く。
英語の予習をしようとノートと教科書を開き、練習問題を解き始めたその時だ。
スマホが、ブー、ブーと二回振動した。
確認すると、「春馬桜一朗」のトークルームにメッセージが来ていたのだ。
――おはようって、一原さんに言ったんだよ?
(あ……やっぱり、そうだったんだ)
彼の席をちらりと見る。すると、つまらなそうな顔でスマホを眺めていた。
――朝の挨拶ぐらい返して欲しいな。俺達、同盟関係なのに。
次いで送られてきたそのメッセージを見て、彼が拗ねていることに気づいた小雪は弁解しようとメッセージを送る。
――ごめん。周りの人の目が気になって挨拶できなかった。春馬君はモテるみたいだし、仲良くしてたらファンの子にボコボコにされそうで。
ポコン、と音を立ててメッセージが送信された。
それと同時に、春馬が口元に手を当てて悶絶しだす。
「んんっ……」
(え、笑ってる?)
小雪が彼を訝しげに見つめていると、再びスマホが振動した。
――あんな完璧な正拳突きできる人がボコボコにされる訳ないでしょ。殴られる前に殴っちゃいなよ。
「は……!?」
小雪は思わず顔を真っ赤にした。
慌てて春馬の方を睨むと、彼はこちらを見てニヤリと笑っていた。
(あの人……!)
小雪は眉根に皺を寄せながら、指先に怒りを込めてメッセージを送る。
――殴る訳ないでしょ。私のことを何だと思ってるの?
間髪入れずに彼からメッセージが返ってきた。
――じゃあ、俺だけ特別?
(え……)
チラリと彼の方を見る。すると、静かな桜色の瞳をこちらに向けていた。
まるで、こちらを試しているような顔。その瞳と目を合わせるのが辛くて、小雪は慌てて顔を背ける。
(暴力されるのが特別とか……そんなのDVじゃん。健全な友達同士の『特別』じゃないよ)
数年前、母に怒鳴られて、自室の隅で頭を抱えていた父の姿が思い出される。
(あの人と同じことはしたくない)
小雪は目を伏せながら、返信を送った。
――もう殴らないよ。だから、暴力に特別を見出すのやめて欲しい。
既読はついたが、返信は来ない。
彼の方を見ると、前の席の男子に話しかけられているところだった。
「春馬ー。国語の課題見せてよ。記述が分かんなかったんだ」
「えー、また? まあ、いいけど」
ヘラヘラしながら白いノートを差し出す春馬を見て、小雪の胸にモヤモヤが生まれる。
(似てるなんて言ってたけど……結局、独りぼっちなのは私だけじゃん。同盟結ぼうって言ったのはそっちの癖に)
小雪は普段より強い筆圧で、英語の練習問題を解いていく。
他人に対してここまで苛立つことが初めてで、どうしたらいいのかよく分からなかった。
* * *
モヤモヤが晴れないまま迎えた昼休み。小雪はいつものように弁当を持って教室を出た。
行先は、屋上に続く階段の踊り場だ。
薫野高校は屋上が立ち入り禁止のため、その階段付近も必然的に人が来ない。一人で昼食をとるには最適な場所だった。
小雪は下の階から見えないように、上の階段の陰になるところへ腰を下ろす。
薄水色の弁当箱を開いて、今朝作った卵焼きに手を付けたその時だった。
また、スマホが二回振動したのだ。
確認すると、春馬からのメッセージだった。
――今どこ? お昼一緒に食べたいんだけど。
「え……」
思ってもみなかったことを言われて、小雪は目を丸くした。
今朝の様子を見る限りだと、きっと彼も誰かと一緒に昼食をとっているだろうと思ったのだ。
恐らく引く手あまたな彼が、自分と一緒に昼食をとろうとしてくれている……これは同盟関係だからだろうか。それとも、今朝のメッセージのことで少し気を遣わせてしまったのだろうか。
(いいのかな……一応、確認した方がいいかな?)
小雪は少し迷いながらも、指を動かす。
――私と一緒で大丈夫なの? 他に一緒に食べる人いないの?
すると、すぐに返信が返ってきた。
――君と一緒に食べたいの。他の誘いは全部断ったし。
(全部、断った……)
彼が自分を優先してくれていることが分かり、小雪の心が浮つく。
今朝はあんなにモヤモヤしていたのに、少し優しくされただけで、そのモヤモヤも霧散してしまった。
(ちょっと優しくされただけでこれとか……私、単純すぎる)
小雪は色白な頬を桜色に染めながら、返信を打つ。
――屋上前の階段の踊り場にいる。場所分かる? 美術準備室を奥に進んだところなんだけど。
メッセージを送信したら、すぐに返事が返ってきた。
――分かった。そっち行くね。
たったそれだけのメッセージなのに、彼の王子様の笑顔が目の前に浮かんでしまった。
うっかり空想に耽りそうになって、小雪は頭をブンブンと振る。
(落ち着かなきゃ……変にドキドキしてたら、きっと勘繰られる)
小雪は深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けようとする。
そうしているうちに、階段を上る音が聞こえて、春馬が姿を現した。
彼の手には、渋い唐草模様のランチバッグがある。
(え、おじいちゃん臭い……)
普段のキラキラした彼のイメージとそのバッグがどうにも結びつかず、小雪は困惑してしまった。
呆然と固まっている彼女に、春馬はにこやかに手を振る。
「やっほー。こんなところでご飯食べてたんだね」
「う……うん」
「あ、卵焼き美味しそー。俺の弁当の何かとトレードしてよ」
「ああ……いいけど」
春馬は小雪の隣に腰を下ろして、弁当箱を取り出す。
彼の弁当の中身を見て、小雪は再度目を丸くしてしまった。
(ふきのとうと、きんぴらごぼうと、厚揚げと、焼きサバ……渋い)
「この中だったら厚揚げかなー。卵焼きに見た目も似てるし。あ、一原さんって生姜大丈夫な人? ちょっと掛かってるけど」
「だ、大丈夫」
「じゃあ決まり。弁当箱出して」
小雪が弁当箱を差し出すと、春馬は空いているところに生姜の乗った厚揚げを入れてくれた。
小雪の方も、彼の弁当箱の厚揚げの分空いた場所に、自分の卵焼きを入れてやった。
「どうも。早速食べよっかな」
「うん。口に合うか分からないけど……」
「だいじょーぶ。いただきます」
春馬が卵焼きを一口で食べる姿を、小雪は少し緊張しながら見守る。
味は変じゃなかったはずだが……彼から「まずいね」と言われたら、向こう二か月は引きずってしまうかもしれない。ついでに言うと、同盟も解消したくなってしまうかも……と、小雪は不安のあまりゴクリと唾を飲んだ。
「……ん」
「どう?」
「甘い。美味しい」
春馬は目をキラリとさせながら卵焼きを飲み込み、小雪に向かって満面の笑顔を見せた。
「反応を見た感じ、一原さんが作ったんだよね?」
「う、うん。そうだけど」
「すごく美味しかった。一原さん家も甘い卵焼き派なんだね」
「うん。お父さんが甘い方が好きな人だから、いつも砂糖を入れてる」
「いやー、それ聞いて安心したよ。俺も甘い卵焼き派なんだよね。戦争にならなくて良かったー」
冗談めかしくそう言って、ケラケラと笑う彼の様子は、どこか子どものように無邪気に見えた。
(春馬君って、こんな顔もするんだ……ちょっと、可愛いかも)
小雪の口元が、自然と解けていく。
「ふふ……」
まるで雪解けを迎えた春の草むらのように、柔らかい笑顔。彼女が初めて見せてくれた笑顔を見て、春馬は目を見開いた。
「一原さんが笑った……」
春馬に呆然と指摘され、小雪の顔が一気に赤くなる。
「え……あ、これは、その……」
恥ずかしくてまごついてしまう彼女を見て、春馬は興奮した様子で尋ねた。
「ねえ、今まで学校で笑ってたことないよね? もしかして、今のが初めて?」
「う、うう……そう、かも」
「よっし! あはは、同盟関係結んでから、やっと少し一原さんに近づけた。すごい嬉しい」
春馬が心底嬉しそうに笑ってくれるのを見て、小雪の心臓がうるさくなる。
こんな風に、屈託なく笑っている彼が見られるなんて、思ってもみなかった。
彼の顔をずっと見続けていることが苦しくて、小雪は目線を下にしながら口を開く。
「春馬君の、周りには……色んな人がいて、私なんてその中の一人でしかないと思うけど……ちょっとだけ、特別になれたかな」
小雪が赤い顔でポツポツと尋ねると、春馬は「ふは」と笑って答える。
「特別に決まってんじゃん。じゃなきゃ、朝の挨拶もしないし、お昼も一緒に食べないから」
「そ、そっか……」
「そうなんだよ。てか、俺としては、学校でももっと一原さんと話したいんだけど?」
春馬から悪戯っ子の笑顔で覗き込まれて、小雪は真っ赤な顔を逸らす。
「それは……ちょっと。私、あんまり周りによく思われてないし……私と一緒にいたら、迷惑掛かっちゃうから」
「あー、周りの視線が気になっちゃう系ね。一原さんはそういう感じなんだね。なるほどなあ」
「分析しないで」
「ごめんて。まあ、でもさ。俺としては、他の人といるよりも、一原さんと一緒の方が落ち着けるんだよねー」
何でもない笑顔でそう言い切ってしまう春馬が魅力的に見えて、小雪は彼から目が離せなかった。
(平然と言ってのけちゃうんだもんなあ……そりゃ、モテるよね)
小雪がそんなことを思いながら見惚れていると、春馬はニヤリと口角を上げた。
「今、変な事考えたでしょ」
「考えてない。感心してただけ」
「ふーん、そういう事にしてあげましょうか」
(ちょっとウザいのは玉にキズだけど……)
小雪にジトっとした目で見られて、春馬は「ごめんごめん」と笑って誤魔化す。
そうやって軽薄な癖に、簡単に他人に優しくできてしまう彼が恨めしかった。
こんなにドキドキしてるのは、私だけなの――。
「ねえ、一原さん」
「あ、は、はい」
「放課後、ちょっと作戦会議しない?」
「作戦会議……?」
小雪が小首を傾げると、春馬は柔らかい微笑みと共に口を開いた。
「そ。俺と君が、学校でも同盟らしく仲良くできる方法について、一緒に考えてよ」
彼の申し出に、小雪は息を詰まらせる。
仮に作戦会議をしたとしても、自分が周囲に疎まれていることには変わらない。一緒にいることで、彼に迷惑を掛けてしまう可能性だって高いままだ。
でも、それとは別に……彼と少しでも長く一緒にいたいと思ってしまうのは、どうしてなのだろう。
初めての友達、だからだろうか。
「う……うん。いいよ」
迷った末に、小雪はコクリと頷いた。
(同盟結んでる以上、春馬君のことを蔑ろにする訳にはいかないし……別に、下心とか、ある訳じゃない。ただ、『お互いの相談には乗る』っていう条件を守ってるだけ)
赤くなってしまった頬から、妙な探りを入れられてしまうことが怖くて、小雪は俯きながら厚揚げを口に入れる。
生姜の効いた、どことなく懐かしい味。これが、彼の普段食べている味なのかと思うと、どうしてか気恥ずかしかった。
(まだ、春馬君の事、よく知らない……知りたいけど、知るのは、少し怖い……)
自分が自分じゃなくなってしまうような危うさに怯えながら、そして、それでも浮ついてしまう心を落ち着けようとしながら、小雪は昼食を食べ進めた。
彼女の様子を見ながら、春馬は心の中で呟く。
(そんな怖がらなくてもいいのに。俺はただ……無色透明な君と、一緒にいたいだけなんだけどな)
静かな顔で彼女を見つめた後、弁当の中のきんぴらごぼうを食べる。
(もっと笑ってよ。そっちの方が俺も嬉しいのにさ)
近づきたいのに近づききれない距離感が、二人の間にはあった。
もどかしくて、でもどうしていいのか、二人とも分からない。
しかし、それでも……二人きりで過ごす昼下がりが、もう少しだけ続いて欲しい――と、心の中で願う声が重なってしまうのだった。




