28 宝箱に仕舞って
蒔苗道場での見学を終え、二人がやってきたのは薫野湖公園だった。
もう桜は散ってしまったが、夕焼け空を反射する湖は桜一朗と待ち合わせた日と変わらず透き通っている。
竹花に連れられるままに、小雪は湖の脇にあるお土産小屋へと入っていった。
壁伝いに掛けられた、薫野湖の絵がついた木製キーホルダー。ブルームランドとコラボをした、レオネードのマスコット。あちこちで見かけるご当地キャラクターのストラップ。小雪は何となくそれらを見つめていたが、竹花はお土産には目もくれずにレジカウンターへと歩いていく。
「ミックスソフト、二つください」
店主のネームプレートを付けた、壮年の女性が、レジカウンター越しに二人を見て微笑んだ。
「ミックス二つね。少し待ってて」
女性はカウンターの奥にあるソフトクリーム用の機械を動かし、チョコレートとバニラのミックスソフトを二つ、カップに入れて出してくれた。
「二つで二二〇円です」
小雪が財布を取り出す前に、竹花が素早く支払いを済ませてしまった。
「ちょうどお預かりします。ありがとうね」
店主の女性に礼をして、竹花はミックスソフトを一つ、小雪に手渡す。
「ほら、ベンチで座って食べよう」
「お金……」
「後で貰う。君は奢られたくない性分だろうと分かっているから、心配するな」
クールな顔でそう告げられ、小雪はぼそりと「エスパーだ」と呟いた。
「聞こえてるぞ」
竹花は溜息交じりにそう言って、店の外へと歩き出す。
「溶ける前に食べよう」
「う、うん……」
落ち着いた様子でスタスタと歩いて行ってしまう彼を見ていると、道場で見せてくれた笑顔は幻覚だったんじゃないかという気すらした。
それだけじゃない。先ほど思い出した組手の記憶もだ。
(桔梗君って読めないな……昔の私は、彼の事をもっと分かっていたのかな……)
小雪は少しモヤモヤしながらも、竹花の後をついていった。
* * *
湖を目の前にする、お土産小屋の前のベンチに、二人一緒に腰を下ろす。
六月。梅雨を控えた空気は少し蒸し暑い。桜一朗と関係を持ってから、確実に、季節は前へと進んでしまった。
咲きかけの桜も、宵の空を移した湖も、春になりたての少し寒い空気も……全部思い出せる。彼が見せてくれた儚げな笑顔だって、忘れることなく覚えている。
でも、竹花の記憶を忘れてしまったように、桜一朗との記憶もいつか忘れてしまうのだろうか。そんな不安が胸を占めて、小雪は目を伏せる。
「……君はいつも、ここのソフトクリームを溶かしてしまうんだ」
竹花がプラスチックのスプーンでミックスソフトを掬いながら語り出す。
「大会で負けた時、真宙先輩がよくここに連れてきてくれた。僕と君と真宙先輩で、このベンチに座ってソフトクリームを食べてたんだ。悔し泣きしながら食べたミックスソフトは、いつも塩味が混ざってた。でも君は、ソフトクリームがドロドロに溶けるまで、泣きじゃくって一口も食べなかったんだ」
「……そうだったんだ。ごめん、上手く思い出せない」
「いや、いい。……君が忘れていても、僕にとっては大切な思い出なんだ。君が道場からいなくなっても、大会が終わる度にここへ来てた」
竹花は半分以上無くなったミックスソフトにスプーンを差し、空を見上げる。
「君が空手を辞める日、君が全体に挨拶をした後……みんなが帰った道場で、僕は君に言ったんだ。『本当は辞めたくないんじゃないか』って」
「覚えてない……」
「あの時の君の顔、言葉……何もかも、僕は忘れられなかった。強い後悔と一緒に心に焼き付いて、忘れることができなかった。辛い話になるかもしれないが、少し語ってもいいか?」
竹花に真剣な顔で尋ねられて、小雪は小さく頷いた。
「いいよ」
彼女が頷いてくれたことを確認して、竹花はゆっくりと口を開く。
「あの日……道場を出ていく君の背中に、僕は必死にこう言ったんだ。『本当は辞めたくないんじゃないか。だって君は、あんなに楽しそうに空手をしていたじゃないか』って。そしたら、君は……感情を押し殺したような薄い表情で、『好きなだけじゃどうにもならないんだよ』と、冷たい声で答えてくれた」
夕暮れの蒔苗道場。誰もいなくなった稽古場で、小雪は桔梗に冷たい表情を向けて告げる。
「好きなだけじゃどうにもならないんだよ。どんなに続けたくても、叶わない事だってあるの」
あの強く優しい彼女の口から、こんな言葉が飛び出してきたのが信じられない。桔梗は驚きで息を飲みながらも、何とか会話を繋げる。彼女を、空手に繋ぎとめようと、必死で。
「でも、君は僕の事を励ましてくれたじゃないか! 僕が家の事情で空手を辞めようか迷ってた時、組手をして、僕の気持ちを空手に繋ぎとめてくれた! 君のお陰で僕は空手を続けられたんだ。だから、僕も……!」
「桔梗君と私の家庭環境は違うでしょう」
「違う。違うけど、君の家だってきっと良くなる! 僕の家だってそうだったんだ。だから、君も空手を辞めなくても――」
辞めなくてもいい。その言葉が無責任なものだったと、桔梗は彼女の顔を見るまで気づけなかった。
「もし、私の家も元に戻るなら……その可能性が一ミリでも残ってたら、お父さんとお母さんは離婚なんてしなかったよ」
小雪の頬に、一筋の涙が伝う。
表情は、冷たい氷のように静かだった。
「お父さんは心を病まなかったし、お母さんは毎日怒鳴ったりしなかったよ」
彼女の冷めた顔を見て、桔梗は目を見開いたまま動けなかった。
「桔梗君には分からないよ、きっと」
彼女の表情から、あの日見た笑顔がどんどんと薄まっていく。
空手をする時の真剣な表情も、負けて悔しがっていた時の泣き顔も、桔梗が好きだった「一原小雪」の全てが、分厚い氷に閉ざされて見えなくなっていく。
彼女と過ごした時の事が、桔梗の頭に蘇っては、消えていった。
あの日々を、これで終わりにするなんて……絶対に嫌だ。
彼女が笑っていられる日々がこれで終わりだなんて、絶対に嫌だ――。
「分からないよ。でも、僕は君の幸せを諦めたくない」
桔梗はグッと息を詰まらせた後、真剣な眼差しを彼女に向けた。
「君がどんなに辛い状況にあっても、君と僕の距離がどんなに離れてしまうとしても……僕は、君が笑顔になる手伝いがしたい。だって、君は僕の憧れの人だから」
彼女の氷のように冷たい薄紫の瞳を見つめて、桔梗は迷いを捨てて言い切る。
「次に会う時までに、君を守れるぐらい強くなるって約束する。……僕が君を、もう一度幸せにしてみせる。だから、さよならなんて言わない」
桔梗の言葉を聞いて、小雪は涙を流しながら、死んだ瞳で笑った。
「そんな約束、無責任だよ。幸せなんて……簡単に、裏切るものなんだから」
小雪の脳裏に、ブルームランドで両親と手を繋いでいた時の事が蘇る。
あの日、「小雪が笑顔でいてくれることが、父さんと母さんの幸せなんだ」と笑っていた二人。でも結局、二人の眼差しは徐々に小雪から逸れていき、離婚に至ったのだ。
「幸せの風なんて、もう吹かないんだ」
小雪は泣きながらそう呟くと、桔梗に背を向けて道場から出て行ってしまった。
彼女を傷つけてしまった事も、彼女が笑ってくれなかった事も、酷く苦しくて……桔梗は涙目で胸を押さえる。
(……どんなに彼女が拒んでも、僕は……彼女が笑えるようになるまで、諦めたくない)
桔梗は涙を拭って、顔を上げた。
(強くなろう。彼女の幸せを、守ることができるように――)
後悔と、涙と、胸の痛み……そして、それ以上に強い決意。
夕暮れの稽古場で、桔梗はその全てを胸に刻んだのだった。
全て語り終え、桔梗は溶けかけたミックスソフトを口に運んだ。
彼の隣で、小雪は、また……泣きそうな顔で、ミックスソフトが溶けていくのを見つめていた。
「私、分かったよ」
小雪は涙をポロポロと零しながら、小さな声で続ける。
「桔梗君の事を忘れてたのは……あなたが羨ましかったから。辛い事を乗り越えて、前を向いて生きるあなたが眩しくて……あなたを思い出す度に、自分が醜く見えて苦しかったからだ……」
静かに涙を流す彼女に、桔梗は優しい眼差しを向ける。
「そうだったのか。……僕は君に救われたけど、君は僕と自分を比べて、苦しんでしまっていたんだな。気づけなくて、すまなかった」
「ううん……桔梗君は悪くない」
小雪は涙を流れるままにしながら、鼻を啜って続ける。
「私、ずっと伝えなきゃいけなかったんだ。『ありがとう』って」
「そうなのか」
「うん……でも、言えなかった『ありがとう』を思い出す度に苦しくなって、それすら覚えてなかった……せっかく、また会えたのに」
「今言ってくれただろう。それでいい」
桔梗は微笑みながら、ミックスソフトの最後の一口を食べ終えた。
そして、小雪の半分溶けたソフトを見て、柔らかい声で諭す。
「ほら、またソフトクリームを溶かしてる。そのままだと、ただのチョコレートミルクになるぞ。一口ぐらい食べたらどうだ」
「うん……」
小雪は泣きながら、ミックスソフトを一口食べた。
甘いはずなのに、涙の味がして少ししょっぱい。きっと自分は、この味のソフトクリームを食べていたのだろう。桔梗と真宙と、三人で。でも、その記憶を思い出せない。
まだ、あの頃の記憶を抱きしめながら前へ進んでいけるほど、小雪は大人になれていなかった。
「桔梗君の気持ち、ちゃんと受け取った。思い出も、少しだけ思い出した。でも……私、あなたと一緒に幸せになることはできない。私、あなたといることで、きっと色んな後悔を思い出してしまう。そのうち、幸せよりも後ろめたさが勝って……いつか破綻する。私のお父さんとお母さんみたいに」
「そうか……君がそう思うのなら、それでいい。でも、一つだけ聞いてくれ」
桔梗は、ミックスソフトが入っていたカップを少しだけ強く持ち直し、小雪の薄紫色の瞳を見て微笑んだ。
「春馬に泣かされたら、僕のところに来てくれ。そしたら、またここに連れていく。一緒にソフトクリームを溶かしながら、気が済むまで話そう」
梅雨前のじめじめした空気。透き通った湖。緑色が濃くなった木々。夕方色の空。それに照らされる、桔梗の優しくて柔らかい微笑み。
今のままだと、いつかきっと忘れてしまう。でも……少しずつ大人になって、今日の事を振り返られるようになったら……その時は、懐かしいなと笑えるだろうか。小雪は、そうだといいなと強く思いながら、泣きそうな顔で首を横に振った。
「そんな都合のいい人に、ならなくていいよ」
そう言って、涙で濡れた目元を細めて笑う。
「私に囚われないで、前を向いて。あなたならきっと、もっと幸せにしたい人を見つけられる。その人の隣で、今みたいに優しく笑っていて」
湿り気のある夏の風が、二人の髪を揺らす。
お互いの笑顔が、瞳に映る。
もう戻れない過去と、ずっと抱えていた想い。桔梗は優しく目を閉じながら、心の中の宝箱にそれらを仕舞い、そっと鍵をかけた。
穏やかな顔で目を開け、彼女に告げる。
「家の近くまで送る。ソフトクリームを食べきったら、一緒に帰ろう」




