27 忘れてしまった思い出
体育祭の翌週。六月最初の月曜日の教室に、桜一朗の姿は無かった。
朝のホームルーム直前、小雪は誰もいない彼の席を見つめて、不安げに眉を下げる。
(大丈夫かな……体育祭の後も全然話せなかったし、もしかして竹花君のこと気にしてるんじゃ……)
心配な気持ちが膨れ上がっていく。このまま何もせずにいるのが耐えられなくて、小雪はスマホを開いて彼にメッセージを送った。
――今日、休み? 大丈夫?
既読がつく様子はない。それが小雪の不安を加速させる。
(電話して、声、聞きたい……でも、していいのか分からないし)
小雪は悶々としたままスマホを閉じる。
朝のホームルームのチャイムが鳴って、担任の男性教師が教室に入ってきた。
「おはよう。ホームルーム始めるぞー。今日の連絡事項は……二学期の頭にある修学旅行の班決めについてだな。少し早いが、例年、今月中には班を決めてメンバー表を提出して貰うことになってる。同じ班になれるのはクラスの中のメンバーだけだから注意しろよ。今月末のロングホームルームで班決めを行うから、それまでに何となく話し合っておいてくれ」
担任の連絡を聞いて、教室内が少し賑わい始めた。
みんな、修学旅行が楽しみなのだろう。しかし、小雪はあまり喜べなかった。それどころじゃなかったからだ。
(桜一朗、どうしたんだろう……)
メッセージを送ってから、スマホはうんともすんとも言っていない。せめて既読がついたかどうかだけでも確認したかったが、まだホームルーム中だからと必死に堪えていた。
その時、丁度、担任の口から「春馬」の名前が出た。
「春馬は家族の都合で欠席らしいから、誰か班決めのこと共有してやってくれ」
「はーい!」
担任の言葉に、友部が元気のいい声で返事をする。それを聞いて、教室中が温かな笑い声で包まれた。特に名指しされていないのに、堂々と返事をしたのが笑いを誘ったようだった。
「連絡事項は以上だ。みんなの方から連絡事項は無いか?」
担任が尋ねるが、特に誰も手を上げなかったために、ホームルームは以上となった。
号令係の合図で規律と挨拶をし、小雪は再度着席する。
念のためスマホを確認するが、春馬からは特に返信が来てなかった。
(家族の事って言ってたし……もしかしたら、忙しいかも)
小雪がそう思ってメッセージアプリを閉じかけた時、新着の通知が届いた。
確認すると、竹花からのメッセージだった。
――今日の放課後、空いてたら少し時間をくれ。行きたい場所がある。
(ああ、この前言ってたこと……。今日は桜一朗が休みだし、心配掛けないうちに竹花君とのことに答えを出したい)
小雪は「分かった。放課後、正門で待ってる」と返信して、スマホを閉じた。
* * *
放課後、小雪が正門に来る頃には、既にそこに竹花が立っていた。
「はや……」
「一組のホームルーム終了が早かっただけだ」
竹花は涼しい顔でそう言うと、「行こう」と歩き出す。小雪も慌ててそれについて行った。
竹花の歩幅は桜一朗より幾分小さい。それは単に彼の方が背が低いからだろう。身長的には、百六十一センチの小雪より十センチぐらい高い程度だ。
いつも桜一朗と過ごしていた昼と夕方の間を、別の人間と過ごしている。そのことに対する違和感は、どうやったって拭えそうになかった。それだけ、彼と二人でいることが当たり前になっていたのだろう。
「ねえ、どこ行くの」
学校前の通りを歩きながら、小雪は尋ねる。すると、竹花は「君も知ってる場所だ」と落ち着いた声で答えた。
「蒔苗道場だよ。昔、僕と君が通っていた場所。そこに行く」
「え……道場に? 何で?」
「そこに僕と君の『きっかけ』が全部あるから。先生には許可を貰ってる」
竹花はそう言って、スタスタと歩いていく。
小雪は彼の言葉を反芻して、首を傾げた。
(僕と君の『きっかけ』が全部あるって……先週、私が思い出したことだけじゃないのかな)
彼と過ごした時のことを思い出してみようとするが、上手く頭に浮かばない。まるで、記憶の入っている箱に鍵をかけてしまっているようだ。
(私、何を忘れてるんだろう)
小雪は少しモヤモヤとしながらも、彼と並んで蒔苗道場への道を歩いて行った。
* * *
薫野東駅から徒歩で十分程度の場所にある、蒔苗道場。竹花はその扉をガラリと開け、玄関の中に入っていった。小雪もそれに続く。
稽古場の方に行くと、小学生ぐらいの子ども達が一生懸命に組み手の練習をしていた。
彼らの練習を監督していた男性が二人に気づき、子ども達に「そこまで!」と号令をかける。
そのまま全体に休憩を指示して、男性は二人の元に歩み寄ってきた。
「桔梗君、こんにちは。小雪さんは久しぶりだね」
男性は犬のように人懐っこい笑顔を覗かせた。
「蒔苗先生、お疲れ様です」
竹花がピシッと礼儀正しく頭を下げる。それを見た小雪も慌てて頭を下げた。
「お……お久しぶりです」
「あはは、そんなに緊張しなくていいよ。真宙とゴールデンウィークに会ってくれたんだって?」
「はい。真宙ちゃんが声を掛けてくれて」
「そっか。小雪さんと会えたの、すごく喜んでたよ。ありがとう」
蒔苗先生――真宙の父であり、この道場の師範である蒔苗正弘は、父親の顔でそう微笑んでいた。
「桔梗君から話は聞いてる。見学に来たんだよね」
「あ、ああ……はい」
そういうことになっているのか、と小雪は慌てて頷いた。
「桔梗君も、今日は見学だけ?」
「はい。今日は一原さんに空手をしていた時のことを思い出して貰うのが目的なので」
「分かった。じゃあ、お手本はまた今度頼もうか。二人とも稽古場の隅の方で見学していてね」
正弘に促され、二人は礼をしてから稽古場に入った。
二人が入ってくるのに気づいた子ども達が、元気よく挨拶してくれる。
「お疲れ様です!」
竹花がそれに「お疲れ様です」と返すのを見て、小雪もおずおずと挨拶を返した。
(なんか、この感じ久しぶり……でも、どうしてだろう。何か……何か、思い出せない事がある気がする)
小雪は目を伏せながら、竹花と共に稽古場の隅へ腰を下ろした。
休憩が終わり、稽古が再開される。
正弘の指導の下、子ども達が再び組手の練習を始めるのを二人で静かに見守った。
「……君は覚えていないかもしれないが、僕と君も、こうして一緒に組手をしていたんだ」
竹花がポツポツと語り始める。
「小学四年生の時、僕の家の家庭環境が一時的に悪化していたことがあった。ある企業の社長秘書だった父さんが、社長のハラスメントを理由に辞職したんだ。当時は母さんも専業主婦で、父さんが転職先を見つけるまで貯金を切り崩す生活をしていて……空手も、やめようかと何度も悩んだ」
竹花の言葉を、小雪は眉を下げながら聞いていた。
(お父さんの仕事が上手くいかなくなったこと。家庭環境が難しくなったこと……私と、境遇が似てる。そんなことがあったなんて、知らなかった)
小雪が悲し気な顔をしているのに気づき、竹花は目もとを柔らかく細める。
「でも結局、空手はまだ続けることができているんだ。それがどうしてか、分かるか?」
「どうしてなの?」
「君のお陰だよ。僕が悩みを吹っ切れるように、君が組手の相手をしてくれたんだ。小学校四年生の夏休み、半日練習が終わった後の、夕方の時間。丁度、今ぐらいの時間帯だ。思い出せないか?」
竹花の言葉を、小雪は頭の中で繰り返す。
(小学校四年生の夏休み。半日練習が終わった、夕方の時間……)
稽古場に響く子ども達の声。床を踏み込む音。さっき見た夕方が近づく空の色……。
「……あ」
小雪の頭に、懐かしい記憶が滲んできた。
小学四年生の夏休み。半日練習が終わり、生徒が続々と帰っていく中、竹花が名残惜しそうに稽古場を見つめていたのだ。
鼻を啜る音が聞こえて、小雪は彼が泣いているのだとすぐに気づいた。
迎えに来てくれた父に「少し待って」と断りを入れて、玄関から稽古場の前に引き返す。
そして、稽古場を見つめて立ち尽くしている竹花に、声を掛けたのだ。
「どうかしたの?」
すると、竹花は目元を擦って小雪の方を振り向いた。
「夏休みが終わったら、空手をやめようかなって迷ってるんだ」
彼は赤くなった目を険しくしながら、小雪を見つめてそう答えてくれた。
眉間に皺を寄せているのは、きっと泣きたいのを堪えているから――小雪は、なんとなくそれを察した。
「迷ってるってことは、まだ決めてないってことだよね?」
「うん……まだ、やめるって誰にも言えてないから」
彼の目に涙が浮かんでいく。
やがて頬を伝った二筋の涙を見て、小雪は静かに微笑みながら告げるのだ。
「ねえ、一緒に組手しようよ」
「え……何で」
「空手をすれば、本当は自分がどうしたいのか、分かると思う。本当にやめたいのか、本当は続けたいのか、確かめようよ」
小雪はそう言って、竹花の手を引いて稽古場に入った。
「お願いします」
彼女が礼をするのを見て、竹花も戸惑いながら礼を返す。
「……お願いします」
夕日が差し込む稽古場。目の前で構えを取る小雪の、鋭い眼差し。その凛とした空気に、飲まれていく。
(ここまで真剣な相手……全力でぶつからないと、失礼だ)
竹花はしっかりと構え直し、小さく跳ねながら攻撃の隙を伺う。
二人の距離が、近づく。
稽古場に、足を踏み込む音が響く。
半日練習が終わった後だ、疲れだって溜まってる。道着は汗の匂いがしたし、今もまた新しく汗をかいている。
やがて竹花が鋭い突きを繰り出した。
それを見て小雪は、ふっと笑って言ったのだ。
「桔梗君の空手って、好きな気持ちが全部こもってるよね」
――そうだ、あの日、私は。
「桔梗君にとって、空手はすごく大事なものなんだよね。私、分かってるよ」
そうやって、彼を励ましたんだ――。
「……思い出してくれたか?」
隣から声を掛けられ、小雪は我に返って頷いた。
「う、うん……」
「あの日の君が、僕と空手を繋ぎとめてくれたんだ。あの日……君の優しさに、強く救われたんだよ」
竹花はそう言って、ふわりと、切れ長なツリ目を細めて微笑むのだ。
「あの日から、君は僕の憧れだった」
彼の笑顔を見たのが初めてだったからだろうか。
それとも、彼と過ごした懐かしい記憶を思い出したからだろうか。
胸が熱くて、どうしたらいいのか分からなかった。
小雪は胸を押さえながら、俯く。
「なんで……忘れてたんだろう。空手、私も好きだったのに。桔梗君とする空手、きっと楽しかったはずなのに……まだ、全部思い出すことすら、できない」
「……そっか。いや、それでいいんだ」
「え……?」
「思い出せないってことは、心のどこかで思い出したくないと思ってるのかもしれないから。大切な記憶を思い出してくれただけで、十分嬉しい」
竹花の優しい笑顔と言葉が、これが彼の本心だと証明している。
たった、少し。ほんの少ししか思い出せなかった記憶。
でも、彼にとってはかけがえのない思い出。
あの一瞬で、自分は彼の世界を変えてしまったのだと……そう認識する度に胸が痛くなる理由を、小雪はすぐに気づいてしまった。
(私……あの日の自分に、責任が持てない。桔梗君がどんなに私を大事に想ってくれていても、私は、彼と過ごした大半の時間を思い出せない……だから、恋にすら、ならない。なれない)
小雪は胸元をぎゅっと押さえながら、小さな声で彼に告げる。
「ごめん……あなたの想いに応えられそうにない」
小雪が震える声で告げた答えに、竹花は動じることなく、静かに目を閉じて微笑んだ。
「そうだろうなと思ってたんだ。君はきっと……僕の事が嫌いだろうなって」
彼の言葉に、小雪は目を見開く。
「僕が、君の心に傷をつけてしまったから、きっと僕のことを思い出せないんだと思う」
夕方の稽古場。子ども達のやる気に満ちた声も、床の音も……懐かしい空気の何もかもが、遠くなってしまうように錯覚する。
「どういうこと……?」
小雪が尋ねると、竹花は穏やかな笑顔で告げるのだ。
「稽古が終わったら、もう一か所だけ付き合って欲しいんだ。そこで全部話すから」
彼の言葉に、小雪は不安げな顔で頷いたのだった。




