25 嫉妬と約束
いよいよ迎えた体育祭当日。午前中のプログラムも順調に進み、次の競技は借り物競争だ。
時刻は十一時半。小雪は体育祭運営本部にある救護班の席で、競技を観戦していた。
今のところ、怪我人や病人はいない。小雪はそれに安堵しつつも、暑さのせいで体調がいまいちだった。
(ちょっと具合悪いかも……でも、熱中症ってほどじゃない)
小雪は自分にそう言い聞かせ、学校指定の白Tの襟元をパタパタさせる。
隣に座っている竹花は、彼女が暑そうにしているのにすぐ気づいた。
「大丈夫か? 顔が赤いが」
「うん……ちょっと暑いかも。気温上がってきたし」
小雪は苦笑いしながら答える。
彼女の言う通り、今の気温は体感で二十八度ほどだ。今日は快晴で、気温も上がる予報だった。
猛暑日ほどではないが、まだ体が暑さに慣れていない時期。この気温は、暑さが苦手な小雪にはかなり堪える。
(ちょっと頭が痛いな……体も熱い)
小雪は浮かない顔で視線を落とす。
明らかに元気のない彼女を見て、竹花は救護班用のクーラーボックスから氷嚢を取り出した。
「熱中症の初期症状があるんじゃないか」
そう言いつつ、小雪の首の後ろに氷嚢を当てる。
唐突な冷たさに、小雪はビクッと肩を竦めた。
「うわ……」
「体調が悪いなら素直にそう言ってくれ。僕は救護班なんだから、遠慮するな」
「でも、私だって救護班……助けられるより、助けるのが仕事」
「救護する側の人間が体調不良だと、助けられる生徒も助けられなくなる。僕と君のためにも、無理はするな」
竹花は涼やかなツリ目を柔らかく細くする。口元はいつも通り真一文字に結ばれてしまったが、先ほどの声音は初対面の時よりも優しかった。
「……ありがとう」
「気にするな。これも仕事だ」
「竹花君って、意外といい人……」
つい本音が零れてしまった。小雪が「しまった」と思い振り返ると、竹花はクールな顔で溜息を吐いていた。
「別にいい人じゃない。頭が固いだけだ」
「素直じゃない……」
「君には言われたくないな」
竹花は呆れ顔だったが、それでも小雪に氷嚢を当て続けてくれた。
春馬とは違うタイプだし、彼がいる以上、竹花に惹かれる事は絶対に無いのだが、竹花も案外接しやすかった。
(気難しい人だと思ってたけど、多分、悪い人じゃない……)
小雪はそう思い、彼に対して感じていた緊張を解いた。
そんな二人のやり取りを、借り物競争の順番待ちだった春馬が目をスッと細めて見つめていた。
(誰だ、あいつ……)
大好きな彼女に気安く近づいている竹花に、ピリピリと苛立ちを覚える。
今すぐ彼を小雪から遠ざけたい。そんな嫉妬が心臓の鼓動を早めた。
冷静さを欠いてしまい、小雪の体調不良に気づく余裕すらなかった。
「借り物競争、第二走の生徒は準備して下さい」
スタート係の案内が入った。小雪の近くにいる男子への苛立ちは収まらないが、次は春馬の順番でもあったため、やむなくトラックの前に並ぶ。
「いちについて、よーい……」
パン! とピストルの音が鳴り、春馬は走り出した。
(今できるのは、とっとと出番を終わらせて小雪のところに行くこと……)
自分にそう言い聞かせて、お題の紙を拾い開く。
そこに書かれていた内容は――料理が上手い人。
料理上手と聞いて、春馬がすぐ連想するのは小雪しかいないのだ。
(好都合だ)
表情では冷静さを取り繕っていた春馬だったが、心の中では色々な気持ちが喧嘩していた。
彼女の所に行ける嬉しさと、彼女に近づく男子の顔を拝まなきゃいけない苛立ちと、応援席の女子が、「春馬君、こっち来ないかなー」とお気楽にはしゃぐことへの不快感。
全部、ごちゃまぜになって胸が苦しい。感受性が高いことを、ここまで恨んだのは久しぶりだった。
春馬は歯を食いしばり、葛藤を抑え込む。
そして、救護班の席にいる小雪の元へと走り寄った。
彼女の目の前に行き、眉間に皺を寄せながら肩で息をする。
「来て」
「え……」
明らかに機嫌の悪い彼を見て、小雪は戸惑ってしまった。
ただでさえ、体調が芳しくないのだ。上手く返事ができないし、スムーズに立つこともできない。
それが尚のこと春馬を苛立たせる。
「いいから、来て」
春馬は小雪の手を強引に掴んで走り出した。
彼に手を握られていること。その喜び以上に、彼の機嫌の悪さが気になってしまい小雪は不安だった。
そこに体調不良も重なり、気分の悪さと過呼吸に襲われる。
「は……はあっ……」
しかし、小雪はどうにかそれに耐えてゴールした。
春馬に握られていない方の手を膝につき、荒く呼吸をする。
彼女の様子がおかしいことに気づき、春馬は慌てて彼女の肩を支えた。
「小雪……」
「ご、ごめ……あんまり、体調良くない……暑くて、具合悪くて……」
「え……」
彼女の言葉に、春馬は冷静さを取り戻した。
先ほど、彼女に近づいていた男子の姿が蘇る。遠くからでも首の後ろに氷嚢を当てている姿は見えていた。
彼に下心があったのかは分からないが、小雪を助けようとしてくれていたのは間違いない。
嫉妬に駆られてそんな事実も見落としてしまっていた。春馬の胸に罪悪感と焦燥感が込み上げていく。
「ごめん、無理に走らせて。救護係のところ、行こ――」
春馬が彼女を支えながら歩き出したその時だ。
竹花の方から、こちらに駆け寄って来てくれたのだ。
手に持っているのは氷嚢。後ろからは養護教諭の女性も走ってきている。
「一原さん、大丈夫か」
竹花は彼女の首の後ろに氷嚢を当てる。
「保健室に行こう。先生には話を通してある」
「うん……ごめん」
「いい、これが僕の
仕事だ」
竹花はそう告げると、春馬の方を一瞥して短く告げる。
「春馬桜一朗。昼休みに、保健室前の廊下に来い」
「え……」
「拒否権は与えない」
竹花はそう言い切り、小雪を連れて保健室へと歩いて行った。
養護教諭も二人と合流し、校舎へと向かっていく。
初夏から梅雨になる前の蒸し暑さ。照り付ける日差し。遠くなる大好きな人と、彼女を支える知らない男の背中。そのすべてが、春馬の記憶に痛みを伴って焼き付く。
「何なんだよ……」
誰に向けたのか分からない苛立ちが、春馬の口から小さく零れ落ちた。
* * *
昼休み、春馬が保健室前の廊下に行くと、扉の前で竹花が腕を組み立っていた。
一度会った人の顔は忘れないはずの春馬だが、彼とはクラスが被っていないし、初対面のため名前も知らない。
春馬にとっては、ただ小雪の近くにいた人間という認識で、嫉妬の対象でしかなかった。
しかし、第一印象で不快な思いをさせてもメリットはない。そう思い、柔らかい笑顔を作って声を掛ける。
「おまたせ」
「ああ、待ったよ」
遠慮も気遣いも感じさせない彼の態度に、春馬は静かに苛立つ。
(何なんだこいつ……)
そう思いながらも、顔には出さないよう気を付けながら尋ねた。
「……君、名前は?」
「僕は竹花桔梗。二年一組。理系進学クラスに所属する保健委員だ」
竹花がご丁寧に名前と素性を教えてくれたが、全て聞いても春馬は彼のことを知らなかった。
名前を知られている心当たりなんて当然無い。
「俺と君、初対面だよね? 何で俺の名前を知ってたの。ついでに、ここに呼び出した理由も教えてよ」
飄々とした笑顔を作って尋ねるが、竹花はクールな表情を崩さないままだ。こちらの気遣いが何一つ響かないこの感じが、無性に腹立たしかった。
そんな春馬の苛立ちを察してか、竹花は目をスッと細めて冷たく告げる。
「君の名前は、父親から聞いていたから知っていた。竹花利恭という名前だ。聞いたことはないか」
「知らないけど」
「元フローリアの社長秘書だよ。君の父親が原因で退社している。ここまで言っても、本当に心当たりがないのか」
竹花は静かなトーンで淡々と尋ねる。その声からも、表情からも、感情を感じない。出会ったばかりの頃の小雪と同じで、何を考えているのか分からなかった。
しかし「君の父親が原因で退社している」という言葉から察するに、こちらの父に憎しみがあるとみて間違いないだろう。
ただ、それは父親にぶつけるべき恨みであって、息子の桜一朗がぶつけられていいものじゃない。
「悪いけど、俺は会社のことを詳しく知らないんだ。社員の情報なんて、個人情報だから尚のことね。君は俺が父さんと繋がってるって勘違いしてるようだけど、俺と父さんの関係は冷めてるよ。同居すらしてない」
「……そうか。君は父親が嫌いなのか?」
竹花が静かに問う。
彼の質問の意図も、その質問への答えも分からず、春馬は静かに唇を噛んだ。
(そんなことを聞いて、何がしたいんだよ)
父親の失望した顔が頭に蘇る。あの顔に怒りを覚えたのも、とうに昔の事だ。年を重ねるにつれて、怒る気力も無くなっていった。今は、「嫌いか嫌いじゃないか」の判断すら下したくない。
「……どうでもいいよ、あんな親。嫌いでも、好きでもない」
吐き捨てるようにそう告げると、竹花は一度目を閉じて考え込む。
痛いところをついてくる彼が、口を閉ざしてくれたのに安堵したのも束の間。やがて彼の口から出てくる言葉に、春馬は心をかき乱されてしまうのだ。
「君のその、中途半端で臆病な態度が、君を知ったその瞬間から嫌いだった」
竹花の温度の無い声と言葉に、春馬は目を見開く。
心臓の辺りが急速に冷えていく。校舎の外から聞こえてくる賑やかな声が、遠くなっていくように感じる。
春馬がショックを受けているのに気づきながらも、竹花は淡々と続けた。
「さっきの借り物競争、君は僕の存在が気がかりで、一原さんの体調不良に気づくことができなかっただろう。それはひとえに、僕に彼女を取られることが怖かったから。彼女を大切にしたい気持ちが、彼女を奪われる恐怖に負けたんだよ」
何もかも図星で、春馬は息を詰まらせた。
呼吸が乱れそうになるのを、必死に堪える。
しかし、心臓はうるさくて、めまいがしそうなほど気分が悪かった。
自身の高い感受性に、壊されそうになっているのだ。
「臆病である故に、他人を傷つけてしまうその行動……父さんから聞いた君の父親とそっくりだ。どんなにいがみ合っていても、君は血の繋がりからは逃げられない。その中途半端な態度のせいで君に期待してたかる女子からも、君が嫌いな僕からもだ。……いい加減、腹をくくったらどうだ」
「そんな話がしたくて、ここに連れて来た訳?」
春馬は吐き捨てるように尋ねる。
いつもの癖で口元は笑ってしまっているのに、目元は酷く険しかった。
「お前に俺の何が分かるんだよ」
春馬は竹花を強く睨んだ。
しかし、竹花は涼しい顔で答えるのだ。
「分からない。だが、それでも忠告しなきゃいけないんだよ。それが僕と彼女の約束だから」
「彼女? 誰だよそれ……」
「一原さんに聞いたらどうだ。……もう忘れているようだが、何度も聞いたら思い出すかもしれない」
「どういう意味だよ。お前は小雪の何なんだ? 何がしたくて、俺に喧嘩を売ってるんだよ……!」
いよいよ苛立ちが隠せなくなってしまった春馬に、竹花は落ち着いた目で答える。
「一原小雪を幸せにする。それが僕と彼女の約束なんだ」
「は……?」
「言いたいことは以上だ。後は自由にしてくれ。僕は教室で昼食をとる」
「おい、待て……!」
スタスタと歩いていってしまう竹花を見て、春馬は悔しそうに眉根を寄せた。
(臆病で中途半端……そんなの、自分が一番分かってるよ。でも、他にどうしようもないだろうが。そうじゃなきゃ、俺は上手く生きていけないんだよ……)
春馬が一人俯いている中、保健室のベッドの上で、仰向けに寝ていた小雪は目を丸くした。
(約束……)
脳裏に、薄っすらと空手をしていた時のことが蘇る。
――君が笑顔になる手伝いがしたい。だって、君は僕の憧れの人だから。
中学一年生まで通っていた蒔苗道場。空手を辞める最後の日に、同い年の男子が、真剣な顔でそう言ってくれていた――。
(まさか……あの時の人が、竹花君?)
恋のときめきとは違う。しかし、胸が熱くてザワザワとしている。
小雪がこの感情に名前をつけることができないまま、体育祭の昼休みが静かに過ぎていった。




