23 動き出す恋
時は流れ、いよいよ明日は体育祭だ。
行事を目前に控えた五月最後の金曜日。小雪達のクラスも、みんな浮き足立っている。
黒板には「白組優勝するぞ!」の文字があり、その周りにクラスメイトの寄せ書きやらイラストやらが賑やかに描かれていた。
小雪は苑香と可憐と共にそれを眺めて微笑む。
「体育祭楽しみだな……」
「ねー! 選抜リレーでぶっちぎるの凄く楽しみ」
「可憐は自信満々だね」
苑香がクスリと笑うのに対して、可憐は得意気に笑う。
「だって私、勉強より運動の方が得意だからさ。一年で一番輝ける日が、明日なんだよ」
堂々と言ってのけてしまう可憐を見て、二人はニコニコと笑う。
三人で笑い合っていると、小雪の元に春馬が歩いてきた。
「小雪、いつもの場所」
「ああ、うん……保健委員会が四時半からだから、それ終わるまで待ってて」
「分かった。待ってる」
春馬が優しく微笑んで去って行くのを、小雪が赤い顔で見つめていると、可憐と苑香がグイッと顔を近づけてきた。
「あの春馬君が女子を下の名前で呼んでる! どういうこと!?」
「二人ってどういう関係なの?」
興味津々といった様子で尋ねられ、小雪は頬を染めながらたじろいでしまった。
「え、えと……」
この関係を教えてもいいのか、春馬は嫌じゃないのか……少し考えてみて、堂々と下の名前で呼んでる時点で大丈夫だろうという結論に至った。
きっと二人になら教えても大丈夫だろう。こちらを陥れるようなことはしないはずだ。
「付き合ってるんだ……あんまり、言いふらさないで欲しいんだけど……」
小雪が真っ赤な顔で小さく答えると、可憐は興奮した様子で、でも声は抑えながら「そうなんだ……!」と笑ってくれた。
「内緒にするから、話聞きたい!」
可憐の隣で、苑香も繰り返し頷いていた。
二人の期待に満ちた様子に押し負けて、小雪は二人にだけ聞こえる声で答える。
「お……春馬君、は」
桜一朗と言いかけて、慌てて言い直した。
「揶揄ったり、ふざけたりしてくるけど……いつも、私が困ったときに優しく助けてくれる。春馬君が『大丈夫』って言ってくれると、大丈夫になれる……」
話しているうちに恥ずかしくなってしまい、小雪は顔をパタパタさせながら「ごめん、今日はこのぐらいで……」とか細い声で頼み込んだ。
彼女の初々しい様子を、二人は微笑ましく見つめている。
「今度話すときは、もっと詳しく聞かせてよ」
「小雪ちゃんが恋してるの、なんか可愛くて好きだなあ」
二人がにこやかに笑ってくれたのを見て、小雪は照れ笑いする。
チラリと時計を見ると、四時二十分だった。
「そろそろ保健委員会行ってくる」
「体育祭の連絡だよね。頑張ってね」
「うん」
小雪は二人に手を振って、保健室へと歩いて行った。
* * *
小雪は会議室で保健委員会の連絡事項を確認した。
担当教員からプリントが配られ、救護対応の当番表で自分の名前を探す。
(あった。十一時から昼休み前まで。えっと一緒に当番をする人は……竹花桔梗さん……?)
委員の名前を覚えることができていないため、竹花という人物がどんな顔なのかすら分からない。
救護対応の方法を全体で確認した後、小雪は竹花という人物を探そうか迷った挙げ句、春馬を待たせてるからいいかと思って会議室を出ようとした。
その時だ。
「一原さん」
涼しげな男子の声に呼び止められた。
振り返ると、細いフレームの眼鏡を掛けた、栗色のショートヘアの男子がこちらを見ていたのだ。
彼が誰なのか分からず、小雪は困惑してしまう。
「えっと……」
「ああ、やっぱり分からないか。僕は竹花桔梗。明日一緒に救護対応の当番をする者だ」
「あ……あなたが、竹花君」
小雪はペコリと頭を下げる。
「私、一原小雪……」
「知ってる。名前はプリントで確認した」
「……よろしく」
なんだか気難しい人だなと、小雪は不安げに眉を下げた。
(この人と一緒で大丈夫かな……)
小雪の気まずそうな顔を見て、竹花はふぅと溜息を吐く。
「今日は挨拶をしたかっただけなんだ。別に君にプレッシャーをかけるつもりはない。お互い、フォローし合いながら役目を全うしよう」
「……うん。頑張ろうね」
「ああ、よろしく頼む」
竹花は涼やかな声で短く言うと、会議室から出て行ってしまった。
(桜一朗とは別のベクトルで変な人……)
小雪は気疲れを誤魔化そうと溜息を吐いて、春馬が待つ旧校舎へと歩き出した。
* * *
旧校舎のいつもの教室に入ると、窓際の席で春馬がパインと桃のフルーツサンドを食べていた。
「お待たせ」
小雪が声を掛けると、春馬はフルーツサンドを口に放り込んで彼女に微笑む。
「もふはれ」
「何て言ったの?」
「むぐ……おつかれって言ったの」
フルーツサンドを飲み込んで、春馬はニコリと笑った。
「なんか、教室で楽しげだったね?」
「あ……うん。恋バナしてた」
「ふーん、誰の?」
「私の……」
小雪は顔を赤くしながら、彼の隣の席に座る。
「バラしたっていうか……バレちゃった」
「あー、俺が小雪って呼んだからだね」
彼が飄々と笑うのを見て、小雪はハッと気付いた。
「もしかして、狙ってたの?」
「ふふ。実はそうなんだ」
「そ、そんなの聞いてない……なんでいきなり」
小雪がじっとりとした目を向けると、春馬は柔らかく笑って告げる。
「小雪は可愛いから、他の人に狙われないようにアピールしたかった。それだけの理由ね」
春馬が王子様の笑顔で小雪を見ている。
いつもよりまだ色が薄い夕日。出会ってから季節は数歩進んだが、小雪は彼の笑顔が好きなままだ。
「……そっか、ありがと。でも私……他の人の所には行かないよ」
はにかみながらそう言う小雪に、春馬は微笑みながら言うのだ。
「知ってる。でも、君を好きな人達が、全員それを分かってくれるとは限らないでしょ。だから、これは保険。俺の彼女だから、手を出さないでねってアピールしといた方が安心なの。俺がね」
「そうなんだ……私も一応、気をつけておく」
小雪がポツリと呟くのを見て、春馬は満足げに頷いた。
「うん、そうして」
(なんか嬉しそう……)
彼の喜びが伝わってきて、つられた小雪も頬を緩める。
もし、彼が付き合っていることをオープンにしたいというのなら、こちらも普段から名前で呼んでもいいような気がする。でも一方で、それは少し恥ずかしかった。
「……ねえ」
「ん?」
「私も学校で、桜一朗って呼んだ方がいい?」
小雪が上目遣いに尋ねると、春馬はクスリと笑って口を開く。
「呼んでもいいし、呼ばなくてもいいよ」
「呼ばなくてもいいって、本気?」
「二人きりの時間の特別感が増すから、それでもいいなーって思ってる。決められない」
春馬にしては曖昧な答えだ。
しかし、小雪にも彼の考えている事が何となく分かった。
「私が心の中で桜一朗って呼んでるだけで、満足しちゃうんだ」
「ふふ、バレたか。仰るとおり、君が俺のことを親しく思ってくれてるだけで大満足」
「お腹は燃費悪いのに、心は低燃費……」
「お、言うようになったねー」
春馬がケラケラ笑うのがおかしくて、小雪も一緒に笑ってしまった。
「ふふ……きっと、桜一朗の性格がうつったんだ……」
「えー、俺のせいなの? 俺はそれが小雪の素と見たね」
「そんなことないよ。こんな私、知らないもん」
小雪は笑って出た涙を拭って、春馬に微笑む。
「桜一朗が、私を明るく変えてくれたんだよ、きっと」
小雪の言葉に、春馬も優しい顔で笑ってくれたのだった。
* * *
小雪を送り出した苑香と可憐も、苑香のバイトの時間に合わせて教室を出た。
生徒もまばらな廊下を歩きながら、可憐は苑香に尋ねる。
「小雪ちゃんの恋バナで思い出したんだけど、そのちゃんの恋バナ、最近聞いてないよね」
「ああ……実は進展なくて」
「そっか、まだ見つかってないんだねえ。中学の時に神社に通ってた初恋の男の子。お母さんの病気が治るようにって、必死にお願いしてた子だっけ」
「うん」
苑香は小さく頷いて、微笑みながら目を伏せる。
「ちょっと目つきが悪いんだけど、話してみたら凄く気さくな人だった。神様の話って、聞く人によっては『宗教っぽくて怖い』って思っちゃうんだけど、その人はそういう偏見もなかったなあ」
「その話、中学の時からずっと聞いてる」
可憐がニヤリと笑って苑香を小突く。
「そのちゃんはその人の事、本当に好きなんだなあって思うよ。いいなあ、私もそんな恋したい」
「ふふ、可憐はきっと、恋したらのめりこんじゃうんだろうなって思う」
「えへへ、実は私もそんな気がする。恋はバスケに満足してからかなあ」
二人で仲良く歩いていたその時だった。
廊下の反対側から歩いてきた黒髪のおさげの女子と、ウェーブのかかった茶髪の女子が、二人の前で立ち止まったのだ。
「ねえ、ちょっといい?」
おさげの方が声を掛ける。
苑香は彼女の顔を見て、すぐに名前を思い出した。
「伊瀬璃乃さんだよね。隣は木野望海さん」
「そのちゃん、知り合い?」
「一年生の時のクラスメイトだよ。それで、二人ともどうかした?」
苑香が尋ねると、伊瀬は機嫌の悪そうな顔で口を開く。
「二人って、よく一原小雪と一緒にいるよね。その子に、春馬君から離れるように言ってくれる?」
伊瀬の言葉に、可憐は戸惑って何も言えなかった。
しかし、苑香は落ち着いて尋ねる。
「どうして?」
すると、今度は木野の方が吐き捨てるように言うのだ。
「言わなきゃ分かんないの? 邪魔だからだよ」
「春馬君を独占してるのが許せないの。氷の女王って言われてる癖に、最近調子に乗ってるのが本当に腹立つ。二人もそう思わないの?」
伊瀬と木野の言葉を聞いて、可憐は顔を険しくして声を荒げる。
「何その言い方……! 小雪ちゃんのこと何も知らない癖に、調子に乗ってるとかどの口が言ってんの? あんたらみたいな子に、春馬君が靡く訳ないでしょ? だって、春馬君は――」
「可憐、待って」
苑香が冷静な声で彼女を制止し、首を横に振った。
それを見た可憐も、ハッと口を噤む。小雪が、二人の関係を言いふらさないでくれと言っていたのを思い出したのだ。
口を閉ざした可憐の代わりに、苑香が静かな表情で口を開く。
「好きな人に振り向いて欲しいなら、ライバルを蹴落とそうとするんじゃなくて、自分を磨いた方がいいと思うよ。春馬君にバレたくないから、小雪ちゃんに直接言わずに私達を利用するつもりだったんだろうけど……そういう悪意のある計算って、自然と明るみに出るものだから」
苑香は二人を真っすぐに見つめて、続ける。
「『天網恢々疎にして漏らさず』ってことわざ、一年生の国語の時間に辞書で引いたと思う。悪いことしても、いつか罰が下るだけだよ」
「……何なの。優等生気取り」
伊瀬が吐き捨てる。
「沖浜さんの家、神社なんだよね。神の期待には背くなーみたいな教育でもされてるの? だからそんなに優等生ぶってるんでしょ」
伊瀬の言葉に、木野も嘲笑を重ねる。
二人の態度を見て、苑香は静かに目を伏せた。
(今に始まったことじゃない。こういう反応をする人も珍しくないって、これまでの人生で学んできたでしょ)
心の中でそう呟き、冷静に感情を抑え込もうとする。
表情は落ち着いたままなのに、体の横で握られた拳は震えていた。
親友が馬鹿にされ、可憐が我慢できずに怒鳴ろうとしたその時だ。
「あれー! 沖浜さんと河原さん? 二人も居残り?」
場違いなぐらい明るい声が、二組の教室から聞こえてきたのだ。
教室の扉の方を見ると、帰り支度を終えた友部が、にこやかに駆け寄ってくるところだった。
「あーそういやさ、沖浜さんも今日シフト入ってるよね。一緒に行かない?」
「あ……うん。いいけど」
苑香が戸惑いながら頷く横で、可憐が眉間に皺を寄せながら彼を見る。
「友部、今それどころじゃないんだけど!」
「あー、ごめん! でもあと一個だけ!」
友部は申し訳なさそうな顔で両手を合わせて、苑香に笑顔で続ける。
「今年の初詣、沖浜さんちの神社に行ったんだけどさ、弟が『水泳の大会で一番取れますように』ってお願いしたらしいんだ。そしたらこの前のジュニアの地区大会で、本当に一番取ってさあ! すげー嬉しかったからお礼したかったんだ。ありがと!」
友部は屈託ない笑顔で言うと、伊瀬と木野に向かって朗らかに告げる。
「チラッと見かけた程度だけど、二人も初詣来てたでしょ? だったらさ、神様を使って他人を貶すより、神様に感謝しといた方がいい事あるんじゃねーかな」
友部の口調は穏やかで、決して攻撃的ではない。だがそれでも、二人を窘めようとする意図はよく表れていた。
いたたまれなくなった二人は、何も言わずにその場から逃げて行ってしまった。
まさか、普段おちゃらけているクラスメイトがこの場を収めてくれるとは思わず、可憐も苑香も呆然としてしまう。
驚いた顔で固まっている二人に向かって、友部はいつも通りの元気な笑顔を見せながら首を傾げた。
「何してんの? 早く帰ろ」
何てことないように笑う友部を見て、苑香は胸の辺りを押さえながらコクリと頷いたのだった。




