22 傷ついたままで
突然抱きしめられて、驚いた小雪はびくりと体を強張らせた。
それに気づいた春馬が、おちゃらけた声で尋ねる。
「ふふ、びっくりした?」
「す、するに決まってる……だって、急に来るし、抱きしめるし……」
「でも、嫌じゃないでしょ」
「……うん」
小雪はゆっくりと彼の体に腕を回し、強く抱きしめる。
「会いたかった」
「そうだろうなと思ったんだ」
「春馬君、私の考えてることが分かるようになっちゃったんだね」
「ずっと近くにいたからね」
春馬は穏やかに笑う。
笑い声と共に漏れた空気すらも愛おしくて、小雪は幸せだった。
「私が『何考えてるか分からない人』じゃなくなっても、一緒にいてくれるんだね」
少し試すような口調で言って、彼を抱きしめる力を強くする。
すると、春馬は小雪に回していた腕を緩めて、彼女のことを見下ろした。
「考えてることが分かっても分からなくても、一原さんは面白いから」
「ふふ、何それ……春馬君には言われたくない」
小雪は彼の顔を見つめて、クスクスと笑う。
「春馬君の方が面白いよ。食いしん坊で、色んな顔を見せてくれて、たまにふざけたり揶揄ってきたり。……あなたといると、最後には必ず『大丈夫』になれる。本当に不思議」
「今も大丈夫になった?」
「……うん」
小雪は彼から腕を離して、腫れぼったくなった目を細めて微笑む。
サラサラした銀髪が月明かりに照らされて、星空のように美しかった。
「家族で一緒に笑い合うのは叶わなかったけど……これからも、こっそり願ってることにする。未来がどうなるのか、春馬君を見てると分からないなって思うから」
「ふは、俺と仲良くなれたことが意外って言いたいの?」
「うん。こんなに大好きになれるなんて、思ってなかった。傷だらけの運命が、きっとあなたと私を繋いでくれたんだ。だから私、このままでいい。このまま、叶うか分からない願い事を忘れないまま生きることにする」
氷が溶けた、穏やかな微笑み。出会った時は笑顔すら見せてくれなかった彼女の、愛情がこもった笑顔。
優しく細められた薄紫の瞳も、柔らかそうな唇も、初夏の夜風に揺れる銀髪も、何もかもが春馬の網膜に焼き付いた。
「忘れられない性質」を持っていてよかった。彼女と過ごす一片の時間も、全て記憶に閉じ込めておくことができて、よかった。
そう思ってしまうほど、春馬は彼女に救われていた。
「俺も、君に会えて本当に幸せなんだ」
春馬は儚げに目を細めて、静かに笑う。
「君のお陰で、俺が俺でよかったって何度も思えた。役に立たない高い記憶力と感受性、他の中途半端な能力。仲の悪い家族も、息ができない世界も、このままでいいやって笑えたのは君のお陰」
春馬はそう言って、小雪の肩に手を置き、右頬にそっとキスをする。
「小雪」
真っ赤になった彼女の顔を見つめて、春馬は屈託なく笑った。
「大好きだよ」
彼の笑顔が、起きたら消えてしまう夢のように感じられてしまった事。
桜のように、散り際の花のように見えてしまった事。
直感で感じ取った不安以上に、彼の言葉が嬉しくて、幸せで……小雪は色々な気持ちが混ざった心を抱いたまま、彼を強く抱きしめた。
「私も好き」
――だからいなくならないで。消えないで。散らないで。
色々な言葉を飲み込んだまま、小雪は目を閉じて微笑む。
「桜一朗が、大好き」
氷が溶け、春が通り過ぎて、夏が来る。
永遠なんてない。叶わない願いもある。世界はそんなに優しくない。
それでも今はただ、春色の彼を好きでいたかった。
傷ついた自分のままで大丈夫だと、そう思わせてくれる彼のことを大好きでいたかった。
そんな小雪の願いが、初夏の星空に吸い込まれていったのだった。
* * *
春馬が小雪と別れて帰宅すると、居間から祖母の怒鳴り声が聞こえてきた。
「年寄扱いしないで頂戴! あんた達なんかに桜一朗を任せられないよ! 私が、死ぬまであの子の面倒をみる!」
祖母の言葉を聞き、春馬は居間に入らずに台所へ向かった。
テーブルの上には、案の定春馬の分の夕飯が置かれていた。小雪の家に行ってくるから先に食べててくれと伝えたため、言う通りにしてくれたのだろう。
茶碗にご飯をよそい、レンジで温める。その間に味噌汁も温めてよそった。
豚肉の生姜焼きと千切りキャベツに掛かったラップを外し、箸を取り出して席に着く。
「……いただきます」
居間に聞こえないぐらい小さな声で呟き、夕飯に手を付けた。
祖母の料理の味。初めて食べた時と変わらないはずなのに、今日は薄味に感じられた。
先ほど居間から聞こえた怒鳴り声。きっと両親と話していたのだろうと察しがつく。
両親のことは、もう上手く憎めない。ただ、祖母が怒ったり悲しんだりするのは嫌だった。
でも、どうすればいいのか分からない。
小雪のように、家族みんなでやり直したいと願うこともできなければ、家族に対して消えてしまえと怒鳴ることもできない。
自分の気持ちが、不透明な沼に沈んでしまったように分からないのだ。
(俺は……どうしたいんだろう)
祖母だって、いつまでも生きている訳ではないのだ。永遠なんてない。いつかこの日常も破綻する。
そうなった時、自分はどこに行けばよいのだろう。
(どこにも……行きたくないかも、しれない)
春馬は静かに目を伏せながら、ご飯を咀嚼した。
脳裏に、小雪の微笑みが蘇る。
――桜一朗が、大好き。
彼女がいればそれでいい。彼女がいる世界にしかいたくない。そんな気持ちが、薄っすらと見えてきた。
彼女を助けているつもりでいたが、結局、繋ぎとめて貰っているのは自分の方だ。春馬は苦笑いする。
(俺、きっと一人で生きていけない人間なんだろうな。子どもの頃も、花菜ちゃんがいなかったら、俺は多分……)
いつも笑顔で名前を呼んでくれた姉の顔が蘇る。
会いたいが、もう会えない。どこにいるのかも分からない姉の顔。
自分を置いて行ってしまったことも覚えているのに、どうしても彼女を責める気持ちにはなれなかった。
(どこで、何してるんだろう。元気なのかな)
そう心の中で呟きながら、春馬は夕飯を食べ進めていった。
* * *
関東都市部の近辺にあるアパート。その一室で、小さな男の子を寝かし付けてる女性がいた。
少し癖のある黒髪のポニーテール。桜色の優しげな垂れ目。彼女は我が子の体をポンポンと叩いて、微笑む。
やがて、子どもの寝息が聞こえてきた。それにほっと安堵し、女性は台所の方に戻っていく。
「逸樹君、桜舞寝てくれた」
女性が声を掛けたのは、茶色いショートヘアの背の高い男性だ。
彼は皿を洗い終え、水道の蛇口を閉める。そして、女性に向かってカラリと笑った。
「おつかれさま。桜舞、今日はいっぱいサッカーしたから疲れてたんだね」
「そうだね。私も付き合わされてヘトヘト」
「先に寝ててもいいよ。洗濯物は干しておく。どうせ僕、明日は休みだし」
「いやー寝たいけどさ、荷造りしなきゃ駄目なのよね。今週少しバタバタしてるし」
女性が溜息を吐きながら伸びをした。
それを見て、逸樹も「そうだった」と苦笑いする。
「新幹線、一週間後の十三時だよね。で、十六時過ぎの在来線に乗り換えて、薫野に着くのが十七時半」
「さすが。完璧だよ」
朗らかに笑う女性に向かって、逸樹は微笑みながら尋ねる。
「高卒で家を出てから、もう四年か。ご家族には連絡した?」
逸樹の質問に対して、女性は気まずそうに頬を掻く。
「……まだ。まあ、両親は関東住みだし、もともと会うつもりないから──」
「話逸らさない。薫野の家族に連絡したのか聞いてるんだよ。弟君に会うために帰るんでしょ?」
「……うん。でも、何て声掛ければいいのか分からなくて」
ぽそぽそと呟く女性を見て、逸樹は溜息を吐いて、仕方ないなと言いたげに笑う。
「仲良かったんでしょ。きっと大丈夫。弟君も、花菜さんに会えたら喜ぶよ」
逸樹の言葉に、女性──花菜は自信なさげに笑った。
「そうだといいな。……桜一朗、元気かな」




