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春色の雪  作者: 月島
第五章 溶ける氷と戻れない過去
22/26

22 傷ついたままで

 突然抱きしめられて、驚いた小雪(こゆき)はびくりと体を強張らせた。

 それに気づいた春馬(はるま)が、おちゃらけた声で尋ねる。


「ふふ、びっくりした?」

「す、するに決まってる……だって、急に来るし、抱きしめるし……」

「でも、嫌じゃないでしょ」

「……うん」


 小雪(こゆき)はゆっくりと彼の体に腕を回し、強く抱きしめる。


「会いたかった」

「そうだろうなと思ったんだ」

春馬(はるま)君、私の考えてることが分かるようになっちゃったんだね」

「ずっと近くにいたからね」


 春馬(はるま)は穏やかに笑う。

 笑い声と共に漏れた空気すらも愛おしくて、小雪(こゆき)は幸せだった。


「私が『何考えてるか分からない人』じゃなくなっても、一緒にいてくれるんだね」


 少し試すような口調で言って、彼を抱きしめる力を強くする。

 すると、春馬(はるま)小雪(こゆき)に回していた腕を緩めて、彼女のことを見下ろした。


「考えてることが分かっても分からなくても、一原(いちはら)さんは面白いから」

「ふふ、何それ……春馬(はるま)君には言われたくない」


 小雪(こゆき)は彼の顔を見つめて、クスクスと笑う。


春馬(はるま)君の方が面白いよ。食いしん坊で、色んな顔を見せてくれて、たまにふざけたり揶揄ってきたり。……あなたといると、最後には必ず『大丈夫』になれる。本当に不思議」

「今も大丈夫になった?」

「……うん」


 小雪(こゆき)は彼から腕を離して、腫れぼったくなった目を細めて微笑む。

 サラサラした銀髪が月明かりに照らされて、星空のように美しかった。


「家族で一緒に笑い合うのは叶わなかったけど……これからも、こっそり願ってることにする。未来がどうなるのか、春馬(はるま)君を見てると分からないなって思うから」

「ふは、俺と仲良くなれたことが意外って言いたいの?」

「うん。こんなに大好きになれるなんて、思ってなかった。傷だらけの運命が、きっとあなたと私を繋いでくれたんだ。だから私、このままでいい。このまま、叶うか分からない願い事を忘れないまま生きることにする」


 氷が溶けた、穏やかな微笑み。出会った時は笑顔すら見せてくれなかった彼女の、愛情がこもった笑顔。

 優しく細められた薄紫の瞳も、柔らかそうな唇も、初夏の夜風に揺れる銀髪も、何もかもが春馬(はるま)の網膜に焼き付いた。

 「忘れられない性質」を持っていてよかった。彼女と過ごす一片の時間も、全て記憶に閉じ込めておくことができて、よかった。

 そう思ってしまうほど、春馬(はるま)は彼女に救われていた。


「俺も、君に会えて本当に幸せなんだ」


 春馬(はるま)は儚げに目を細めて、静かに笑う。


「君のお陰で、俺が俺でよかったって何度も思えた。役に立たない高い記憶力と感受性、他の中途半端な能力。仲の悪い家族も、息ができない世界も、このままでいいやって笑えたのは君のお陰」


 春馬(はるま)はそう言って、小雪(こゆき)の肩に手を置き、右頬にそっとキスをする。


小雪(こゆき)


 真っ赤になった彼女の顔を見つめて、春馬(はるま)は屈託なく笑った。


「大好きだよ」


 彼の笑顔が、起きたら消えてしまう夢のように感じられてしまった事。

 桜のように、散り際の花のように見えてしまった事。

 直感で感じ取った不安以上に、彼の言葉が嬉しくて、幸せで……小雪(こゆき)は色々な気持ちが混ざった心を抱いたまま、彼を強く抱きしめた。


「私も好き」


 ――だからいなくならないで。消えないで。散らないで。


 色々な言葉を飲み込んだまま、小雪(こゆき)は目を閉じて微笑む。


桜一朗(おういちろう)が、大好き」


 氷が溶け、春が通り過ぎて、夏が来る。

 永遠なんてない。叶わない願いもある。世界はそんなに優しくない。

 それでも今はただ、春色の彼を好きでいたかった。

 傷ついた自分のままで大丈夫だと、そう思わせてくれる彼のことを大好きでいたかった。

 そんな小雪(こゆき)の願いが、初夏の星空に吸い込まれていったのだった。


* * *


 春馬(はるま)小雪(こゆき)と別れて帰宅すると、居間から祖母の怒鳴り声が聞こえてきた。


「年寄扱いしないで頂戴! あんた達なんかに桜一朗(おういちろう)を任せられないよ! 私が、死ぬまであの子の面倒をみる!」


 祖母の言葉を聞き、春馬(はるま)は居間に入らずに台所へ向かった。

 テーブルの上には、案の定春馬(はるま)の分の夕飯が置かれていた。小雪(こゆき)の家に行ってくるから先に食べててくれと伝えたため、言う通りにしてくれたのだろう。

 茶碗にご飯をよそい、レンジで温める。その間に味噌汁も温めてよそった。

 豚肉の生姜焼きと千切りキャベツに掛かったラップを外し、箸を取り出して席に着く。


「……いただきます」


 居間に聞こえないぐらい小さな声で呟き、夕飯に手を付けた。

 祖母の料理の味。初めて食べた時と変わらないはずなのに、今日は薄味に感じられた。

 先ほど居間から聞こえた怒鳴り声。きっと両親と話していたのだろうと察しがつく。

 両親のことは、もう上手く憎めない。ただ、祖母が怒ったり悲しんだりするのは嫌だった。

 でも、どうすればいいのか分からない。

 小雪(こゆき)のように、家族みんなでやり直したいと願うこともできなければ、家族に対して消えてしまえと怒鳴ることもできない。

 自分の気持ちが、不透明な沼に沈んでしまったように分からないのだ。


(俺は……どうしたいんだろう)


 祖母だって、いつまでも生きている訳ではないのだ。永遠なんてない。いつかこの日常も破綻する。

 そうなった時、自分はどこに行けばよいのだろう。


(どこにも……行きたくないかも、しれない)


 春馬(はるま)は静かに目を伏せながら、ご飯を咀嚼した。

 脳裏に、小雪(こゆき)の微笑みが蘇る。


 ――桜一朗(おういちろう)が、大好き。


 彼女がいればそれでいい。彼女がいる世界にしかいたくない。そんな気持ちが、薄っすらと見えてきた。

 彼女を助けているつもりでいたが、結局、繋ぎとめて貰っているのは自分の方だ。春馬(はるま)は苦笑いする。


(俺、きっと一人で生きていけない人間なんだろうな。子どもの頃も、花菜(かな)ちゃんがいなかったら、俺は多分……)


 いつも笑顔で名前を呼んでくれた姉の顔が蘇る。

 会いたいが、もう会えない。どこにいるのかも分からない姉の顔。

 自分を置いて行ってしまったことも覚えているのに、どうしても彼女を責める気持ちにはなれなかった。


(どこで、何してるんだろう。元気なのかな)


 そう心の中で呟きながら、春馬(はるま)は夕飯を食べ進めていった。


* * *


 関東都市部の近辺にあるアパート。その一室で、小さな男の子を寝かし付けてる女性がいた。

 少し癖のある黒髪のポニーテール。桜色の優しげな垂れ目。彼女は我が子の体をポンポンと叩いて、微笑む。

 やがて、子どもの寝息が聞こえてきた。それにほっと安堵し、女性は台所の方に戻っていく。


逸樹(いつき)君、桜舞(さくま)寝てくれた」


 女性が声を掛けたのは、茶色いショートヘアの背の高い男性だ。

 彼は皿を洗い終え、水道の蛇口を閉める。そして、女性に向かってカラリと笑った。


「おつかれさま。桜舞(さくま)、今日はいっぱいサッカーしたから疲れてたんだね」

「そうだね。私も付き合わされてヘトヘト」

「先に寝ててもいいよ。洗濯物は干しておく。どうせ僕、明日は休みだし」

「いやー寝たいけどさ、荷造りしなきゃ駄目なのよね。今週少しバタバタしてるし」


 女性が溜息を吐きながら伸びをした。

 それを見て、逸樹(いつき)も「そうだった」と苦笑いする。


「新幹線、一週間後の十三時だよね。で、十六時過ぎの在来線に乗り換えて、薫野(かおるの)に着くのが十七時半」

「さすが。完璧だよ」


 朗らかに笑う女性に向かって、逸樹(いつき)は微笑みながら尋ねる。


「高卒で家を出てから、もう四年か。ご家族には連絡した?」


 逸樹(いつき)の質問に対して、女性は気まずそうに頬を掻く。


「……まだ。まあ、両親は関東住みだし、もともと会うつもりないから──」

「話逸らさない。薫野(かおるの)の家族に連絡したのか聞いてるんだよ。弟君に会うために帰るんでしょ?」

「……うん。でも、何て声掛ければいいのか分からなくて」


 ぽそぽそと呟く女性を見て、逸樹(いつき)は溜息を吐いて、仕方ないなと言いたげに笑う。


「仲良かったんでしょ。きっと大丈夫。弟君も、花菜(かな)さんに会えたら喜ぶよ」


 逸樹(いつき)の言葉に、女性──花菜(かな)は自信なさげに笑った。


「そうだといいな。……桜一朗(おういちろう)、元気かな」

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