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春色の雪  作者: 月島
第五章 溶ける氷と戻れない過去
21/25

21 幸せの風はもう吹かない

 小雪(こゆき)の父が作業部屋から休憩しようと出てきた頃、玄関が開く音がした。


「ただいま……」


 小雪(こゆき)の声を聞き、父は「おかえり」と玄関の方へ歩いて行って……目を丸くした。

 小雪(こゆき)と共に、元妻が玄関に上がっていたからだ。


「……なんで、今更ここに」


 父は痛む胸を震える右手で押さえながら、妻に尋ねる。

 彼の反応を見て、何も言えずに黙り込んでしまう母の代わりに、小雪(こゆき)が答えた。


「学校の前で会ったの。……三人で、話がしたくて来て貰った」

「もう何も話すことなんて無いだろう? あったら、離婚になんてならなかったんじゃ――」

「お父さん。……辛いの、分かる。でも、お願い」


 小雪(こゆき)が泣き出しそうな顔で頼むのを見て、父は言いたいことをすべて飲み込み……頷いた。


「分かった……上がって」


 父の許しが得られたことを確認し、小雪(こゆき)は母と共に家に上がった。

 リビングのテーブルに向かい、母と小雪(こゆき)が向かい合わせに、父が小雪(こゆき)の隣に座る。

 全員が席に着いたものの、誰も口を開かない。ただ、痛いほどの沈黙が家の中を満たしていった。


「……お父さん、小雪(こゆき)


 母が、緊張で掠れた声で二人を呼ぶ。


「何も言わずに、家を出てごめんなさい。でも私……浮気はしてないの」


 母の言葉に、二人は目を丸くする。

 父も小雪(こゆき)も、彼女の言っていることが信じられなかったのだ。


「信じて貰えないのは分かってる。何も言わなかった私も悪い。でも、これ……見て、欲しい」


 母がそう言って鞄から取り出したのは、銀行通帳だった。

 母名義の地方銀行の通帳。それを父は受け取り、開いていく。


「……一千万」


 通帳に入っている金額を見て、父は目を見開いて息を飲んだ。


「どうしたんだ、このお金」

「あなたが絵の仕事で稼ぐことを目指すようになって……体を壊しがちになった時から、レストランと知り合いの飲み屋さんで稼いでたお金。離婚した後も、小雪(こゆき)の養育費と私の生活費と分けてずっと貯めてたの。……全部、小雪(こゆき)のためのお金」


 小雪(こゆき)の脳裏に、夜、化粧をして出掛けていった母の姿が蘇る。

 

「まさか夜に化粧して出掛けてたのも、そのため?」


 小雪(こゆき)は震える声で尋ねる。


「私のために、お母さんは働きに行ってたってこと……?」


 小雪(こゆき)の言葉に、母は小さく頷いて答える。


「絵の仕事だけで食べていけるほど、世の中は甘くない。会社員の仕事もままならなくなってるお父さんを見て、私が稼がなきゃって思ったの。……お父さんは、もう頼れない。こんな人に家族のことを任せられない……そう思って、沢山喧嘩しちゃったわね」


 母は弱々しく笑いながら、俯いた。

 夫の顔は、一切見ない。

 父の方も、こちらを見ようとしない妻の顔から目を離した。


「あなたはそれでも父親なのかと君に怒鳴られたことを、今でも夢に見るんだ。それを見て、泣きながら目を覚まして……辛いんだよ、今も」

「ごめんなさい」

「いや……謝られてもきっと、僕は君を夢に見るんだ。それはきっと、君に対するトラウマ以上に、自分自身を許せない僕がいるからだ。僕も自分を、父親失格だと思ってるから……今も心が弱くて、小雪(こゆき)に頼りきりなんだろう」


 父は自嘲気味に笑う。その綺麗なツリ目から、涙が零れ落ちた。


「この通帳を見せられて、君の言いたいことに察しがついたよ。小雪(こゆき)と一緒に暮らしたいんだろう」


 美しい銀色の前髪をくしゃりとさせて、父は声を震わせる。

 母はそれに、小さな声で「うん」と頷いた。

 

小雪(こゆき)ともう一度、一緒に暮らしたくて……もう一度、親子になりたくて、ここに来たの」


 母はそう言うと、不安げな顔で小雪(こゆき)を見つめた。


「私の言いたいことはこれで全部。どうするのかは、あなたが決めていい」

「そんな……お父さん」


 唐突な選択を迫られ、小雪(こゆき)は思わず父の方を見る。

 すると、父は眉間に皺を寄せたまま、涙を拭って頷くのだ。


「僕もそれでいい。小雪(こゆき)が母さんと暮らしたいなら……無理をして僕と一緒にいる必要はないんだ。きっと、母さんの方が、小雪(こゆき)のことを守ってくれる」


 父と母の目線は、未だに交わってくれない。

 どちらも自分を大切にしようとしてくれているのは分かるのに、小雪(こゆき)は笑顔になれなかった。

 それは、もう……「家族みんなで笑い合いたい」という願い事が破綻していると、分かってしまっているからだった。


「お父さんも、お母さんも」


 俯いた小雪(こゆき)から、潤んだ声が零れ落ちる。


「『三人で一緒に暮らそう』って、言ってくれないんだね」


 涙がポロポロと、テーブルに零れては水たまりを作っていった。


「もう、昔みたいに笑い合えないんだね……」


 重苦しい沈黙が、リビングの中を満たしていった。

 その静寂が、何よりの答えだった。


(ごめん、春馬(はるま)君。大丈夫にならなかった。やっぱり、叶わなかったよ)


 ――もし、魔法使いが願い星のジュースをくれたらさ、何をお願いする?


 春馬(はるま)が穏やかな顔で尋ねてくれたことが、頭の中に蘇った。

 あの時、彼もきっと、こちらの思いを察してくれていたのだろう。叶わない思いを諦めるのが辛くて苦しんでいたから、「願っていい」と言ってくれたのだろう。

 そんな彼の優しさが、今は酷く恋しかった。

 彼にもう一度、「願ってもいい」と言って欲しかった。


「私……もう一回、家族みんなで仲良く暮らすのが夢だったんだ。色んなことがあったけど、お父さんのことも、お母さんのことも、大切だったから。でも……もう叶わないなら、いいよ」


 小雪(こゆき)は涙を拭って顔を上げ、無理やり笑顔を作る。


「お母さん、私の事、考えてくれてありがとう。……でも私はこの家にいたいんだ。家族で過ごしたこの家で……息、してたい。幸せな思い出を忘れないようにしながら、この家で、今まで通り暮らしていくよ」


 小雪(こゆき)の言葉を聞いて、母は涙を流しながら目線を下げる。口元を覆って、嗚咽を漏らしながら頷いていた。


「……ごめんね」


 母が呟く。


「ごめんね、小雪(こゆき)……」


 小雪(こゆき)の隣では、父もすすり泣いていた。


 ――そっか。三人で集まっても、もう幸せの風は吹かないんだ。


 小雪(こゆき)は溢れる涙を流れるままにしながら、必死に微笑んで、二人に告げるのだ。


「三人で暮らす夢は、もういい。でも……今日、新しくできた夢の方は、叶って欲しいんだ。……私の大切な人達が、幸せでいてくれますようにって夢。それを叶えたいから……二人にも、幸せでいて欲しい」


 小雪(こゆき)の言葉を聞いて、両親が顔を上げて彼女を見つめた。

 二人の視線が自分にある。二人が自分を見ていてくれている。それを感じながら、小雪(こゆき)はぐちゃぐちゃになった心を抱きしめて、笑った。


「三人一緒にいなくても……みんなが幸せでいられる家族の形が、見つかったら嬉しいな」


 傷ついた心で、必死に前を向いて。

 歩くのも辛いのに、ケガをした足を必死に動かして。

 過去の幸せを吸い込みながら、息が苦しい世界を生きて。

 きっとこれからも、そうやって生きていく。

 それでもいいんだと微笑みながら、膿んだ心の傷に繰り返し包帯を巻いて――。

 

「いつか……もし、また、三人で会うことができたら、その時は昔みたいに笑ってね」


 小雪(こゆき)は胸を押さえながら、でも、最後まで笑顔でいようと心に決めて表情を崩さなかった。


「幸せの風が吹いたねって、三人で笑い合おうね」


* * *


 三人で話した後、母は静かに帰っていった。

 彼女のトートバッグに入っていたレオネードが小雪(こゆき)の手に渡ることは、無かった。

 泣き過ぎて椅子から動けなくなってしまった父に、小雪(こゆき)はアールグレイの紅茶を出して静かに伝える。


「お父さん、ありがとう。三人で話せて……私、満足した」

「ごめん……小雪(こゆき)の願いを、叶える事ができなくて」


 泣きじゃくりながらそう零す父に、小雪(こゆき)は赤くなった目を優しく細めて「いいの」と告げる。


「三人で暮らしても、幸せになれないなら、もういいんだ。無理に今のまま三人で暮らしても、きっといつかしわ寄せが来る」

「でも……」

「三人で暮らせなくても、お父さんが幸せに笑ってくれているなら、いいんだ。それだけで、いいんだ……。お金の事とか、色んな事が気になっちゃったかもしれないけど、それでも私、お父さんが描くイラストが大好きだから。これからもどうか、素敵な作品を生み出して私に見せて」


 聞き分けのいい娘の顔で、小雪(こゆき)は微笑む。

 娘の言葉を聞いて、父は呼吸を整えて立ち上がった。


「ずっと描くよ。……小雪(こゆき)が好きって言ってくれるなら、手が動かなくなるまで描き続ける。だから……」


 父は腫れた目で小雪(こゆき)を見つめながら、潤んだ声で告げる。


「これからも、小雪(こゆき)のことを大事にさせて欲しい」

「……うん」

「ごめん、少し……部屋で休んでくる」


 父はアールグレイの入ったマグカップを持って、フラフラと自室に向かって歩いて行ってしまった。

 一人きりになったリビングで、小雪(こゆき)は小さく息を吐いた。


(……終わっちゃった)


 もう涙も出そうにない。ただ、胸が痛くて、痛くて。


(辛いな。痛いな……)


 自分の体を抱きしめながら、目を閉じて息を詰まらせる。


(誰かの……ううん、春馬(はるま)君の笑顔が見たい。『大丈夫』って、笑って抱きしめて欲しい……会いたい)


 小雪(こゆき)が目を固く閉じて、そう強く念じていたその時だった。

 制服のスカートに入りっぱなしだったスマホが、ブーブーと振動したのだ。

 確認すると、春馬桜一朗のトークルームにメッセージが来ていた。


 ――ちょっと玄関から出られる?


 彼の言葉の真意が分からずに困惑していると、すぐに次のメッセージが来た。


 ――家の前まで来てるんだ。顔が見たくて。


(来てくれてるんだ……ちょっと、会うだけなら)


 小雪(こゆき)はメッセージに既読だけつけて、玄関に向かった。

 ローファーを履くのが面倒だったため、傍に出ていたスーパーフローリアの福引で当てた限定サンダルを履く。

 先端が無いスリッパのような形の、桜のロゴが入ったサンダル。決してお洒落ではないため、出先で買うのは気乗りしない。でも少し外に出るだけならと、深く考えずにそれを履いてしまった。

 玄関のドアを開けて外に出ると、家の前の道にパーカー姿の春馬(はるま)が立っていた。


「こんばんは。……頑張ったね」


 彼は柔らかく微笑むと、小雪(こゆき)に歩み寄って、静かに彼女を抱きしめた。

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