21 幸せの風はもう吹かない
小雪の父が作業部屋から休憩しようと出てきた頃、玄関が開く音がした。
「ただいま……」
小雪の声を聞き、父は「おかえり」と玄関の方へ歩いて行って……目を丸くした。
小雪と共に、元妻が玄関に上がっていたからだ。
「……なんで、今更ここに」
父は痛む胸を震える右手で押さえながら、妻に尋ねる。
彼の反応を見て、何も言えずに黙り込んでしまう母の代わりに、小雪が答えた。
「学校の前で会ったの。……三人で、話がしたくて来て貰った」
「もう何も話すことなんて無いだろう? あったら、離婚になんてならなかったんじゃ――」
「お父さん。……辛いの、分かる。でも、お願い」
小雪が泣き出しそうな顔で頼むのを見て、父は言いたいことをすべて飲み込み……頷いた。
「分かった……上がって」
父の許しが得られたことを確認し、小雪は母と共に家に上がった。
リビングのテーブルに向かい、母と小雪が向かい合わせに、父が小雪の隣に座る。
全員が席に着いたものの、誰も口を開かない。ただ、痛いほどの沈黙が家の中を満たしていった。
「……お父さん、小雪」
母が、緊張で掠れた声で二人を呼ぶ。
「何も言わずに、家を出てごめんなさい。でも私……浮気はしてないの」
母の言葉に、二人は目を丸くする。
父も小雪も、彼女の言っていることが信じられなかったのだ。
「信じて貰えないのは分かってる。何も言わなかった私も悪い。でも、これ……見て、欲しい」
母がそう言って鞄から取り出したのは、銀行通帳だった。
母名義の地方銀行の通帳。それを父は受け取り、開いていく。
「……一千万」
通帳に入っている金額を見て、父は目を見開いて息を飲んだ。
「どうしたんだ、このお金」
「あなたが絵の仕事で稼ぐことを目指すようになって……体を壊しがちになった時から、レストランと知り合いの飲み屋さんで稼いでたお金。離婚した後も、小雪の養育費と私の生活費と分けてずっと貯めてたの。……全部、小雪のためのお金」
小雪の脳裏に、夜、化粧をして出掛けていった母の姿が蘇る。
「まさか夜に化粧して出掛けてたのも、そのため?」
小雪は震える声で尋ねる。
「私のために、お母さんは働きに行ってたってこと……?」
小雪の言葉に、母は小さく頷いて答える。
「絵の仕事だけで食べていけるほど、世の中は甘くない。会社員の仕事もままならなくなってるお父さんを見て、私が稼がなきゃって思ったの。……お父さんは、もう頼れない。こんな人に家族のことを任せられない……そう思って、沢山喧嘩しちゃったわね」
母は弱々しく笑いながら、俯いた。
夫の顔は、一切見ない。
父の方も、こちらを見ようとしない妻の顔から目を離した。
「あなたはそれでも父親なのかと君に怒鳴られたことを、今でも夢に見るんだ。それを見て、泣きながら目を覚まして……辛いんだよ、今も」
「ごめんなさい」
「いや……謝られてもきっと、僕は君を夢に見るんだ。それはきっと、君に対するトラウマ以上に、自分自身を許せない僕がいるからだ。僕も自分を、父親失格だと思ってるから……今も心が弱くて、小雪に頼りきりなんだろう」
父は自嘲気味に笑う。その綺麗なツリ目から、涙が零れ落ちた。
「この通帳を見せられて、君の言いたいことに察しがついたよ。小雪と一緒に暮らしたいんだろう」
美しい銀色の前髪をくしゃりとさせて、父は声を震わせる。
母はそれに、小さな声で「うん」と頷いた。
「小雪ともう一度、一緒に暮らしたくて……もう一度、親子になりたくて、ここに来たの」
母はそう言うと、不安げな顔で小雪を見つめた。
「私の言いたいことはこれで全部。どうするのかは、あなたが決めていい」
「そんな……お父さん」
唐突な選択を迫られ、小雪は思わず父の方を見る。
すると、父は眉間に皺を寄せたまま、涙を拭って頷くのだ。
「僕もそれでいい。小雪が母さんと暮らしたいなら……無理をして僕と一緒にいる必要はないんだ。きっと、母さんの方が、小雪のことを守ってくれる」
父と母の目線は、未だに交わってくれない。
どちらも自分を大切にしようとしてくれているのは分かるのに、小雪は笑顔になれなかった。
それは、もう……「家族みんなで笑い合いたい」という願い事が破綻していると、分かってしまっているからだった。
「お父さんも、お母さんも」
俯いた小雪から、潤んだ声が零れ落ちる。
「『三人で一緒に暮らそう』って、言ってくれないんだね」
涙がポロポロと、テーブルに零れては水たまりを作っていった。
「もう、昔みたいに笑い合えないんだね……」
重苦しい沈黙が、リビングの中を満たしていった。
その静寂が、何よりの答えだった。
(ごめん、春馬君。大丈夫にならなかった。やっぱり、叶わなかったよ)
――もし、魔法使いが願い星のジュースをくれたらさ、何をお願いする?
春馬が穏やかな顔で尋ねてくれたことが、頭の中に蘇った。
あの時、彼もきっと、こちらの思いを察してくれていたのだろう。叶わない思いを諦めるのが辛くて苦しんでいたから、「願っていい」と言ってくれたのだろう。
そんな彼の優しさが、今は酷く恋しかった。
彼にもう一度、「願ってもいい」と言って欲しかった。
「私……もう一回、家族みんなで仲良く暮らすのが夢だったんだ。色んなことがあったけど、お父さんのことも、お母さんのことも、大切だったから。でも……もう叶わないなら、いいよ」
小雪は涙を拭って顔を上げ、無理やり笑顔を作る。
「お母さん、私の事、考えてくれてありがとう。……でも私はこの家にいたいんだ。家族で過ごしたこの家で……息、してたい。幸せな思い出を忘れないようにしながら、この家で、今まで通り暮らしていくよ」
小雪の言葉を聞いて、母は涙を流しながら目線を下げる。口元を覆って、嗚咽を漏らしながら頷いていた。
「……ごめんね」
母が呟く。
「ごめんね、小雪……」
小雪の隣では、父もすすり泣いていた。
――そっか。三人で集まっても、もう幸せの風は吹かないんだ。
小雪は溢れる涙を流れるままにしながら、必死に微笑んで、二人に告げるのだ。
「三人で暮らす夢は、もういい。でも……今日、新しくできた夢の方は、叶って欲しいんだ。……私の大切な人達が、幸せでいてくれますようにって夢。それを叶えたいから……二人にも、幸せでいて欲しい」
小雪の言葉を聞いて、両親が顔を上げて彼女を見つめた。
二人の視線が自分にある。二人が自分を見ていてくれている。それを感じながら、小雪はぐちゃぐちゃになった心を抱きしめて、笑った。
「三人一緒にいなくても……みんなが幸せでいられる家族の形が、見つかったら嬉しいな」
傷ついた心で、必死に前を向いて。
歩くのも辛いのに、ケガをした足を必死に動かして。
過去の幸せを吸い込みながら、息が苦しい世界を生きて。
きっとこれからも、そうやって生きていく。
それでもいいんだと微笑みながら、膿んだ心の傷に繰り返し包帯を巻いて――。
「いつか……もし、また、三人で会うことができたら、その時は昔みたいに笑ってね」
小雪は胸を押さえながら、でも、最後まで笑顔でいようと心に決めて表情を崩さなかった。
「幸せの風が吹いたねって、三人で笑い合おうね」
* * *
三人で話した後、母は静かに帰っていった。
彼女のトートバッグに入っていたレオネードが小雪の手に渡ることは、無かった。
泣き過ぎて椅子から動けなくなってしまった父に、小雪はアールグレイの紅茶を出して静かに伝える。
「お父さん、ありがとう。三人で話せて……私、満足した」
「ごめん……小雪の願いを、叶える事ができなくて」
泣きじゃくりながらそう零す父に、小雪は赤くなった目を優しく細めて「いいの」と告げる。
「三人で暮らしても、幸せになれないなら、もういいんだ。無理に今のまま三人で暮らしても、きっといつかしわ寄せが来る」
「でも……」
「三人で暮らせなくても、お父さんが幸せに笑ってくれているなら、いいんだ。それだけで、いいんだ……。お金の事とか、色んな事が気になっちゃったかもしれないけど、それでも私、お父さんが描くイラストが大好きだから。これからもどうか、素敵な作品を生み出して私に見せて」
聞き分けのいい娘の顔で、小雪は微笑む。
娘の言葉を聞いて、父は呼吸を整えて立ち上がった。
「ずっと描くよ。……小雪が好きって言ってくれるなら、手が動かなくなるまで描き続ける。だから……」
父は腫れた目で小雪を見つめながら、潤んだ声で告げる。
「これからも、小雪のことを大事にさせて欲しい」
「……うん」
「ごめん、少し……部屋で休んでくる」
父はアールグレイの入ったマグカップを持って、フラフラと自室に向かって歩いて行ってしまった。
一人きりになったリビングで、小雪は小さく息を吐いた。
(……終わっちゃった)
もう涙も出そうにない。ただ、胸が痛くて、痛くて。
(辛いな。痛いな……)
自分の体を抱きしめながら、目を閉じて息を詰まらせる。
(誰かの……ううん、春馬君の笑顔が見たい。『大丈夫』って、笑って抱きしめて欲しい……会いたい)
小雪が目を固く閉じて、そう強く念じていたその時だった。
制服のスカートに入りっぱなしだったスマホが、ブーブーと振動したのだ。
確認すると、春馬桜一朗のトークルームにメッセージが来ていた。
――ちょっと玄関から出られる?
彼の言葉の真意が分からずに困惑していると、すぐに次のメッセージが来た。
――家の前まで来てるんだ。顔が見たくて。
(来てくれてるんだ……ちょっと、会うだけなら)
小雪はメッセージに既読だけつけて、玄関に向かった。
ローファーを履くのが面倒だったため、傍に出ていたスーパーフローリアの福引で当てた限定サンダルを履く。
先端が無いスリッパのような形の、桜のロゴが入ったサンダル。決してお洒落ではないため、出先で買うのは気乗りしない。でも少し外に出るだけならと、深く考えずにそれを履いてしまった。
玄関のドアを開けて外に出ると、家の前の道にパーカー姿の春馬が立っていた。
「こんばんは。……頑張ったね」
彼は柔らかく微笑むと、小雪に歩み寄って、静かに彼女を抱きしめた。




