20 願い
薫野中央駅のロータリーにある、小さな書店。レンガ風の外壁に蔓植物の飾りがつけられている様子が、まるで物語の世界に迷い込んでしまったようで小雪は不思議だった。
店内は西洋風の内装で、ダークブラウンの飾り切りとすかしがある沢山の本棚と、波打つような形のランプシェードがついた照明は、やはり薫野市からは切り離されたファンタジー世界のようだった。
「おしゃれ……」
「友部がここでバイトしてんの。お洒落だから一原さんも好きかもよーって営業をかけられた」
「そっか。うん、私ここ好き……」
小雪は頬を緩めるのを見て、春馬も優しく微笑んだ。
「ここ、古本屋なんだって。昔好きだった本とか、あるかもよ」
「昔好きだった本かあ……魔法使いが願い星を集めたジュースを作って、不幸な女の子にプレゼントして願いを叶えてくれる物語。タイトル忘れちゃったけど、その児童書が好きだったんだ」
「『願い星喫茶の魔法使い』?」
「あ、それ! 春馬君も読んだことあるの?」
「姉ちゃんが昔、プレゼントしてくれた。何回も読んでたけど、姉ちゃんがいなくなった年に売っちゃった」
春馬の顔は笑顔だが、声が尻すぼみで、少し寂しそうだった。
小雪は彼が寂しがっているのが辛くて、すぐに提案する。
「その本、一緒に探してみない? 私、もう一回読みたい」
「いいよ。児童文学だから、奥の棚かな。行こ」
春馬の表情が和らいだのを見て、小雪は小さく安堵する。
(やっぱり、春馬君が穏やかな顔だと安心する)
小雪は春馬と一緒に本棚の前まで行き、記憶を頼りに背表紙を物色し始めた。
なかなかタイトル通りの本は見つからない。店内に流れる静かなピアノクラシックが、二人の間の沈黙を満たしていく。
「……ねえ、一原さん」
不意に、春馬が声を掛けて来た。
小雪は彼の方を横目で見て、手を止める。
「何?」
「もし、魔法使いが願い星のジュースをくれたらさ、何をお願いする?」
穏やかな声で尋ねられて、小雪は視線を下に向ける。
「……昔の私だったら、家族がもう一回仲良くなれますようにってお願いしたと思う」
「今は違うの?」
「今は……」
小雪の脳裏に、家族でブルームランドに行った日のことが蘇る。
あの時の両親の笑顔。もしもう一度、それが見られたらと、何度も思った。
あの笑顔を思い出すたびに苦しくなってしまうのは、今もそれが欲しくて、でももう手に入らないと知っているからだろう。
「もう叶わないから、お願いしないと思う」
小雪は小さな声で答えて、再び本を探すのに戻っていった。
口を閉ざした彼女に向かって、春馬は穏やかな声で告げる。
「願うだけなら、何をお願いしてもいいんじゃないの。叶わない願い事はしちゃ駄目なら、世の中の大半の人はルール違反で捕まっちゃう」
彼の言葉を聞いて、小雪はピタリと手を止めた。
目の前の「青い海の思い出図書館」と書かれた背表紙を人差し指でそっと押し戻し、呟く。
「そうかも」
「でしょ。叶うかどうか分からないのに、諦めるなんてもったいない。俺の願いも、ちゃんと叶ったんだし」
「どんなお願い?」
「一原さんと仲良くなれますように」
微笑みながらそう言って、春馬は紺色の背表紙に金の箔押しで「願い星喫茶の魔法使い」と書かれている本を取り出す。
「ほら、見つけたよ」
春馬に優しい笑顔で本を手渡され、小雪はそれを丁寧に受け取った。
「……ありがとう」
「うん。買いに行こうか」
「その前に、少し、聞いて」
「ん、何?」
穏やかな顔で首を傾げる彼に、小雪は少し赤い顔で告げた。
「今、春馬君と話してて気づいたんだ。私、家族も大切だけど、友達やあなたにも笑っていて欲しい。だから……お願い事はこうする」
小雪は綺麗なツリ目を優しく細めて、柔らかな声で言った。
「私の大切な人達が、幸せでいてくれますように」
小雪の笑顔を見て、春馬も王子様のような優しい笑顔で頷いてくれた。
* * *
レジに向かうと、友部が茶色いエプロンの制服を着て立っていた。
彼は二人を見るなり、パっと目を輝かせる。
「二人とも、マジで来てくれたんだ! 誘った甲斐があったわ。ありがと!」
「友部の方こそありがと。一原さん、ここ好きだって。ね?」
「うん。お洒落なお店で素敵だね。また来たい」
小雪がふわりと微笑んでそう伝えると、友部はニカっと笑って「また来てよ!」と言ってくれた。
「じゃ、会計するね」
友部が本を受け取り、バーコードを読み取る。
隣で、春馬がニヤケ顔で「レジ慣れてんねー」と揶揄っていた。
「そりゃ、今年でバイト二年目だから。俺、これでもバイトリーダーだからな?」
「へー、他にバイトの子がいるんだ」
「いるいる。同じクラスに沖浜さんっているでしょ? その子もここだよ。実家の神社とダブルワークだって」
友部の言葉を聞いて、小雪は目を丸くした。
「苑香ちゃん、ここでバイトしてるんだね」
「そういや一原さんと仲良さげだったね。あの子、本が好きみたいでさ。去年の秋からここでバイトしてるよ。タイミング合ったら会えるかもね。……はい、お会計は五百五十円です」
小雪はコイントレーにお金を乗せて、友部から本を受け取った。
「五百五十円ちょうどお預かりします。ありがとうございました」
「こちらこそ、春馬君にここを教えてくれてありがとう。来られてよかった」
「ちょっとでも元気になったならよかった! また来てね」
友部の言葉が不思議で、小雪は首を傾げた。
(元気になったならよかったって……?)
「一原さん、帰ろ。友部、今日はどうも」
「うん! また何かあったら相談して」
春馬のお礼と友部の「また何かあったら相談して」のやり取り。春馬はこの店に来ることを彼に相談していたのだろうか。でも、それだと「営業をかけられた」という言葉と少しずれるような気がする。小雪はきょとんとしていたが、春馬に「どうかした?」と尋ねられて、慌てて我に返った。
「ううん、大丈夫。行こ」
小雪は春馬に頷いて、一緒に店を出たのだった。
* * *
書店を出て、小雪は春馬と共に学校方面へと歩いていた。小雪が薫野中央駅方面に慣れていないことを知っていた春馬が、学校まで送ると申し出てくれたのだ。
日が暮れかけた五月半ばの駅前通りを歩く。黄みがかった青い空は、いつの間にか橙色の夕焼け空へと塗り変わっていた。
よく二人で一緒に過ごす時の、空の色。この空の明かりに包まれている間は自然体でいられる。小雪はそんな気がしていた。
「ねえ、春馬君」
「何?」
「さっき、友部君が『ちょっと元気になったね』って笑ってくれたよね。あと、『また何かあったら相談して』とも言ってた。……もしかして、私の事を気遣ってここに連れてきてくれたの?」
小雪が尋ねると、春馬は柔らかい笑い声を漏らした。
「やっぱ、一原さんって勘がいい人だよね。気づかれない方がスマートだと思って黙ってたんだけど、そうだよ。遊園地に行った時、辛い思い出のせいで苦しんでたから、何か幸せな思い出に触れることができたらプラマイゼロで元気出るかもって」
「それで、古本屋に?」
「そう。友部には『子ども時代の思い出が蘇る場所ってあるかな』って聞いた。そしたら今日のお店を教えてくれたんだ。俺的には超ファインプレー。今度お礼しなきゃ」
飄々と笑う春馬を見て、小雪の胸がじんわりと温かくなっていく。
(ずっと心配しててくれたんだ……嬉しい)
彼の愛情に幸せを感じながら、小雪は柔らかく微笑んで口を開いた。
「ありがとう。……今日買った本ね、小学五年生の時にお父さんがくれたの。表紙の星の魔法使いのイラスト、お父さんが初めてお仕事で描いたイラストなんだ」
「そうなんだ。俺も初めて見た時、綺麗なイラストだなって思ってた。魔法使いの衣装、ローブの裏地に星空が広がってるでしょ。それが凄く神秘的で、好きったんだ」
「うん、私も好きだった。ローブだけじゃなくて、ファンタジーの飾りが沢山ぶら下がってる喫茶店の背景も、願い星のジュースをキラキラした目で見つめてる女の子も、全部好きだったんだ。……私の宝物みたいな本だった」
小雪は少しずつ目を伏せていく。
長い睫毛が薄紫色の瞳を隠す頃、小雪は小さな声で続ける。
「でもお母さんが、お父さんの絵の仕事をよく思ってないのも知ってたから……怒ってばっかりだったお母さんが怖くて、お父さんにバレないように一人で売っちゃったんだ。あの日からずっと、それを後悔してた。だから、また手元に戻ってきて本当に嬉しいの」
小雪はそう言うと、ゆっくりと目線を上げて、涙が流れないように上を向きながら、無理やり笑顔を作るのだ。
「この嬉しい気持ち、お父さんとお母さんにも伝えられたら良かったのにな」
堪えきれなかった涙が一筋、白い頬を伝う。
「本当は、家族三人で、昔みたいに笑い合えたらいいのになあ……」
そう言ったが最後、堰を切ったように涙が溢れだした。
「お守りにお願いしても、願い星のジュースを飲んでも、きっと叶わないんだろうな……でもさ、ちょっとぐらい願っても、バチは当たらないよね……?」
小雪は泣きながら、春馬の顔を見上げる。
すると、彼は静かな顔で小さく頷いてくれた。
「願っていいんだよ。叶っても叶わなくても、それは君の大事な気持ちでしょ」
春馬はそう言うと、彼女の背中をポンポンと叩いて微笑む。
「大事な気持ちなら、忘れないように胸の中に置いておこう」
「……うん」
「君が忘れたくない事なら、俺も一緒に覚えておくから」
春馬の微笑みが、夕焼けに照らされて柔らかい色になる。
いつか、湖で見た時と同じ美しい笑顔。でも、儚くて散ってしまいそうな笑顔。
どうかお互いの想いが、繋がりが、いつまでも散らないままでいますように。彼が傍にいる日々が、ずっとずっと続いてくれますように。小雪の胸に、そんな思いが蕾をつけては花開いていった。
「春馬君のことも……忘れたくない」
「ふふ、そうなんだ」
「春馬君と出会ってから、忘れたくない事が沢山増えた。これからも、もっと増やしたいしずっと覚えてたい。だから……一緒に覚えててくれる?」
「何言ってるの、当たり前でしょ。君が忘れても、俺はずっと覚えててあげるから」
春馬が優しい笑顔でそう告げてくれた時。ちょうど学校の正門が見えてきた。
そして、その正門の前。レオネードの頭が覗いたトートバッグを大事に抱え、不安げに校門を見つめていたハーフアップの女性が、小雪の顔を見て目を丸くした。
「小雪……!」
彼女の澄んだ低めの声が、二人の耳に響く。
小雪は彼女の顔を見て……目を見開いて立ち止まった。
「お母さん……」
「小雪!」
小雪の母はトートバッグを振り回す勢いで娘に駆け寄り……彼女を抱きしめようとして、腕を引っ込めた。
「……ごめんなさい」
今にも泣きだしてしまいそうな顔で、小雪の母は頭を下げる。
「お願いします」
彼女は深く頭を下げたまま、潤んだ声でこう続けた。
「お母さんの話を……一回でいいから、聞いてください」
今までに見たことのない、母親の弱々しい様子。小雪はそれを呆然と見下ろしていたが、グッと喉が詰まって返事をすることができない。
「は……」
呼吸が自然と荒くなる。息が苦しくて、心臓がうるさくて、まるで死んでしまいそうな心地がした。
「はあっ……は……」
自転車のハンドルを握る手が震える。
返事をしなきゃいけないのに、声を出すことすらままならない彼女の左手を、春馬がすぐに包んでくれた。
「あ……」
小雪がびくりとしながら顔を上げると、春馬が真剣な顔で口をパクパクと動かしていた。
――大丈夫。
彼の想いが、小雪の心に波紋を作るように広がっていく。
(そうだ。春馬君が大丈夫だと言ってくれる限り、私は大丈夫なんだ……)
小雪は必死に深呼吸をして呼吸を整え、母に向かって答える。
「私も……話したい。話したい事が、沢山ある」
娘の言葉を聞いて、母は涙で濡れた顔を上げた。
母の崩れたアイメイク。他人に見られるのは嫌であろう顔だ。でも、母は小雪から目を逸らさなかった。
母が自分を見つめてくれていることを確認して、小雪は泣きたくなるのを必死に堪えながら続ける。
「私と、お父さんと、お母さんで……もう一回、ちゃんと話がしたい」
――お父さん。その言葉を聞いて、母の目が不安げに伏せられた。
きっと父とは会いたくないのだと察しがついた。しかし、小雪は折れずに頼み込む。
「お願い……三人で、もう一回話をさせて」
彼女の真剣な顔を見て、母は躊躇いつつも、最後は静かに頷いてくれた。




