18 上書き
城から出た後、春馬は小雪に腕を掴ませたまま、遊園地の端にあるロープウェイ乗り場にやってきた。
ここから出るロープウェイは、薫野市との県境にある薫野日向駅へと繋がっている。
薫野市の南端にある日向地区という場所は、紅華山を有している関係で他の場所より標高が高い。ブルームランド駅を出たロープウェイは薫野日向駅を経由し、紅華山山頂駅へと続いている。
ちなみに、ロープウェイの始発はブルームランドのすぐ下にある、紅華山南麓地区のキャンプ場で、このロープウェイは涼河市周辺の観光に使われる目的で作られたのだ。全長は約五六〇〇メートル。
薫野日向駅にはロープウェイ乗り場の他に、鉄道乗り場も存在している。涼河駅から帰るより遠くなってしまうが、そこから薫野市街に戻ることも可能なのだ。
「ちょっと時間かかっちゃうけど、日向方面から帰ろう。ロープウェイの中なら二人きりになれるし、山沿いの道を通るから涼河駅から帰るより人も少ない。お母さんにも見つかりづらいと思う。どう?」
春馬が尋ねると、小雪は潤んだ声で返事をする。
「うん……ごめん、ほんとは、もっと遊べたらよかったのに」
「気にしないで。また来ればいいからさ」
春馬は優しい声でそう伝えて、彼女と腕を組んで駅に入った。
窓口で二人分の乗車券を買い、後で彼女に自分の分を払って貰うことにする。
その後、定刻通りに来た無人のロープウェイに乗り、薫野日向駅へ向けて出発した。
窓の外を見ると、ブルームランドのカラフルなチューリップ畑が絨毯のように広がっている。
まだ正午も迎えていない空の色には、朝の爽やかな香りが残っていた。
ロープウェイの中に視線を移すと、小雪がポロポロと涙を流しながら俯いている。
その雫の一粒も、春馬は永遠に忘れられないのだ。
「ごめん……今日、こんなつもりじゃなかった」
小雪は涙を拭いながら、震える声で続ける。
「もっと、沢山、思い出を作って……春馬君の寂しい気持ちを軽くするんだって思ってた。お土産も、家に飾れるものだって買いたかったし、レオネードのショーも見たかった。他のアトラクションも、いっぱい乗りたかったんだ」
泣きじゃくる彼女の姿が、空の色の環境光で青く見える。
いつもそうだ。爽やかでのどかな空気に、彼女と自分は弾かれている。優しい世界も明るい世界も、自分達のことを切り離して回っているように、春馬は感じていた。
しかし、それでもいい。自分と彼女の間にある小さな世界の繊細な空気を、丁寧に吸い込んで抱きしめたい。「大丈夫」と笑って、守っていきたいのだ。
「大丈夫。一原さんと一緒に出掛けられて、俺は嬉しかったよ」
「ほんとに……?」
涙目で尋ねる彼女に、春馬は柔らかく笑って頷く。
「うん。さっき君が初めて俺の事褒めてくれたでしょ。その言葉でさ、両親が昔、俺のことを褒めてくれた時のことを思い出した。ギフテッドだって分かった時の、病院の帰り道。満開の桜の下、手を繋ぎながら笑ってくれてたあの日のこと。あれが、両親との間にある唯一の幸せな思い出。君にとってのブルームランドと同じ、大切で、でも思い出すと胸が痛くなる思い出ね」
「そうだったんだ……」
「そう。でも、一原さんが褒めてくれたから、いい思い出で上書きされたよ。忘れられない嫌な記憶も、楽しい思い出で覆っていけば、いつか大したことなかったって笑えるかもしれない。今、そう思った」
春馬はそう言うと、席を立って小雪の前まで歩いていき、彼女の頭を自分の体に抱き寄せた。
「一原さんにとっても、今日の思い出がそうでありますように」
春馬は優しく微笑んで、目を閉じたまま彼女の体を丁寧に抱きしめる。
彼の体温を感じているうちに、小雪の気持ちが落ち着いていった。
今ならきっと、先ほど取り乱してしまった理由を冷静に教えることができる。そう思い、口を開いた。
「……あのね、私のお母さん、他に好きな人を作って家を出ていったの。浮気してたんだ」
春馬のことを抱きしめ返しながら、小雪は続ける。
「最後に家を出る時、私にもお父さんにも、何も言ってくれなかった。もう、私達のことはどうでもよくなっちゃったのかもしれない。ずっとそう思ってた。そしたら、さっきのお土産屋さんで……知らない男の人と、娘に買うお土産を選んでるところを見ちゃったんだ。それ見て、もう新しい家庭を持ってるんだって……そう思ったら、気持ち、ぐちゃぐちゃで」
「それであんなに怖がってたんだね」
「うん……お母さんにどんな気持ちを持ってるのか、もう分からない。分かりたくない……」
また泣きそうになりながら、小雪は春馬に強く抱き着く。
春馬はその体を優しくさすりながら、落ち着いた声を作って告げるのだ。
「分かりたくないなら、それでいいよ」
「いいの……?」
「うん、いいの。分からないままで、決めないままでいい。前に、俺と一緒にいるときぐらい安心して欲しいって言ったでしょ。あれが、今の俺の願いの全部だから」
「うん……そっか……」
「そうなの。そのままの君でいて」
春馬の穏やかな声と温度。丁寧に体に回された長い腕と、彼の体から聞こえる規則正しい鼓動。それら全てが、小雪の記憶に優しく刻まれていく。
「私……辛くなったら、きっと今日の事を思い出すと思う」
小さな声で彼に伝えて、ゆっくりと目を閉じた。
瞳に溜まっていた涙が、頬を伝って落ちていく。
「春馬君が抱きしめてくれたこと、きっと何度も思い出すんだと思う」
「うん。何回も思い出して。君を大事に想ってる人間がいるってこと、ずっと遠くの未来まで、どうか覚えていてね」
彼の言葉が儚く感じられてしまい、小雪は彼を強く抱きしめる。
「覚えてる。忘れない。だから……ずっと傍にいてね。何年経っても、『覚えていてね』って私に言ってね」
彼女の言葉に、春馬は静かに笑って頷く。
「約束する」
ロープウェイが、少しずつ空に近づいていく。
見えなくなってしまったチューリップ畑。青い色の空。山らしくなった景色。かすかに聞こえる鳥の鳴き声。
穏やかな世界とは反対に、幸せが薄いロープウェイの中の空気。それすら、忘れられない記憶になっていく。
この胸の痛みも、辛い思い出も、それを上書きしてくれたお互いの温度も、二人はそのまま心に刻んだのだった。
* * *
薫野日向駅についたのは、正午を過ぎた頃だった。
ここから薫風南線という私鉄に乗って、二人は薫野市街に帰ることになるのだが……。
「次の電車、十四時半か……」
春馬は駅の時刻表を見て、苦笑いを浮かべた。
その隣で、小雪はバスの時刻表を確認する。
「バスは十五時五分」
「少なくとも、あと二時間はここにいなきゃ駄目な訳ね。ごめん、ロープウェイは避けるべきだったかも」
「涼河駅も、昼の次は十四時台だから変わらないよ」
「でも、あっちは駅ビルが充実しててご飯食べる場所もあるでしょ? ここはコンビニすらない感じじゃん。お腹減ったー」
春馬が腹を押さえながらため息を吐くのを見て、小雪はクスリと笑う。
「そういえば、春馬君って食いしん坊だったね」
「そうそう。俺、燃費が悪い人間なんだよ。いっぱい食べなきゃ動けない」
「いつもお弁当に大きいおにぎり二つついてるもんね」
「あのぐらい食べなきゃ足りないの。正直、体育がある日はもう少し食べたい」
春馬はそう言いながら、駅の中を歩き始めた。小雪も慌ててそれについていく。
「あ、軽食の自販機あるじゃん」
春馬が表情をパッと明るくした。
駅の出口近くに、飲み物の自販機と一緒にパンやおにぎりが売っている自販機もあったのだ。
「サンドウィッチ売ってる。卵サンドの気分だからこれにしよー」
春馬は迷いなくお金を投入し、卵サンドを購入した。
「一原さんも何か食べれば?」
「うん。えっと……じゃあ昆布のおにぎりにする」
小雪はおにぎりを購入し、出口に出てきたそれを手に取る。
「待合室で座って食べよっか」
「いいね。行こ」
二人で昼食を持ち、駅の奥にある待合室の椅子に座った。
卵サンドをパクパク食べながら、春馬は小雪の昆布おにぎりをチラリと見る。
「一原さんって昆布のおにぎり好きなんだね」
「うん。美味しいから……春馬君も好き?」
「好きだよ。おにぎりは何でも好き。あー、見てたら食べたくなってきた」
飄々と笑いながら卵サンドを平らげた春馬を見て、小雪は微笑みながら尋ねる。
「一口食べる?」
「え、いいの!?」
「うん。私、そんなにいっぱい食べる方じゃないし」
「そっか、いいなら一口貰うよ。口ついちゃうけど平気?」
春馬に尋ねられ、小雪はハッと顔を赤くした。
(間接キス……)
彼女の反応を見て、春馬はニヤリと笑った。
「あ、間接キスって今気づいたね。なんだ。確信犯じゃなかったのか―」
「狙ってそんなことしないもん!」
「あはは、ごめん。それで、一口貰って平気なの?」
彼にニヤニヤしながら尋ねられる。
ここで引き下がるのは負けた気がして悔しい。小雪は真っ赤な顔で彼を睨みながら、頷いた。
「いいよ。食べて」
「それ、一口あげる人の顔じゃないよね。おもしろー」
「揶揄うならあげない」
「あーごめん。貰います。ありがとね」
春馬は小雪の手にある昆布おにぎりをパクリと齧る。
「うん、美味しい」
モグモグとしながら笑う春馬を見て、小雪は嬉しいような悔しいような気持ちになってしまった。
(春馬君といると、色んな気持ちになっちゃう。前はそれが苦しかったけど、今は、嬉しいかも。少し悔しいけど……)
照れ臭そうに頬を赤くして目を伏せる彼女を見て、春馬は微笑みながら彼女に告げた。
「二人で一緒にいるなら、遠回りも悪くないね」
「うん。……また遠回りしよう」
「もちろん。君が喜んでくれるなら、何回だってしてあげる」
屈託のない笑顔でそう言ってくれる春馬を見て、小雪も幸せな気持ちで微笑んだのだった。
* * *
涼河駅の近くにあるマンションの駐車場に、白い乗用車が停まった。
助手席に座ったダークチェリーの髪の女性が、スマホに映る銀髪の女の子が笑っている画像をしばらく見つめて、閉じる。
「ちゃんと話せるといいね」
隣に座った恰幅のいい男性が、優し気な目を半月のようにして笑う。
女性はそれに寂しげな笑顔で頷いた。
「今更、話を聞いてくれるか分からないけど……」
「大丈夫だよ。静奈さん、ずっと娘さんのこと想ってたんだから、その気持ちをそのまま伝えればいいと思うよ」
「うん……ありがとう、店長。私、伝えてみるわ。小雪に」
小雪の母はそう言って、娘と似ている美しいツリ目を細めて笑ったのだった。




