12 君だから大丈夫
「春馬君」
小雪に声を掛けられ、春馬は彼女の方を振り向く。
その顔には、いつものようなニヤケ面が浮かんでいない。王子様の柔らかい笑顔もない。ただの静かで落ち着いた顔だった。
「体調、大丈夫?」
「うん。今朝より良くなった。……わざわざここまで来てくれてありがとう」
小雪はそう言いながら、ポットのお湯をカップに入れて彼の隣に座る。
「遠かったよね? 自転車で三十分かかる道だもん」
「走ってたから、そうでもなかった。とにかく君に会わなきゃって必死だったから、アドレナリンもドバドバだったかも。全然疲れを感じない」
春馬は目を伏せながら、冗談めかしく言って笑った。
彼に普段の調子が戻ってきたことに気づき、小雪も微笑みながら冗談を返す。
「後から、どっと疲れるやつだよね。明日、筋肉痛なんじゃない?」
「あー、その可能性はあるなあ。俺、運動習慣ないし。体育でちょっと動くぐらい」
「そうなんだ。じゃあ、運動は私の方ができるかも」
「お、何その自信。なんかやってたの?」
「空手やってたの。中一まで」
小雪はそう言いながら、自分の両手を開いて見つめる。
「幼馴染に憧れて始めたんだ。すごく格好いい子だったから、私もそうなりたいと思って……その子ほど上手くなかったけど、茶帯までいったよ」
「ふーん……格好いい幼馴染ねえ」
春馬の胸がもやっとして、思わず目が細くなる。
その幼馴染と自分は、どっちが上なのだろう。それを推し測ろうと思い、質問をしてみる。
「幼馴染さんって、どんな人?」
「サバサバしてて、嘘が嫌いで、正義感が強くて……いつも元気に笑ってる人。笑った顔が犬っぽいの。可愛い」
小雪がクスクス笑いながら答えるのを見て、春馬は面白くなかった。
(少なくとも、そいつは一原さんにとって親しい人な訳ね。ふーん)
「あれ、なんか悪い顔してる……なんで?」
小雪が首を傾げるのを見て、春馬は彼女の手に触れながら、真剣に薄紫色の瞳を見つめた。
「俺が目の前にいるのに、この場にいない人に笑顔を向けてるのがムカつくの」
春馬は眉間に皺を寄せながら、少し赤い顔で続ける。
「俺は君しか見てないよ。だから、君も俺だけ見てくれない?」
「へ……」
熱を出していて赤い小雪の顔が、更に赤くなる。
「そ、それ……ど、いう……意味?」
目を見開いたままたどたどしく尋ねられて、春馬は我に返って頭を抱えた。
「ごめん……伝える順番ミスった」
そう言いつつも、彼女の手から自分の手を離すことはしない。
ただ、右手の隙間から見える顔は、いつになく赤くて悔しそうに顰められていた。
こんな顔の彼を、小雪は見たことがない。
「俺ってば、ほんと……一原さんには欲を出したくなる。ごめん、びっくりしたよね」
「う、ううん……欲……?」
「もう一回、順を追って伝えてもいい?」
恥ずかしそうに目を固く閉じながら、春馬は尋ねる。
それに対して、小雪は「大丈夫」と答えた。
(こんな顔になってまで、春馬君が私に伝えたいこと……)
彼からどんな言葉を掛けて貰えるのか緊張しながら、小雪は彼を見つめていた。
やがて、彼が目を開けて、こちらを見つめてくる。
桜色の澄んだ瞳が向けられて、ドキドキするのに目が離せない。まるで、彼の瞳に吸い込まれてしまいそうな感じだ。
「あのさ、まず……ごめんね。俺の言葉で、色々プレッシャーを掛けちゃったと思う。前に俺、『汚い感情を持って近づかないから安心する』みたいなこと言ったでしょ。それって、裏を返せば『絶対に汚い感情を持つな』って強制してるようなものだからさ」
「そんな……プレッシャーって言うより、私がそうしたくなかったっていうか……」
彼女が弁解しようとするのを、春馬は柔らかい声で遮る。
「何も気にしなくていいから、とりあえず最後まで聞いて?」
「……うん」
小雪がコクリと頷いたのを見て、春馬は目もとを優しく微笑ませながら話すのを再開した。
「今日、君が休んだのも、俺のせいだって思ってた。もしそうなら、この友達関係も終わりかもしれない。いつもなら淡々と受け入れられるのに、一原さんとの関係が切れるのは絶対に嫌だったんだ。それだけ、君の存在は俺にとって大きかった」
春馬の顔に、いつもの柔らかい王子様の笑顔が浮かび上がっていく。小雪が今まで、何度も見惚れてきた笑顔だった。
彼が、こちらに優しく丁寧な想いを向けてくれる時の表情。それが大好きであるということは、彼が何度もそれを見せてくれた証拠だった。
記憶に焼き付き、何度でも思い出せるぐらい、思い出したいぐらいに、彼がそうやって笑ってくれたから好きになったのだ。
「俺、君の全部を受け入れて、こう伝えたくてここに来た。『そのままの君で大丈夫。だから、これからも傍にいて欲しい』って」
カップを持つ小雪の手を優しく一撫でして、春馬は屈託ない笑顔で告げた。
「俺、一原小雪さんが、大好きだから」
彼の言葉を聞いて、小雪の目が潤んでいく。頬が熱くて、喉の奥も熱い。
駄目だ、泣いてしまう――。
小雪は泣き顔を見られたくなくて、咄嗟に俯いた。
「私……昨日、逃げるみたいに帰っちゃった。それで、きっと春馬君に嫌な思いさせたって心配してた」
涙がはらはらと落ちていく。
溢れてしまった恋心と共に、雪のように舞い降りていく。
「私は下心がないから安心するって聞いた後、あなたを好きになっていくにつれて……この気持ちを言ったら、きっと嫌われちゃうって思ってた。私があなたの傍にいられたのは、私があなたに媚びないからだって分かってたから……でも、今は」
小雪は涙を拭いながら顔を上げて、潤んだ薄紫色の瞳で彼のことを見つめ返した。
「春馬君に好かれたい……もっと、近くにいたい。特別な人になりたい……春馬君が好きだから。こんなに下心があるけど……今までみたいに傍にいていいの?」
震える声と、赤い頬。涙が溢れている瞳。どれも、春馬が今まで見たことのない彼女の泣き顔だった。
見ているだけで、色々な気持ちが混ざっているのだと分かる。やり場のなかった好意と、不安と、罪悪感と期待。色々なものを、彼女は自分に向けてくれているのだろう。そう春馬は察する。
他の人からこんな気持ちを向けられたら、面倒なだけだ。
でも、彼女は違うのだ。
「君に傍にいて欲しいの。君じゃなきゃダメ」
彼女が向けてくれた気持ちなら、どんな気持ちでも……溶けないように、丁寧に触れて抱きしめたいのだ。そうやって、愛情を注ぎたい人が、彼女だった。
「大丈夫だから、今まで通り俺の一番近くにいて。……恋人になってよ」
そう言って彼女の頬に触れて、自分の額と彼女の額をこつんとぶつける。
距離がゼロになった彼女から、小さく「うん」と返事が返ってきた。
「私も、春馬君の一番近くにいたい」
「うん、そうして」
「近くにいる……約束する」
小雪はそう言って微笑み……彼の体にずるずると寄りかかっていった。
気が抜けて、一気に体に疲れが襲ってきたのだ。
ズキズキと、頭が痛い。
「頭痛い……」
「ああ、熱上がっちゃった?」
春馬は彼女の体を支えながら、声を抑えて尋ねた。
すると、弱々しい声が返ってくる。
「一回下がったんだけどな……」
「起きてるの辛いよね。部屋まで運んであげる。どこに行けばいい?」
「廊下に入って、手前の部屋……って、うわ」
小雪は答えきる前に、春馬から軽々とお姫様抱っこされてしまった。
好きな人と両想い。更には、お姫様抱っこ。もうキャパオーバーだ。
真っ赤な顔で目を回す小雪に、春馬は優しい声で告げる。
「大丈夫。落とさないで運ぶから」
「運動部じゃないのに、ほんとに大丈夫……?」
「人並みに筋力はあるし、一原さんは軽いから。てか、好きな子を床に落とす訳なくない?」
そう得意げに笑って、春馬は廊下に向かって歩く。
「何があっても離さないし、傷つけたりしたくないの。君の事だけはね」
彼の言葉が格好良すぎて、小雪は赤い顔で彼に見惚れてしまう。
(ずるい……こういうところがモテるのかも。私も春馬君に釣り合う人になりたい……)
心に生まれた恋の目標を胸に、小雪は緩みかけた口元をぎゅっと結ぶ。
部屋につき、ベッドの上に下ろしてもらった小雪は、「ありがとう」と言って横になった。
「やっぱり、春馬君に助けられてばっかり……」
「俺も救われてるから気にしないでよ。君がいない学校、息苦しくて大変だった。早く元気になってね」
「うん……あ、そういえば、さっき外で持ってた袋。あれって高校の近くのパン屋さんだよね? 春馬君って、パン食べるの?」
照れ隠しの質問だった。春馬もいつものようにフラットに答えてくれると思ったが、彼は「そういえば」とハッとして立ち上がったのだ。
「あれ、俺のじゃなくて一原さんのだから」
「私の……?」
「うん。取ってくるから待ってて」
春馬はスタスタとリビングに向かい、パン屋の袋を持って部屋に戻ってくる。
「これなんだけど……」
春馬が袋から取り出したのは、ライオンの顔がチョコペンで描かれたパンだった。
「ライオン見て、一原さんってライオンに思い入れがありそうだったなって思って……それがどんな物か分からないけど、トラウマでも嬉しい思い出でも、抱えたままで大丈夫だよって伝えたくて買ったんだ」
「私のために、買ってくれたんだ……そっか」
小雪はつぶらな瞳のライオンのチョコパンを見つめて、嬉しそうに目を細める。
「ありがとう。元気になったら食べる」
「うん。そうして」
春馬が微笑みながら頷いてくれたのを確認し……小雪は短く息を吸ってから、口を開いた。
「あのね、ライオンの思い出……春馬君が言ってた通り、大事なものなの。私にとって、宝物みたいな思い出で……でも、触れたら心が苦しくなる思い出」
小雪は口が乾くのを感じながら、それでも伝えたいと思って、唇を動かした。
「他の人には、あんまり言えないんだけど……春馬君には聞いて欲しい。いい?」
緊張した様子の彼女を見た春馬は、落ち着いた顔を作って頷いた。
「大丈夫。話したい事なら、いくらでも聞く」
「ありがとう。あのね――」
心臓がバクバクと音を立てる。
触れると痛くて、でも、絶対に捨てたくない思い出。これを伝えたとしても、春馬に「大丈夫」と笑って欲しいと……そう願いながら、小雪は言葉を紡いでいった。




