11 会いたかった
学校から飛び出した春馬は、その足で自宅と反対方向――ボウリング場方向へと走っていた。
小雪が言うには、ボウリング場の奥の方に家があるらしかった。それを覚えていたから、無謀だと分かっていたものの彼女に会うべく走っていたのだ。
春も終わりへと向かっていく、温かな空気。
散り始めの桜から落ちた花びらを蹴る自分の足。
傾いていく、昼と夕方の間の太陽。彼女と何度も見た色。
彼女と出会った季節が終わる。
でも、どうかあと少し。
この気持ちを伝えるまでは、どうか春のままで――。
ボウリング場が遠くに見えてきた。もう何分走ったか分からない。もともと運動部ほど体力がある訳ではないのだ。息も上がるし、心臓だって痛かった。
春馬はその場――見慣れないパン屋の前で、膝に手を当てて荒い呼吸をする。
「はあっ……はあ……ん?」
パン屋の前に出ている緑のボード。それに書かれている文字とイラストから、目が離せなかった。
それには「ライオンチョコパン、新発売!」という文字と、いつか彼女が落としたストラップに似ているライオンの顔が書かれていたのだ。
あの時、上着も忘れて落とし物を取りに来た彼女の顔を思い出す。
もしかしたら、彼女にとってライオンは大切な思い出の核なのかもしれない。そして、その思い出こそ、彼女にとって触れられたくないものかもしれないし、昨日の夕方、涙を流していた理由と関わりのあることかもしれない。大切なものほど、人は他人の手垢を付けられたくないものだと、春馬は理解していた。
でも、それがどんな思い出だったとしても。深い傷でも温かな熱でも。
ただ抱きしめて、「大丈夫だよ」と伝えたかった。
春馬は呼吸を整えながら、彼女のためにライオンチョコパンを買おうとパン屋の中に入っていった。
* * *
春馬がパン屋へと向かった頃、小雪は父の運転する車に乗って病院から帰宅するところだった。
今朝よりは下がったが、まだ少し微熱があるせいで頭がぼんやりとしている。ただ、喉の腫れや咳などの症状は無く、感染症の検査も陰性だったため「疲れが溜まっていたのだろう」という曖昧な結論に着地したのだった。
しかし、風邪でないのであれば、熱が下がれば学校にも行けるだろう。それがせめてもの安心材料だった。
「風邪じゃなかったね。よかった」
父が運転しながら声を掛けてくれる。
「新年度が始まりたてだったし、きっと疲れもあったんだろう。しばらくはゆっくり休んでね」
「……うん」
「夕飯、何か食べたいものはある? 父さんが作るよ」
「うどん……卵も一緒についてるやつ。あれが――」
小雪はそう答えた後、ハッと口を噤む。
卵も一緒にゆでたうどん。それは、まだ一原家が三人家族だった時に、母が作ってくれていたものだ。
父にとっては心の傷に塩を塗り込むようなもの。小雪はそれに気づいて、「ごめん、卵はいいや」と小さく訂正する。
「卵、いいの?」
「うん、いらない」
「そっか。じゃあ、うどんだけゆでようね」
父の声色は穏やかなままだった。小雪に気を遣ったのだろう。微笑んでいるが、眉根がぎこちなく寄っている。
そんな些細なところにまで気づいてしまって、相手の気遣いを無駄にしてしまう自分のことが、小雪は嫌いだった。
(……私、いつもそう。昔から何も変わってない。気遣いも素直に受け取れなくて、勝手に苦しくなっちゃう……)
胸が痛くて、目に涙が浮かんできた。ただでさえ熱があるのだ。いつも以上に涙もろくなっている。
(駄目だ。泣いてるって気付かれたら、気を遣わせちゃう。我慢しなきゃ)
小雪は窓の外に顔を向け、涙が父にバレないようにと工夫した。
雪のように、はらはらと落ちていく涙。我慢ができずに鼻を小さくすすってしまう。風邪だったらこれも誤魔化せただろうに。
「大丈夫?」
心配そうに尋ねられる。小雪はこれ以上心配させまいと、明るい声を作って答えた。
「大丈夫。熱があって、ちょっと元気でないだけ」
そう答えたきり、向こうから質問は返ってこなかった。
父の方も、今はそっとしておこうと判断したのだろう。そんな気遣いも、小雪には苦しかった。
誰にも気を遣わせずに、誰にも気に留められずに、ただ静かに生きられたら良かったのかもしれない。そこまで考えて、春馬が抱きしめてくれたことが蘇る。
――大丈夫だよ。
彼と違って、小雪には高い記憶力なんてない。だから、今思い出している彼の腕の温もりや、声は、もしかしたら作り物かもしれない。
そうだとしても、今はその記憶に浸っていたかった。
誰にも気を遣わせたくない、気に留められたくないなんて思ってる癖に、彼からの関心が希薄になるのが嫌なのは、我儘になるのだろうか。
(会いたい……大丈夫って言って欲しい)
彼のことを考えているうちに、また胸が苦しくなって涙が出てきた。
(会いたい……)
窓の外を流れる景色が、どんどんと移り変わっていく。
病院前はコンビニやショッピングモールが存在感を放っていたが、自宅前の住宅街は閑散としていた。
小雪の通学路を歩く、近所の工業高校の制服の生徒や、散歩中の老人たち。仕事をしている人間は大体車で移動をするため、奥まった道は学生か老人しかいないのが薫野市だ。ついでに言うと、この辺りから薫野高校に通う生徒は十五分後のバスに乗って帰宅するため、今の時間帯は同じ高校の生徒は見かけない――はずだった。
(あれ……)
信号で止まったところで、横断歩道の奥から走ってくる生徒に見覚えがあった。
「春馬君……!」
小雪は咄嗟に助手席の窓を開け、彼に向かって声を掛けた。
「春馬君、何してるの……!?」
小雪の声に気づいた春馬は、目を丸くして立ち止まった。
「一原さん……」
渡りかけだった横断歩道を引き返し、小雪の元へと駆け寄る。
きちんとセットされていた彼の髪が、珍しく乱れている。そして、パーカーを着ていることを抜きにしても、顔と首回りが汗ばんでいた。きっと走り回っていたのだろうと予想がつく。
「家、逆方向だよね? こんなところで、走って……何してたの?」
小雪が尋ねると、春馬は一呼吸置いた後、真剣な顔で告げるのだ。
「君に会いたくて、家を探してた。ボウリング場の向こうだって言ってたから、一軒一軒、表札を確認すれば見つかるかもって」
それを聞いて、小雪は目を丸くした。
会いたいと思っていたのはこちらだけじゃなかったことも、こんなに遠くまで走って来てくれたのも嬉しかったのだ。
「小雪の友達?」
運転席から父に声を掛けられて、小雪はコクリと頷く。
「お父さん、ちょっと春馬君と話したい……」
「ああ、じゃあ家に上がってもらおうか。風邪じゃないからうつす心配もないし。春馬君が良ければ」
父がそう言ってくれたのを確認して、小雪は春馬に「一緒に来て。いい?」と尋ねる。
「大丈夫。すみません、一原さんのお父さん、お願いします」
「平気だよ。乗って」
父に微笑まれ、春馬は遠慮しながらドアを開け、後部座席に乗ってシートベルトを着ける。
三人が乗った車は、住宅街の奥にある一原家へと向かった。
* * *
一原家へと到着した後、春馬は父に案内されてリビングへと通された。小雪の方は、上着を脱ぎに自室に戻っている。
そういえば、もう五月なのに、車に乗っていた彼女は厚手のカーディガンを着ていた。それから推測されるのは……。
「もしかして、一原さんって体調不良で欠席だったんですか?」
「ああ、そうだよ。珍しく熱を出してね。風邪じゃなくて、疲れが溜まってたってことになったけど」
父が微笑んでくれるのすら申し訳なくて、春馬はきまりが悪そうに俯く。
「すみません。そうとは知らず、家まで来ちゃって……」
「ううん。小雪が君と話したいって言ってたから連れて来たんだ。気にしないで」
父はそう言いながら、棚に入っている小さな籠から紅茶のティーパックを取り出す。
「春馬君、アールグレイの紅茶って好き?」
「ああ、はい。実家にいた時はよく飲んでました」
「実家ってことは、今は一人暮らしなの?」
「いえ、祖母と暮らしてます。家庭環境が少し特殊で――」
いつも関わりの薄い人間には隠している「傷の核」を見せてしまい、春馬はハッと後悔した。
小雪はこちらの家庭事情を色眼鏡で見るタイプではないだろうが、父親も同じとは限らない。そんな不安が過る。
(今の言葉で、娘に近づいて欲しくないと思われるかもしれない。失敗した)
春馬が唇を噛んで黙り込むのを見て、父は何故か、安心した顔で笑った。
「そっか。実は、うちも少し特殊なんだ」
「え……?」
「四年前に、妻と離婚してね。それ以降、ずっと父子家庭なんだよ」
彼女に何かトラウマがあることは察していたが、それが家庭環境に絡むことだったとは思わず、春馬は目を見開いた。
驚いた顔の彼を見て、父はポットのお湯をティーカップに注ぎながら続ける。
「僕が夢を追いかけるようになってから、夫婦仲が悪くなっちゃって。僕の心が弱いのを心配して、小雪はいつも僕を支えてくれた。今も、僕のためにって家事を率先してやってくれてる。……そのせいで同級生と遊ぶ時間もないだろうに、小雪は『大丈夫だよ』って笑うだけなんだ」
やがて、紅茶が淹れ終わる。
父はティーカップを春馬の前に持って行って、「どうぞ」と告げた。
春馬は黙って、ティーカップの取っ手に手を触れ、呟くように父に声を掛ける。
「俺も……一原さんには助けられてばかりで」
紅茶を飲むこともできないまま、春馬は今日一日の寂しさを回想した。
「彼女はきっと『俺に助けられてばかりだ』って言うけど、俺だって助けられてるんです。一原さんは、俺に汚い感情を持って接さない。いつも素直なまま関わってくれる。そんな彼女に、俺は『君は俺に汚い感情を持って近づかないから安心する』って、文字通り伝えたんです。後から、それで変なプレッシャーを掛けたかもとか、その気持ちは触れられたくなかったのかもって気づいて。そのせいで今日も学校来なかったのかなって、心配してたんです」
気だるげな教室の空気。毛羽立った心。彼女がいなかったせいで息苦しかった今日一日が、脳裏にありありと浮かび上がる。何もかも、その時のまま鮮明に思い出せた。
「一原さんのいない今日は、ひたすら息苦しかった。だから、多少嫌がられても伝えたかったんです。『そのままの君で大丈夫だから、傍にいて欲しい』って」
父は春馬の気持ちを静かに聞いていたが……やがて、ニコリと笑って頷いた。
「伝えてあげて。きっと喜ぶ」
「はい。もちろん」
「うん、じゃあ僕は仕事に戻るから、小雪と二人でゆっくり話して。帰りは車で送っていくから、その時は声を掛けてね」
父はそう言って、廊下へと歩いて行ったが……ドアを閉めたところで彼女が座り込んでいることに気づき、びっくりして立ち止まった。
「小雪、もしかして聞いて――」
「しー! ……ごめん、聞くつもり無かったけど……春馬君にはバラさないで……」
「ああ、分かった。……いつか小雪が言っていた通り、優しい子だね」
父が彼を肯定してくれたのが嬉しくて、小雪は赤い顔で頬を緩める。
「うん……」
小雪は彼に「じゃあ、話してくる」と伝えた後、そっと立ち上がってリビングへと歩いて行った。




