1 氷の女王と桜の王子
県立薫野高校。正門前の廊下がざわついていた。
一年生が履く赤いラインの入った上履き。新入生らしい初々しい顔つきの生徒達が、玄関から歩いてくる銀髪の女子生徒に見惚れていたのだ。
男女問わず、だ。
「ねえ、あの人めっちゃ綺麗じゃない?」
「スタイルいい。肌の色、白……あんな人、入学式にいた?」
その声を聞きながら、彼女は静かに廊下を歩く。
上履きの色は二年生の青。制服のリボンの色も、二年生が着ける水色だ。
サラリとした銀髪は肩口で綺麗に切り揃えられている。その横髪から覗く睫毛の長いツリ目に、廊下を歩く同級生も目を奪われていた。
「うわ、相変わらずキレー」
「あれで性格がキツくなければなあ」
同級生の男子がこそこそと話す声も、彼女にはしっかりと聞こえていた。
しかし、いちいちどう反応すればいいのかも分からず、無視を決め込んで教室に入る。
自分の席に着くまでの間、彼女に声を掛ける人間は一人もいなかった。
ただ遠巻きに、彼女を見つめて噂話をしているだけだ。
一時間目の予習をするべく、机の上に数学のノートを出す。
そのノートに書かれた名前は――一原小雪。
「い、一原さん!」
クラスメイトの、栗色のセンター分けの女子と黒髪ロングにメガネの女子が、小雪に向かって声を掛けた。
「あのさ、今日クラスのみんなでカラオケ行くんだけど、一原さんも一緒にどう?」
彼女らの声に、小雪はゆっくりと顔を上げて、無表情のまま答える。
「ごめん、家の事しなきゃいけないから……今回も私抜きで集まって」
冷めた、鈴を転がすような声。可愛らしい声質なのに、感情が込められていないから鋭く感じる。
その声に気圧された女子二人は、固い笑顔になってしまった。
「そ、そっかあ。それじゃ仕方ないよ!」
「また今度ね!」
二人はたどたどしく形式的な言葉を並べた後、小雪の席を去っていく。
「また断られちゃったねー」
「仕方ないよ。だって一原さん、あれじゃん……『氷の女王』ってやつだから」
――氷の女王。
その単語を聞いた瞬間、ノートを押さえる小雪の指先がピクリと動いた。
――美しい銀髪。睫毛の長い麗しいツリ目。整った体型と、色白な肌。それを見た生徒は、みんな小雪を『プリンセス』だと錯覚する。
それと対照的に、温度の無い表情と、不愛想な態度。誰にも笑顔を見せないその様は、多くの生徒の心を氷のように冷たくさせる。
まるで彼女は『氷』のようだと、誰もが口を揃えて言っていた。
ついたあだ名は――『氷の女王』。
(私は……そんなに、変なのかな)
小雪はシャーペンを持つ手の力を僅かに強くして、目を伏せる。
(本当は、そんなつもりじゃないんだけどな)
その憂いを表情に出すことすらできないまま、小雪はノートに複素数の計算式を書き始めた。
静かに計算をしている彼女のことを一つ離れた席から見つめる、黒髪の男子の視線……彼女はまだ、それに気づかない。
* * *
放課後。小雪はクラスメイトに伝えたように、家事をするべく早々に教室を出た。
駐輪場に停めている自転車を取りに向かう。彼女の家は、徒歩通学をするには少しだけ遠いのだ。
今は午後四時。帰宅したら大体四時半。そこから料理をして、洗濯物をして、風呂掃除をして……と、そんなことをしているうちに夜になってしまう。
同居している父にも家事を手伝って貰う、という手はあるのだが、父には仕事に専念して欲しいのと、無理はして欲しくないのが小雪の本音だった。
故に、家事は大体彼女がやっている。
今日も早く帰ろうと、駐輪場の前の道に差し掛かったところで、小雪はピタリと足を止めた。
何故なら、駐輪場の手前で、女子生徒が男子生徒に告白らしきものをしているところだったのだ。
「春馬君、あの……マフィン作ってきたので、もし良ければ食べてくださいっ!」
「どうも。手作りしてくれたんだ?」
「はい! 春馬君のために、すごく頑張ったの!」
「ふーん。ありがと」
春馬、と呼ばれた黒髪の生徒に、小雪は見覚えがあった。
(あの人、たしかクラスメイトの……えっと、苗字なんだっけ。多分、ナントカ春馬だよね……?)
考えてみるが、全然思い出せない。
そもそもの話、小雪はクラスメイトのことを覚えようとしていなかったのだ。
それは人見知りなのと、周囲から揶揄されているため、仲良くなるのを回避しようとしてしまっていたからだ。
(名前分かんないけど、あの人モテるんだなあ……)
小雪が二人を眺めていると、ちょうどそこで部活開始のチャイムが鳴った。
女子生徒が「もう行かないと! ちゃんと食べてね!」と言い残して去っていく。春馬もそれに「いってらっしゃーい」と手を振って、駐輪場から去ろうとしていた。
これで駐輪場の方にも行けそうだ……と、小雪が安堵しながら自転車を取りに向かっていた時だった。
「一原さーん」
駐輪場の入り口。春馬が小雪のことを振り返って、ニヤリと笑っていた。
彼の企み顔が目に入り、小雪は思わず青ざめる。
(まさか……告白聞いてるの、気づかれてた!?)
もしそうなら大変なことだ。他人の告白を盗み聞きして楽しんでいるだなんて噂が立てられたら、『氷の女王』よりも、もっと変なあだ名をつけられかねない。
何と誤魔化せばいいのか、いや、それより逃げた方がいいのか――小雪が泡を食って動けなくなっているところに、春馬が笑顔で歩いてくる。
「さっきの、聞いてたんでしょ?」
「う、うう……違……自転車取りに行きたくて、終わるの待ってただけ……」
「そうなの? ふーん」
(ふーんって何!?)
春馬にニヤニヤしながら覗き込まれ、小雪はどんな反応をすればいいのか分からず、口が聞けなかった。
――彼の狙いは何? 何で私のことを見てニヤニヤしてるの……。
「俺さあ」
「……! は、はい」
「一原さんと一緒に話してみたかったんだよねえ」
「……」
彼の言っていることの意味が分からず、小雪は目を見開いて固まってしまった。
「わ、私と……話し、たい?」
思わず、返事がたどたどしくなってしまう。
だって、そうだろう。小雪は『氷の女王』と揶揄されていて、みんなに「冷たい人だ」と敬遠されるような人間なのだから。
そんな自分と話したい、だなんて……彼は一体、何を考えているのか。小雪には全くもって理解できなかった。
「な、何で……?」
「気になってたんだよ。ずっと」
「はあ……えっと、どの辺が?」
小雪が戸惑いながら尋ねるのに向かって、春馬は満面の笑みで答えたのだ。
「何考えてるか分からないところ」
「……」
この男、失礼過ぎるのでは? 小雪の心に、つららのように鋭い感情が芽生える。
小雪が表情に出さないように苛立っていても尚、彼女の感情に気づかない春馬は悦に入った様子で続けるのだ。
「俺さあ、自分で言うのもなんだけど、結構鋭くて。他人の考えてることとか、割とハッキリ分かっちゃうんだよね。でも、一原さんの考えてることだけは全然読めなくて興味深いの。もっと知りたいーって思っちゃうんだよね――」
「言いたいことは、それだけですか」
「ん?」
春馬が笑顔で小首を傾げた次の瞬間。
彼のみぞおちに、小雪の正拳突きがさく裂した。
「ぐふっ」
「もう私に関わらないで」
小雪は冷たい目で春馬を見降ろした後、スタスタと自転車を取りに去っていった。
みぞおちを押さえながら、春馬は彼女の後ろ姿を見つめて目を輝かせる。
「何だあれ……」
今まで出会ったことのないタイプの女子。何を考えているのか分からない上に「訳アリ」な自分に好奇の目を向けることもせず、凛としているあの美少女は、一体何者なんだろう。
もっと知りたい。しかし、先ほどの様子を見るに、かなり怒らせてしまったことは明白だった。
(ちょっとデリカシー無かったかな。ワクワクしすぎて、言い過ぎたか。謝っとかないと)
春馬はふらりと立ち上がる。そして、足元に光るものが落ちているのに気づいてそれを拾い上げた。
(何だこれ、ライオンのストラップ? もしかして、さっき落としていった?)
駐輪場には既に小雪の姿が無い。しかし、彼女の落とし物なら届けない訳にはいかなかった。
「謝るついでに届けますか」
春馬は小さく息を吐き、大きく伸びをしてから校門を出たのだった。
* * *
夕方五時、小雪は帰宅をしてホイコーローを作っていた。
ピーマンとキャベツと肉を炒めているうちに、徐々に冷静さを取り戻していく。
(告白の盗み聞き……腹パン……うう、明日からどうしよう……)
自分のしてしまった数々の失態を思い返して、小雪は思わず頭を抱えた。
(あの人、絶対怒ってるよね……もしかしたら、明日にはクラス中にそれが知れ渡ってて、『氷のグリズリー』みたいなあだ名で呼ばれだしたりとか……)
クラスメイトから冷ややかな目で噂される将来を想像してしまい、口から「ううう……」と情けないが漏れる。
(とりあえず、謝って……クラスの人には内緒にして貰えるように頼まなきゃ。多分クラスのメッセージグループにあの人も入ってるだろうし、こっそり追加して口止めをして……)
小雪がホイコーローを作り終えて火を止めながら、ズボンのポケットに入れておいたスマホを取り出したその時だ。
ブー、ブーとスマホが振動した。
確認すると、誰かからメッセージアプリの友達申請が来ているようだった。
(誰だろう、えっと……)
通知を開いて確認すると、そこには「春馬桜一朗があなたを追加しました」と文字があった。
(春馬って、さっきの人だよね? 苗字が春馬で、名前が……さくらいちろう?)
彼の名前が珍しくて、小雪は首を傾げていたが、すぐに我に返った。
(連絡先、交換してくれたんだったら好都合だ。今からメッセージで謝罪の文言を……)
小雪がタプタプと「さっきはごめんなさい」と打っている間に、向こうからメッセージが来た。
――ちょっと会える? 薫野湖公園にいるんだけど。
「え……?」
唐突なメッセージに困惑していると、間髪入れずに次のメッセージが来た。
――さっきはごめん。落とし物拾ったから、渡したい。
「落とし物……何か落としたっけ――」
小雪は戸惑いながらスクール鞄を漁ろうとして、目を丸くした。
ファスナーに着けていたライオンのストラップが無い。
「うそ……」
小雪は息を飲んで、勢いよく立ち上がる。
あのストラップは、彼女にとって数少ない「大切なもの」だったのだ。
家事が全て終わった訳ではない。ご飯と味噌汁もよそえていないし、風呂掃除もまだだった。
でも、あのストラップを落としたと知って冷静になんてなれなかった。
小雪は父の部屋の扉を勢いよく開ける。
「お父さん!」
すると、デスクの前に座って、液晶タブレットでイラストを描いていた父が振り返った。
「どうかしたの?」
「あの……会わなきゃいけない人がいて、ちょっと行ってくる。ご飯と味噌汁よそえてないけど、あと、洗濯とお風呂もまだだけど……!」
小雪の顔は、どこの誰が見ても思い詰めていた。
娘のただならぬ様子を見て、父は慌てて立ち上がり、「大丈夫だよ」となだめる。
「ご飯と味噌汁ぐらい自分でよそえるし、お風呂掃除もやっておく。洗濯は小雪が帰ってからにしよう。ね?」
「う、うん……ごめん、行ってきます」
小雪は父に勢いよく頭を下げて、家を飛び出した。
四月も半ばの夕方は、少しだけ肌寒かった。
薫野市は北国の地方都市。東京都心の方はもう桜も散り際だが、ここはまだ咲き始めといったところだ。なんなら、一週間前には薄く雪も積もっていた。
大慌てで来てしまったために、小雪は上着を忘れてしまっていた。思いのほか寒い外の空気。このままだったら風邪を引いてしまう。
しかし、引き返している余裕はなかった。
小雪は息を切らしながら、湖のほとりにある薫野湖公園の中に入った。
彼の姿を探しながら、桜の木に囲まれた湖の周りを歩く。
街灯があるとはいえ、時刻は既に午後六時。夕日が沈みかけている園内は薄暗かった。これでは彼一人を探すのも一苦労だ。
「どこにいるのか確認しておけばよかった……へくし」
小雪がくしゃみをしたその時。
後ろから、グレーのパーカーが、体にふわりと掛けられた。
「え……」
「いたいた。探したよ」
小雪が振り返ると、そこには制服姿の春馬が、優しい桜色のタレ目を細めて立っていた。
落ちかけの夕日に照らされ、柔らかく光る彼の微笑み。それに胸を打たれて、小雪は思わず目を見開く。
──なんて綺麗なんだろう。
息をするのも忘れてしまった夕方の湖。小雪が我に返ったのは、春馬が昼間と同じニヤけ顔で発した言葉を聞いたからだった。
「どっかのベンチに座って、俺に連絡してくれれば、そこまで行ったのに」
「あ……たしかに」
「ふふ、一原さんって、待ち合わせ初心者?」
彼の言葉に、小雪の顔がカーと赤くなる。
図星だったのだ。待ち合わせなんて、別の学校の幼馴染とするとき以外は滅多にしない。そして、そういう時は大体、彼女の方が先に来て小雪のことを待っていてくれる。
自分が相手に待ち合わせ場所を指定した経験は、小雪には無かった。
「……ごめん」
「え、何で謝るの?」
「私……待ち合わせとか、滅多にしないから。クラスの集まりも全然参加しないし」
「ふーん、そうなんだ。俺と同じだ」
春馬が何でもないような笑顔で言うのに気づいて、小雪は目を丸くした。
「あなたも、そうなの……?」
「うん。賑やかな集まりは苦手なの。こっちにも事情があってね」
「事情……」
「気になるなら教えるけど」
春馬は、初対面の時と同じように飄々と笑っていた。
しかし、彼の目が少しだけ冷たいように感じてしまった小雪は、首を横に振る。
「う、ううん。暗い話になりそうだから遠慮しとく」
「ふは、何だそれ。もしかして一原さん、勘がいい人?」
冗談めかしい彼の言葉に、同じように冗談で返せればどれほどよかっただろう。しかし、小雪にはどうしてもそれができなかった。
「……他人の顔色を気にしながら生きてきたから、些細な変化でも、割と気づいちゃう」
ポツリと答えながら、彼が羽織らせてくれたパーカーをぎゅっと握った。
脳裏に、いつも父親と喧嘩してばかりだった母親の顔が蘇る。
「ちゃんと気づけるのに……どう反応したらいいのか分からなくて、何も言えないのが、私」
何で、今日初めて話したクラスメイトにそんなことを話しているのか、小雪には分からなかった。
ただ、口が止まらなかった。
「本当は、もっと友達を作りたいんだ。でも、それができないの。器用じゃないから……」
小雪がたどたどしく語るのを、春馬は静かな顔で聞いていた。
器用じゃないからと言ったきり、彼女の言葉が途切れる。それを見計らって、春馬は微笑みながら口を開いた。
「俺達、案外似てるかもね」
「え……?」
「俺もさ、人間関係あんまり得意じゃないんだ。一原さんと似ていて、色んな人の気持ちを敏感に感じ取っちゃう特性があってね……なんか大体分かるんだよね、下心がある人間とか、俺を利用しようとする人間って」
「利用しようとするって……」
「一原さんも事情を教えてくれたし、俺も教えてあげる。俺、生まれつき他の人より能力が高いんだ。特に高いのは、感受性と記憶力。人の態度と言葉に超敏感。それから、一回見たものとか、聞いたものとか、まず忘れない」
彼の言葉を聞いて、小雪は目を丸くした。
そんな人が、現実にいるなんて。そういう人は、物語の中にしかいなものだと思っていた。
小雪は思わず、「すごいね」と漏らす。
すると春馬は、「いいことだけじゃないよー」と笑った。
「嫌な事とか、忘れたくても忘れられないし」
「あ……そっか。あ、じゃあ、私の正拳突きも!」
「ふは、忘れないね。死ぬまで覚えてる」
「そ、そんな……忘れて、欲しかったのに……て、そうじゃなくて!」
小雪は大慌てで頭を下げ、必死に謝罪する。
「ごめんなさい! 嫌な事、言われたからって、急に殴ったりなんかして! あと、告白を聞いちゃってたのもごめんなさい!」
「あはは、そんなに謝んなくても」
「でも……」
「いいってば。別に、あれに関しては忘れたいと思わなかったし。こっちこそ、デリカシー無いこと言っちゃってごめんね。嫌な気持ちにさせたでしょ」
「う、うん……。でも私……あんな風に話し掛けて貰えたの初めてで、あなたの言葉にどんな反応すればいいのか、よく分かんなかったの。だから……」
「だから、つい手が出ちゃった?」
「うん……ごめんなさい」
小雪が申し訳なさそうに縮こまるのを見て、春馬は「ふは」と笑った。
「俺も、憧れの一原さんと話せてテンション上がっちゃって、距離感ミスっちゃったんだ。てか、普段も結構ミスりがち。その証拠に、みんな俺のこと『使える奴』だと思って親しくしてくる。だーれも俺自身のことは考えてくれてないの。目が行ってるのは俺の容姿と能力だけね」
春馬の顔は笑顔なのに、どこか寂しそうで、今にも遠くに行ってしまいそうに感じた。
「じゃあ、今日の告白も……?」
「そう、まさにその類い。この見てくれとレッテルだけで測られてる感じ、俺らってやっぱり似てるね」
春になりかけの、冷たい夕風が吹き抜ける。彼の柔らかそうな黒髪が、ふわりと揺れた。
「俺と似た者同士な君に、一個お願いがあるんだ」
春馬の笑顔に、小雪の視線が吸い寄せられる。
彼の桜色の瞳から、目が離せない。
しかし、次に繰り出される彼の言葉に、もっと心を縫い付けられてしまうのだ。
「俺と同盟を組んでくれない? 独りぼっちな俺と君。一緒に、助け合える親友になれたら嬉しいんだけど」
夕桜のように穏やかで、儚げな笑顔で告げられた頼み。どちらも、小雪が知らない春馬の姿だった。
よくモテて、容姿だって綺麗で、頭もいいのに、孤独な小雪のことを自分と似ていると言う彼。
一体、どんな人間なんだろう。
初めての気持ちが雪のように降り積もり、小雪は頬を薄紅色に染めたまま、何も言えずに彼を見つめていた。




