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ヴィオレッタはひとまず、手にしていた花輪を窓枠に置いた。
「まあ。今日からはわたくしも、ヴィオレッタ・カルフールですのよ。どうかヴィオレッタとお呼びください、旦那様」
なんとなく花の向きを整えてから、新しい夫に対面する。
「ヴィオレッタ・カルフール」
それだけ言って、学園長先生......旦那様は、ひとつ瞬きした。
灰色の眉の下で、グレーやスチールブルーに近い、濃い色の目が点滅する。
そして、もう一度。
白い顎髭を撫でる。もう片方の手を彷徨わせて杖を手に取り、思い出したように椅子を引いて立ち上がった。
それでどんどん、まさしく物語に出てくるような魔法使いのローブが、ヴィオレッタの視界の上の方まで上ってくる。瞳の色によく似た氷河の海のような色だった。
最終的に、白髪の頭を天辺にして、ヴィオレッタよりも頭二つ分ほど高い位置で停止する。
それから沈黙したまま、三秒ほど。
そしてわたくしを見下ろして何かを言おうとし......口を閉じた。
再度お髭を撫でられる。反対の手では、節の立った指が杖の木目を彷徨う。
そこでようやく気付いたように自分が握る杖を見て、迷う素振りを見せてから杖の石突を床に降ろした。
カツン、と軽い音が立ち、杖の頭に取り付けられた魔法石が一瞬輝く。
塞がれていない片手のみ、しかしそれでも体に馴染んだ素振りで、皺のある手が差し出される。
「ああ......なるほど......では、ヴィオレッタ嬢とお呼びしても...?」
「ええ、もちろんです」
「では、ヴィオレッタ嬢」
ヴィオレッタは掌の上に自分の手を重ねながら答えた。
優しく、しかししっかりと引き寄せられ、手の甲に少しだけお髭が触れる。
とても自然ではあるけれど、流れるような貴族の身振りとは違った。
行われたお辞儀の型も、生まれながらでなく身を立てて社交界に入るようになった者が最初に身に着ける、最も基本的な型。
服装やアクセサリーのように気分で選んでマナーを切り替える、根っからの貴族のようではない。
それでも片手でこれほど自然に礼をとれるのだから、何度も繰り返した動きなのだろう。
むしろ、自分の家という私的な場面であっても、一番にこの基本的な礼儀が出てくることが、あまりにも優雅に対応されるより誠実に敬意を払われているように感じた。
すぐに上げられた顔に微笑みかける。
「わたくしも、ウォルター様とお呼びしても?」
「できれば、そちらの方がありがたい。“旦那様”はどうにも慣れぬようです」
「ふふ。あら、では、ウォルター様」
先ほど自分に向けられた言い方を真似て返してみる。
正直な言葉に笑みを零しながら、しゃんと元通りに背を伸ばしたウォルターを見上げた。
本当に背の高い方だったのねえ...。
普段、お見かけするのは、学園の大きな催しのご挨拶くらいのもの。
それ以外に社交の場でも稀に目にする機会はあったけれど、どちらにせよ遠くからに過ぎず、ご本人もお忙しいのかすぐにその場を辞してしまう。
それでも、その稀な機会では、先生がいらっしゃることは一目でよくわかった。
その地位や、力ある魔法使いとして敬意を払われるお立場もあるでしょうけれど。ピシリと背筋を伸ばして、魔法使いの大きな杖とローブを身に着けた老紳士は、どこからでもすぐに見つけらる。
それには、その長身も大きく役立っていたのでしょう...。
見上げるヴィオレッタの視線にどう思ったのか、にこり、とウォルターは、口髭の下でヴィレッタに微笑み返した。
同時にほんの少し眉が下がって、少々困ったような笑い方だ。
ヴィオレッタも目を細めてもう一度笑い返した。
「お茶を淹れさせていただいてもよろしい?」
「......しかし」
「どうかお気になさらないで。これからお世話になるんですから、これくらいさせていただきたいの」
「.........お願いしましょう」
小さな咳払いをして、ウォルターはヴィオレッタの背中のほんの少しに手を置き、台所のカウンターまで導いた。
調理台の上に置きっぱなしの紅茶缶とマグカップを見るや、やや気まずそうに杖を掲げる。
「失礼、」
パン、と食器棚の扉のひとつが開いた。そこから飛び出したティーポットやカップやソーサーなどの一式が、ふわりと風を伴ってヴィオレッタの前に静かに着地する。
「まあ。ありがとうございます」
「いやいや、こちらはお茶を淹れていただく身です」
壁際の調理台に振り返り、薬缶を取り上げ、コンロにかける。
コンロの下にはネジではなく、魔法石が付いている。この世界のコンロは使ったことがないけれど、今までに習い覚えた魔法を鑑みると、使い方は想定できた。
魔法石へ魔力を流し込み、魔法で点火した火の大きさを調整する。
テーブルの椅子に戻られるだろうと思っていたウォルター様は、動かずに小さな調理台の脇に立ったままだった。
お疲れではないのかしら。別に座ってもよろしいのに。
突いた杖を、体の真正面で緩く持ち、杖の頭を右肩に寄りかからせて、考え込むような眼差しでヴィオレッタの手元を見ている。
その体はじっと静止しているけれど、杖に預ける手の指先は、ピアノを弾くような速い動きで流れるように柄を叩いている。
何か違和感があるように思って注視してみると、よく見れば動く指先のまわりを風が渦巻いていた。無意識に魔法を使っているようだ。
見ていて面白いわねえ。
お湯の湧く時間を使って、ヴィオレッタも目の前の夫となった男の観察を続ける。
お見かけした稀な機会と同じように、その長身でピシリと背筋を伸ばし、大きな杖とローブを身に着けられている。足元には複雑な留め金の嵌め込まれたブーツ。真っ白で長い髪と髭も相まって、まるでお伽噺から抜け出てきた老魔法使い。
こうして近くで見ると、その迫力もまたいっそう。ディズニー映画に出てくる老魔法使いのよう。
それでいて、魔法使いかぶれの貴族とは違い、緩く手に杖を握る様子は自然体だった。
杖の木材は使い込まれた磨きを持っているし、鉄らしき石突には緑青がわずかに見える。
頭に嵌め込まれた透明な魔法石は、内側に細かな傷を持っていた。それが微細な光を反射しているのね。
絵巻よりもよほど、真実味もある。
そして同じように、もちろん、彼自身も絵本に描かれているようではない。
髭と揃いに伸ばされた純白の髪はざっくり額で分けられ、背中へ垂らされている。
近くで見る眉はあまり弧を描かない、真っ直ぐな形。瞳は深い青にも灰がかった緑にも見える色。
口髭は短く整えられ、その下に唇の形も真っ直ぐだった。
そのような特徴のひとつひとつが、細やかに、ちゃんと生きた男性なのだと伝えてくる。
ふ、とその青とも緑ともつかない目が上げられて、ヴィオレッタの目と合った。
にこりと微笑んでおく。
何を思われたのか、それで少し慌てたように目を見開かれて、杖が一振りされた。
調理台の上に広げられた食器類に洗浄魔法がかかる。
さっきからこんなことで魔法が大盤振る舞いされているのが面白くて、ヴィオレッタはとうとう口元に手を当てて笑いを堪えた。
「まあ......気が利きますこと」
笑み混じりのヴィオレッタに、ウォルターはなぜかますます気まずそうにする。
「いやはや......客人に慣れぬもので」
「うふふ。素敵でしてよ」
「...お恥ずかしい」
髭を撫でながら苦笑いしていたウォルターは、それでも笑っているヴィオレッタを見て、ふっと小さく笑った。
その瞬間、灰色の眉に優しげに皺が寄る。
本当に素敵な男性ねえ。
沸いたお湯を薬缶からポットに注ぎながら、ヴィオレッタはしみじみ思った。
今まであまり関わったことはなかったけれど、本当に素敵なお爺様だわ。前世のゲートボール倶楽部にいらっしゃられたら、奥様方に大人気だったことでしょう。
今まで独り身だったご様子だし、ご主人に先立たれた方たちには、こぞって熟年再婚を狙われていたでしょうねえ...。
ポットから一度お湯を注ぎ、カップを蒸らす。コポコポとお湯が注がれる音だけが響いた。
またカップからポットへお湯を戻す。
この茶葉、色や大きさを見るに南方の領地からのものかしら。この国では珍しくないけれど、花びらや薬草の葉が混じって香りづけされている。
茶葉は直接カップで淹れられるよう、一人分ごとに粗い布の包みで小分けされていた。前世のティーバッグね。
少し迷ったけれど、やっぱり美味しく淹れた方が良いと思って、個包装している布を解く。
二人前の茶葉をポットの中に入れた。
「感想が遅くなってしまいましたが、素敵な花輪ですな」
「うふふ。使ったお花が素敵だったお陰ですわねぇ。勝手にお庭から摘ませていただきましたけれど...よろしかったかしら?」
「無論。見ておわかりでしょう。普段は伸ばし放題にさせるままですからな...こうして役立ててくれるのは有難い」
「とんでもありません。こちらこそ、そう言っていただけると嬉しいわ」
ティーコゼーやティーマットはなかったので、代わりに魔法で代用した。
といっても、カバーで熱を閉じ込めるのではなくて、少々ポットまわりの風を操って熱を持つ空気が移動しないようにするくらい。
さり気なくしたつもりだったけれど、ウォルター様が感心したような顔をしているのがわかって、なんだか擽ったいような気になった。
魔法学園の園長先生ですもの。わかりますわよねえ。
そして、お茶を蒸らす段階になっても、ウォルター様は立ち去られない。
それが面白くて、ヴィオレッタはさっきから笑いを堪え通しだった。
それが無作法というわけではないけれども。
特に貴族の間では、用もないのに脇で立って待っているなんてまずない。空き時間は、余裕を表すようにゆったり座っているのが常だ。
お話し方だって、とても丁寧に話してはいらっしゃるけれど、話題に何も含むところがないととても良くわかる。きっと思いつくままに話していらっしゃるんでしょう、話題に入る前の、関連する社交辞令の応酬もない。
もちろん、それも無作法ではない。
けれど、生まれてこのかたほとんどの時間を王族の婚約者として、そのような迂遠な関わり方ばかりで過ごしてきたヴィオレッタは、それが面白くて仕方がない。
だって、フォルティア学園の学園長として長年勤めていらしたということは、社交もそれなりに重ねてこられたということ。現に、ヴィオレッタは幾度もウォルター様を上流のパーティーでお見かけした。
礼儀作法だって、基本的な部分は体に染み込むほど学ばれたようだし、意識して実践もしているようで、ヴィオレッタへの態度はとても紳士的だ。
だからこそ、言動の端々から、本当に必要なだけの作法を身に着けたのだろうと伝わって、とても面白い。
教師として、魔法使いとして上り詰めただけに、頭の良い方ではあるのでしょうし。物覚えもきっとよろしいでしょうから、余計に......。
必要だと思われなかったのでしょうねえ。本当に。出世欲がないと言うかなんというか...。
とてもおかしい。
「よろしければ、ヴィオレッタ嬢。お聞きしたいことがひとつ」
やっぱり、ざっくり本題に切り込んでいらっしゃった。最初に断りを入れているし、ちゃんと丁寧ではある。
言いながら、ウォルター様は空中で見えない糸を手繰るように指先を動かして、そこにどこからか吸い込まれるように砂時計が収まった。
まるでそれが普通のことのように紳士的に、ヴィオレッタへ砂時計を差し出してくる。
面白い方ねえ。いろいろな意味で。
「はい。なんでしょう」
ウォルターと同じように上品に砂時計を受け取って、ヴィオレッタは見上げる。
一度、二度、と髭の下で開いては閉じる口。王国の知の頂点たる学び舎の長であることを考えると、本当に珍しいことに、なかなか言葉が出てこない。
「私は...私とヴィオレッタ嬢は............いつ、婚姻を......?」
ヴィオレッタは、慎重に砂時計をひっくり返した。
「まあ。ご存知ではいらっしゃらない...?」
「...申し訳ない」
......あらあら。大変。




