記憶:5
急に視界が真っ白に染まる。死んだのかな、って思ったけど……たぶん、違う。ピリピリとした僅かな痛みがあるから。
意識を失った、のかな? それなのに痛みを少し感じるなんて、目覚めたらものすごく痛い思いをするのかもしれない。
けど、別にいい。痛みには結構、慣れているから。
それよりも今はこの状況のことを知りたい。ゆるりと辺りを見回すと、真っ白な世界だった景色がゆっくりと変わっていった。
見ている、という感覚とは少し違うかな。今の私に実体は感じられないから、夢を見ているのかもしれない。
ああ、これはあの時の景色だ。
薄暗い山の中、雨と土の香り。山道をゆっくり歩く、私とマリエちゃん。
「エマ、気分転換に来てよかったでしょう? ただ、天気が最悪だったわ。山の天気って本当に変わりやすいのね」
隣を歩くマリエちゃんが困ったように笑ってそう言った。あの時と一緒。
ドクン、ドクン、と心臓が脈打つ。この後の展開を知っているからだ。
先を見たくない。やめてほしい。見たくない。
「下山したらあったかい物でも食べに行きましょ? 今度エマと一緒に行きたいと思ってたお店があってね」
嬉しそうに話すマリエちゃんの笑顔が、今だけは見たくなかった。目を塞ぎたいのに、今の私にはそれが出来ない。
急に突風が吹いて、私の帽子が飛ばされた。マリエちゃんは反射的にそれに手を伸ばす。
やめて。やめて。帽子なんていいから。手を伸ばしたらダメ……!
だけど、その手をすり抜けて帽子は飛んで行く。マリエちゃんは待てーっ、と言いながらさらに手を伸ばし、足を一歩踏み出した。
「きゃ……っ!」
「えっ、ま、マリエちゃ……!」
ズルッと彼女の足が滑った。夢の中の私が焦ったように声を上げる。
マリエちゃんは歩道の崖側を歩いていたのと、少し湿ってぬかるんだ土に足を取られたのだ。
崖側はロープが張ってあるだけの状態になっていたから、マリエちゃんはいともあっさりそのまま滑り落ちていく。
あの時の私は咄嗟に手を伸ばした。でもそれは、間に合わない。だって知っているもの。
私の手は、マリエちゃんには全然届かなかった。もっと私の反射神経が良ければつかめていたかもしれない。
ううん、そもそも帽子をしっかり被っていたらこんなことにはならなかったのに。
「マリエちゃん……!」
あっという間だった。マリエちゃんの姿が消えてしまったのは。まるで、最初からここにはいなかったみたいに。
あの時の私は精神的にとても参っていて、気分転換にとマリエちゃんが山歩きに連れて行ってくれた。初心者でも歩ける舗装された道だからって。それに、登るのは途中までにして、すぐに引き返そうねって。
なのに、どうしてこんなことになったのだろう。引き返そうとした矢先のことだった。
その場に座り込んで動けなくなったのを覚えてる。周囲にいた人たちが騒いで、呆然とする私に声をかけてくれたのもぼんやり覚えてる。
だけど、それ以上の記憶がない。ううん、なかった。今、思い出した。
あれから、夜中までかけて捜索がされたのに、マリエちゃんはなぜか見つからなかった。有名なハイキングコースで、この場所であれば遭難などまず考えにくいっていう場所だった。
それなのに、まるで神隠しにでもあったみたいにマリエちゃんはその姿を消してしまったのだ。
マリエちゃんが滑り落ちたのは、確かにそれなりの高さがある崖だった。でも、よほど当たり所が悪くなければ怪我はしても生きている可能性の方が高いって言われたんだ。
だから、私は何度も頷いてひたすら待った。自分でも、探せる場所はたくさん探した。
それなのに、消えてしまった。見つからなかった。
その日はもう遅くなるからと家に帰されて……たぶん、マリエちゃんと一緒に暮らし始めた家に一人で帰ったんだと思う。そして、玄関の前で気を失った。
目が覚めた時には、前日にあった出来事を全て忘れてしまっていた。
元々、精神的に限界だったこと、そしてあまりにもショックな出来事だったからだと思う。私の心は、自分を守るために記憶を消してしまったのだ。
なんて余計なことを、って今なら思う。どうして私はこんなに大事なことを忘れてしまったの?
のうのうといつも通りに生活をして、今日はマリエちゃんが帰ってくるの遅いなぁって呑気に思っていたんだ。
そこへ、義母が来た。
そりゃあ、怒るよ。義母だって怒るに決まってる。私を人殺しだと罵って、叫んで、暴力をふるってもおかしくない。
心のどこかで罪の意識があった私は、それを罰として受け入れた。どんな痛みも苦しみも、受け止めるべきだと無意識に思っていたんだ。
そして、私はついに義母によって首を絞められたのだ。
「これで、全部だ……全部、思い出した」
死んで当然の人間だったじゃないか、私は。肌が焼けるような痛みよりも、心の方が痛かった。
ねぇ、私は今度こそマリエちゃんを助けられたのかな? エトワル、ジーノ、シルヴィオ。私のことはいいから、マリエちゃんを助けて。
ギュッと腕に力を込める。すると、なぜだか身体の感覚が蘇ってきたような気がした。腕の中に、何かがある。それを、私は大事に抱えていた。
トクントクンと、とても落ち着く音が聞こえる。それが心臓の音だとわかるのにしばらくかかった。
「マリエ、ちゃ……」
ゆっくりと重たい瞼を押し上げた。霞む視界で確認出来たのは、懐かしいマリエちゃんのやや明るい茶色の髪だった。




