第6話 今日の飯は、何だ
「あなた」
俺を呼んだのは、帰蝶だった。
畦道を、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。野良着の袖をたくし上げ、手には湯気の立つ椀を載せた盆を持って。
豪奢な打掛も、きらびやかな簪もない。日に焼けた頬。土に汚れた手。
それでも、俺には、あの輿入れの夜に初めて見た、あの日よりも、ずっとずっと美しく見えた。
「精が出ますな」と、帰蝶が笑う。
「ひと休み、なされませ。お茶を持ってまいりました」
俺は立ち上がって、帰蝶の傍へ歩いていった。
――昔の俺なら、考えられないことだ。
人が怖くて、誰のそばにも寄れなかった。
女が怖くて、うつけを演じて人を遠ざけた。
人肌が恋しくて、相撲の土俵だけが、唯一、人に触れられる場所だった。
刃物のない、裸の土俵で。ただ人の温もりに触れたくて、俺は力士を集め続けた。
そんな孤独な男が。
今は、帰蝶の手を、当たり前のように取れる。
俺は、帰蝶の土に汚れた手から、そっと椀を受け取った。
そのとき、ふれた指先が、あたたかかった。
ただ、それだけのことが、俺には天下を取るよりも、ずっと尊いことに思えた。
茶をすすりながら、俺はふと思い出して言った。
「そういえば」
「はい?」
「信忠から、また文が来ていたな」
息子も、生きている。二条城で討死したことになった、あいつも、今は名を変えて。どこか遠い国で、達者にやっている、らしい。
「ええ。山の向こうで。今年は米が、よう実ったと」
「そうか」
「親子そろって百姓とは。織田のご先祖も、さぞお嘆きでしょうな」
帰蝶が、いたずらっぽく笑った。
俺も、笑った。
嘆けば、いい。
第六天魔王の血筋が、鍬を握って笑っている。
これ以上の結末は、ない。
日が、傾いてきた。田の向こうの山が、夕焼けに染まる。
「さて」と、帰蝶が立ち上がる。
「そろそろ戻りましょう。日が暮れまする」
俺は空の椀を返して、それから自然に、帰蝶の手を取った。
「帰蝶」
「はい」
「今日の飯は、何だ」
帰蝶は、こちらを見て、それから、ふふ、と笑った。
「ふふ。なんでしょう、な」
二人、手をつないで、夕焼けの畦道を、小さな家のほうへ歩いていく。俺たちの背を、あたたかい風が押していった。
***
『信長の野望』
世間は、それを天下統一の、果てしない野心だと信じている。
だが。
戦国一の臆病者の、たった一つの野望は、これだった。
誰にも怯えず。
好いた相手と。
田舎の畑を耕して。
飯を食って。
眠る。
ただ、それだけの小さな願いが、今、ようやく、静かに叶っていた。
最終話まで、毎晩お付き合いくださって、本当にありがとうございました。仕事帰りの電車で、休憩の片隅で、眠る前の数分で、この臆病者の一代記を追いかけてくださった、その一日一日が、九十八話を、最後まで運んでくれました。
戦国一のビビリで、虫も殺せない優しい男が、怖くて震えて泣いて、それでも大切な人たちに支えられて――たった一つの、小さな野望に、たどり着きました。人が怖くて誰にも触れられなかった男が、今、当たり前に、手を取れる。それだけの物語を、ここまで見届けてくださったこと、心より御礼申し上げます。
最後にどうか、【笑える】【びっくり】【にこにこ】【泣ける】【いいね】――この長い旅で動いた感情のぶんだけ、全部にリアクションを。そして★を、完結したこの物語を明るいほうへ送り出す拍手がわりにいただけたら、これ以上の幸福はありません。
それでは――「帰蝶、今日の飯は、何だ」。
戦国一の臆病者の、たった一つの野望が、今、静かに叶いました。長らくのお付き合い、本当に、ありがとうございました。
冬野 結




