第4話 山に入る
軍を率いて、山の麓に着いたとき。
俺はもう、引き返したくてたまらなかった。見上げれば、霧の向こうに、黒々とした山がそびえている。あの上に、武装した僧兵がいる。あの上で、人と人とが殺し合うことになる。
殺したくない。殺されたくない。どちらも同じくらい、俺には耐えがたかった。
胃が、きりきりと痛んだ。帰りたい。岐阜に帰って、帰蝶と静かにしていたい。畑でも耕して、誰も殺さず、誰にも怯えず、それだけで生きていたい。いつもの本音が、頭の中でぐるぐると回った。
家臣たちは、俺の顔色を見て、こう囁いていたらしい。
「殿の、あの静かな面構えを見よ」
「仏の山を攻めることに、一片の迷いもない。なんと、肝の据わった」
「神仏すら恐れぬ、お覚悟よ」
違う。迷いしか、ない。顔がこわばっているのは、覚悟のせいではなく、恐怖のせいだ。口が利けないのは、肚が据わっているからではなく、怖くて声が出ないからだ。
進むしか、なかった。ここまで来てしまった以上、退けば、それこそ背後を突かれる。ここで退けば、味方も、まとめて殺される。俺一人の恐怖で、皆を死なせるわけにはいかない。そう、自分に言い聞かせた。
それでも、足がすくんだ。俺は、震える足を叱りつけて、山道を登り始めた。
木々が、両側から迫ってくる。道は、細く、暗い。俺のいちばん嫌いな種類の場所だった。逃げ場のない、暗がり。
一歩、進むごとに、心臓が跳ねた。木の影が、人に見える。風が枝を揺らす音が、刃の鳴る音に聞こえる。喉がからからに渇いて、唾を飲もうにも飲み込めない。手綱を握る手だけが、じっとりと汗ばんでいた。俺は、何度も、立ち止まりそうになった。
背後の家臣たちは、その俺の様子を、微塵も疑わなかったらしい。
「殿は、ひと言も発せられぬ」
「聖なる山に兵を向けるという大罪を、無言で背負うておられるのだ」
違う。言葉が出ないのは、覚悟のせいではない。喉が恐怖で締めつけられて、声にならないだけなのだ。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。頭の中で、その言葉だけが鳴り続けていた。
それは、突然だった。
木々の影から。鬨の声とともに。薙刀を構えた僧兵たちが、一斉に襲いかかってきた。
「魔王を、討て――!」
「仏敵を、ここで、葬れ――!」
刃が、すぐそこまで迫ってくる。何本もの薙刀が、頭上で鈍く光った。逃げようにも、道は細い。両側は、木々と崖だ。戻ろうにも、後ろからも別の僧兵が回り込んでくる。
囲まれた。
また、だ。また、逃げ場がない。
俺の体が、固まった。心臓が、肋を突き破りそうに暴れ出す。息が、できない。吸っても吸っても、肺に届かない。冷や汗が噴き出して、背も胸も、じっとりと全身を濡らしていく。歯の根が合わず、かちかちと鳴った。視界が、端から白くにじんでいく。
殺される。逃げ場が、ない。死ぬ。ここで、死ぬ。
やめてくれ。俺は、誰も殺したくない。俺だって、死にたくない。
恐怖が、俺の耐えられる限界を。
超えた。
その、瞬間。頭の中で、ぷつり、と。何かが、切れた。
できれば引き返したいのに、刃が迫る。「ぷつり、と、何かが、切れた」――その一線にぞくりとしたら、【びっくり】を! この先を追うために、ブックマークを。




