102 電話
今年も残すところ二週間。年が明ければ新しい自分に生まれ変われるのではと、去年も一昨年も思った。しかし、現実はそう単純ではない。仕事が順調に入ってきて、忙しさで紛れているのが救いだ。
受注に関しても、現場でも、新藤建一郎直々の教え子という肩書きは相変わらず強力だった。それに加えて、一希自身の能力に対する高評価も定まりつつある。特に、「よく気が付く」、「経験を重ねても慢心せずに安全を徹底してくれる」といった点では、諸先輩方を凌ぐという声もあるほど。
連日の打ち合わせと予行練習が何とか落ち着き、今日はたまっていた事務仕事にようやく手を付けることができた。
書類の整理が一段落して風呂を沸かしていると、電話が鳴った。
「はい、冴島です」
しばしの沈黙。どちら様、と言いかけた時、
〈……冴島〉
(えっ……?)
名を尋ねる必要はもちろんなかった。ふと浅くなる一希自身の呼吸が、高鳴る熱い鼓動が、答えだった。
「あ……先生……お久しぶりです」
〈ああ〉
久しぶりなんてものではない。たっぷり二年ぶりだ。
〈どうだ、調子は?〉
「お陰様で……」
元気です、と言いかけたのを引っ込める。
「順調です。来週デトンが一つあって、このところはその準備にかかりっきりでした」
〈百瀬海岸の一トンってやつだな〉
ズバリ言い当てられて一瞬面食らったが、元弟子の仕事の受注状況ぐらいは、どこかから伝え聞いているのだろう。
「はい。補助士二人と安全化することになってます」
〈結構忙しそうじゃないか〉
「はい。ありがたいことです」
……しばしの間が空いた。
〈ところで〉
「はい」
〈年越しはどうすんだ?〉
今さらの奇妙な問いに面食らう。新藤が出て行ってから年を越すのはもう三度目だ。
「特に……考えてません。かろうじて友達な人たちも実家で過ごすみたいだし」
〈サラナの解体を年またぎでやっつけるつもりじゃないだろうな。八十六個だったか?〉
それを聞いて思わず苦笑する。
「さすがにお耳が早いですね」
〈俺は研究室で新年を迎えるなんて御免だから、休みを取ったぞ〉
「あら、じゃあ、どこかご旅行でも?」
数秒の間があった。
〈……そっちに行ってもいいか?〉
(え?)
心臓がきゅんと縮む。受話器にかかる息が動揺を伝えてしまいそうで怖い。
(行っても、って……?)
〈サラナ手伝ってやる〉
その言葉の意味を、一希は量りかねた。声が震えそうになるのを何とかごまかす。
「心配ですか?」
〈ああ、心配だ〉
「あれだけビシバシしごいといて、未だに?」
〈だからこそ、かもしれん〉
「とかいって、本当は私に会いたいだけなんじゃないですか?」
〈ま、そういうことにしといてやろう〉
一希は断念した。何か大事な話があるからこそわざわざこんな電話を寄越したのだろうが、いずれにしても会うまではおくびにも出す気はないらしい。例の研究に関する協力を頼みたい、だろうか。それとも、他の奴に処理室を譲ってくれ、だろうか。
〈で? いいのか、行って〉
新藤が念を押す理由がわかるような気がした。残念ながらその心配はない。
「はい、大丈夫です、誰もいませんから」
当て付けのように聞こえただろうか。いや、実は、軍員や同業者の奥さん連中が縁談を世話しようとしてくれたことは何度かあった。まだ未練を引きずっている一希はもちろん乗り気とは言い難かったが、このまま一生一人というのも寂しいだろうか、会うだけ会ってみようかという気になったこともある。
しかし条件として必ず、一希がこの仕事を辞めることが求められた。それが理由で、結局どんな見合い話も流れてしまう。もっと腕を上げたい、社会の安全に貢献したいという気持ちももちろんあるし、何よりここまで育ててもらい、処理室まで引き受けておいて、そう簡単に辞めるわけにはいかなかった。
新藤が返答しかねているのを感じ、
「お待ちしてますね」
と、慌てて言い添える。
〈ああ。じゃ〉
名残惜しかったが、一希が躊躇している間に電話は切れていた。たった今新藤と話したという事実が信じられない。
新藤は、去年は年末に古峨江に戻ってきて、例年通り永井と一緒に年を越した。曇っていたため初日の出は見られなかったが、二人で初釣りを楽しんだと永井から聞いている。しかし一希には何の連絡もなかった。きっともう会う気はないのだと、その時に思った。
だから、今年「そっちに行く」というのは、何かのついでに立ち寄るわけではない。少なくとも、単に年を越しに来るわけではない。
一希は受話器を握り締め、いつまでもその場に立ち尽くしていた。




