二本目
ランチタイムの最後の客が帰った。
「ありがとうございました」
言いきらぬ内にドアが閉まる。
ベルの音が私以外居ない店内にからんからんと響いた。
カウンターとテーブルに並んだランチの皿とグラス。まだほとんど回収出来ていない。
有線を消して、タバコに火をつける。
どうせ客などこない。都心のオフィス街にある喫茶店は、ランチタイムが終わればないも同然だからだ。
一息吸って、ゆっくりと肺に染み込ませる。
咥えたまま、まずはシンクに積み重なった皿を洗おうと手にした。
からんころん。
ドアが半分開いている。
「……いらっしゃいませ」
1cmだけ灰色になったタバコを揉み消して、言った。
「あの~、まだ大丈夫ですか」
昨日と同じ顔が同じ時間に、ドアからこちらを見ている。
昨日、私に吸殻をぶちまけられた客。
得体のしれないVTuberというものをやっている、そんな客が、二日続けて店に来る。
私なら、来ない。
「……もちろんです、いらっしゃいませ。今カウンターを開けます」
私の返答を聞いて、彼女は笑った。
「よかった!一本、吸いたくて」
その声はやはり、動画の声と同じだった。
「先日は大変ご迷惑をおかけしました」
おしぼりと水のグラスを出しながら、カウンターに座った彼女に言う。
「申し訳ありませんでした。クリーニング代をお支払いさせていただきます」
そう言われるだろうと思った、という顔で、こちらを見る。
「大丈夫です。洗ったらきれいに落ちましたから」
怒りも、諦めもそこにはないように見えた。
「……さようですか。お気遣い感謝いたします」
彼女はハンドバッグからタバコとライターを取り出す。慣れた手つきで火をつけた。
セブンスターのメンソール。
「……コーヒーを、ホットで」
私は頷くと、サイフォンに粉をセットし、水を注いだ。
元々、誰かと話す機会は多くない。
昨日のやり取りと、先程の謝罪で、一週間分以上は話したな、と思った。
「……ここらへん、タバコ吸えるとこないんですよ。駅前のコンビニも灰皿撤去しちゃったし」
顎に手を置いて、彼女が言った。指先に挟んだタバコから細く煙が伸びている。
「だから、吸殻かけられたくらいじゃ、また来るんです」
少しだけ言い訳と、自嘲を込めた言い方だった。
改めて謝罪を要求しているような言葉ではなかった。
私は軽く頷いて、有線のスイッチを入れた。モダンジャズが静かに流れ始めた。
「お待たせいたしました」
コーヒーカップを彼女の前に置く。
「どうも」
軽く頭を下げて、すぐに口をつけた。
「うん……やっぱりおいしい」
やはり、私に言った言葉ではないだろう。
店内のランチタイムの残骸を集める。
その様子を見ていたのか、声をかけられる。
「昨日もですけど、ランチ、繁盛してるんですね」
皿を重ねながら、答える。
「……いえ、ランチタイムにしか来店がないので、これを繁盛というと、他の店に失礼になります」
冗談ではなく、本心でそう思う。
「でも」彼女が言う。
「失礼かもですけど、それで助かりましたよ、こっちは。お客さん沢山いるところではちょっと吸いづらいですもん、これ」
そう言って、タバコを持つ手を少しあげる。
「……閑古鳥が鳴いて、よいこともあるものですね」
私が言うと、彼女は「なんですか、それ」と笑った。
「ここ、店名はなんて言うんですか」
彼女の質問に、グラスを拭いていた手を止める。
この店が出来て5年。その短い営業の中で、唯一何度か客から聞かれた質問だった。
「ないんです、店舗名が」
その答えを聞いて、目が丸く見開かれる。
「そんなことできるんですか」
今まで質問をしてきた他の客も、同じ反応をした。
「できているようですよ」
軽く首をすくめる。
「食品関係の届出をするのに屋号はいりますが、店自体に名前はなくても構わないそうです」
「知らなかったー。え、じゃあ領収書はなんて書いてるんですか?場所的に領収書、書かされそうですけど」
単純に興味があるのか、それともただの世間話か。
そう言って彼女は少しだけこちらに身体を傾ける。
「ここのビル名を書きます。『相沢ビル B1F』と」
そう書いたことは一度や二度ではない。
「一度、お客さんに怒られましたね。いかがわしい店だと思われるから名前を書いてくれ、と」
彼女はにやりと笑う。
「……で、なんて返したんですか」
「“この値段で楽しめる店なら、私に紹介してください”」
一瞬だけ間があいて、彼女は「ぶっ」っと吹き出した。
「それは……ぶふっ、あははは!たしかにそうですね!」
たん、たん、とカウンターを手のひらで叩いて、笑う。
「えーと、んー、店長?でいいですか?それともマスター?」
煙を吹きながら、そう聞いてきた。
そういえば私が客に呼ばれる時は、「すいませーん」くらいだな、と思った。
「……マスター、は嫌ですね。そう呼ばれるほど拘りもプライドもありませんので」
「じゃあ店長でいっか。店長!」
人懐っこそうな笑顔を向ける。
「肉か魚、どちらかが食べられなくなるとしたら、どちらを選びます?」
「……なぜです?」
急な質問に、それしか返せなかった。
「質問に質問で返しちゃだめなんですよー。なんて。わたし色んな人と話す機会があって、その中の企画みたいなものなんです」
「テーマで色んな意見集めて、それについて話そうみたいな……伝わりますかね」
「まぁ、それなりに分かります」
「それ分かってないやつですよ……。で、店長はどちらですか?」
「……魚に出汁は含まれますか。含まれるなら肉を断ちますね。そばとうどんが好きなので」
「……それは考えてなかったな」
彼女はそう言ってまたタバコに火をつけた。
「出汁も含むなら、どう考えても魚が必要だと思います。味噌汁も食べられなくなるのは……ごめんですね」
「味噌汁……なるほどぉ……わたしは肉派だったんですが……」
「改宗しないといけないかもです」
私は首を振って、答える。
「私みたいな偏屈な人間がいると難儀しますよ。出汁やエキスは除く、とした方がいいと思います」
「偏屈って自覚のある偏屈な人……はじめて見ました」
笑いながら、そう言った。
私はゴミをまとめながら、少し笑った。
「私も、他人では見たことがないですね」
ゴミをまとめて振り向くと、彼女は肩肘をついてスマホを見ている。
「もう、閉店ですね。……わたしもいかなきゃなあ」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
「ん……!」ぐっと、伸びをする。
「店長は何も聞いてこないですよね」
またタバコに火をつけて、言う。
「この時間のオフィス街を、喫煙所を探してうろうろするスーツじゃない女を見たら、わたしでもなにか言いますもん」
「……接客業をやるにあたって、お世話になった人に教えていただいた言葉があります」
指を二本立てる。
「ひとつ、言われていないことを聞くな」
「ふたつ、聞かれてないことを答えるな」
楽しそうな目で私を見ている。
三本目を立てる。
「みっつ、聞かれたことは必ずしも答えなくていい」
彼女は「……ふっ」と笑った。
「教えられる前からやってそうな感じありますね、店長」
「なんでしたっけ、さーもん、あります、みたいな」
「……さもありなん、ですか」
「それです、それ」
私に向けられた指が少し揺れはじめた。
「……サーモン、あります……ぶっ」
肩を震わせた彼女が落ち着くまで、私はじっとしていた。
「……はーおもしろ……ふぅ」
そう言ってタバコを消し、財布を取り出した。
「店長、お会計、お願いします」
金額を告げ、彼女が頷いて財布から現金を出した。
「ちなみに、ここって電子決済は……」
「……私の嫌いな言葉のひとつに、『手数料』があります」
古いレジがレシートを印字する、ジジッという音。
それを切って、渡す。
「このレシート、久しぶりにみました」
受け取った紙を丁寧に財布にしまいながら言う。
「ありがとうございました」
私の言葉に、彼女はドアの前で振り向いた。
「また、吸いたくなったら、寄らせてもらいます」
そう言って、軽く頭を下げ、出ていった。
ベルがからん、と静かな店内に響いた。
私は小さくため息を吐いて、タバコに火をつけた。
時計を見る。17時10分を指している。
閉店時間を過ぎたのは、5年間で初めてのことだった。




