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一本目

「ありがとうございました」

ランチタイム最後の客が帰った。時刻は15時少し前。今日は長引いた方だ。

元々バーだった半地下の店舗に、テーブルが2席とカウンターが8席。いまはそのほとんどの席にランチの食べ終わった皿が乗っている。

私は一つも持たず、カウンターに入ってタバコに火をつけた。

営業時間は17時までだが、オフィス街の中にあるちっぽけな店だ。場所柄、ランチタイム以外はほとんど客は来ない。

もっともこの乱雑に洗い物が点在する店内と、カウンターでタバコを吸う私をみて入ってくる客はいないだろう。

咥えタバコで有線のスイッチを切ろうと手を伸ばした。背中から、からんころんとドアベルの音が聴こえた。

わざとゆっくり振り向く。あわよくばドアが閉まってくれていればいい。

ドアは半分ほど開かれ、そこに背の高い女性が立っていた。

黒いパーカーにジーンズ。背格好だけなら男にも見える。


「あの……上に書いてあったんですけど」

おずおずと、後ろの階段を指さす。

「紙タバコ、吸えるんですか」


勘弁してくれ。

そう口に出す代わりに、

「いらっしゃいませ、カウンターでよろしいですか」と言っていた。

フィルター近くまで灰になっていたタバコを、シンクに捨てた。


カウンターに腰掛け、店内を見回している。メニューを探しているようだ。

私は水とおしぼり、灰皿を置いた。

何が言いたげにしていたが、やがて

「……コーヒー、ホットで」と、諦めたように言う。


この店にはメニュー表はない。あるのはコーヒーのアイスとホット、あとはランチタイムメニューだけだ。


私は頷いて、サイフォンに豆と水をセットした。

彼女はパーカーのポケットから取り出したタバコに、慣れた手つきで火をつけた。

すぅ、と一度大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「……全然吸えるとこなくて」


その言葉が私に向けられたものだと、少しして気がついた。

この店で注文以外の会話があるのだな、と、他人事のように思った。


「……ここらあたりは路上喫煙禁止になりましたから。店内で紙が吸えるのは、うちくらいじゃないですかね」

そう言いながら、カップにコーヒーを注ぐ。


「大変だったんじゃないですか、そんな状況で許可とるの」

癖なのか、タバコをくるくると親指で回しながら彼女が訊ねる。


「まぁ、それなりに。禁煙と分煙、電子タバコに対する最後の抵抗のような、みっともないプライドの賜物です」

そう言って、「どうぞ」とカップを前に置いた。


彼女はくすっ、と笑った。

「へんなの。でもそのおかげで今吸えてるので、ありがとうございます、ですね」


ブラックのまま、コーヒーに口をつける。

「あ、おいしい」


「……どうも」


私の返事に、彼女は驚いたように顔を上げた。

「すいません、つい口に出てたみたい」


慣れないことをするものじゃあない。

いらぬ言葉を拾い、いらぬ気を遣わせた。

いたたまれなくなって、「……ごゆっくりどうぞ」と、皿を片付け始めた。



「お店、何時までなんですか?夜も?」

洗い物を拭きあげていると、彼女が声をかけてきた。


「いえ、そんなやる気がある店には見えないでしょう。17時閉店です」


そう私が言うと、彼女はテーブルに伏せられたスマホを見た。

そして気がついた。それまで彼女はスマホを一度も触っていなかった。


「ありゃ、もう閉店ですね」

壁掛け時計を見る。16時50分を回っていた。

「もう一本だけ吸っても?」

そう言ってタバコの箱をかかげる。


私は頷いて、吸殻が溜まった灰皿を交換しようと手を伸ばす。


しまった、と思った時は遅かった。重ねた灰皿が、そのまま下に滑り落ちた。

カウンターで跳ねた灰皿は、そのまま彼女に向けてひっくり返った。


「なんしよん!!!」


彼女が大きく叫んで、すぐに立ち上がった。

「あーあーもうー」と、服を払うより先に落ちた吸殻を拾っている。


「申し訳ありません。こちらお使いください」

カウンターを出て、濡れたタオルと、紙ナプキンを差し出す。

「ども」と受け取って、パーカーについた灰をはたいている。白いチョークで引いたような、歪な線が何本も走っている。

「クリーニング代をお支払いします。申し訳ありませんでした」

改めて言った私を、彼女は立ったまま手で遮った。


「帰って洗濯するので、大丈夫です。おいくらでしたか?」そう言って財布を取り出す。

「いえ、ご迷惑をおかけしましたので、お代は結構です」頭を下げる。


彼女は少し迷ったあと、「そか、分かりました。それで大丈夫です」といってドアに向かった。

「すいませんでした」

頭を下げて見送る私に、ベルの音が聴こえた。


「……コーヒー、ご馳走様でした」

そう言って、彼女は出ていった。


窓からの夕日に照らされて、灰の粉と埃がちらちらと舞っている。

ため息を吐いて、カウンターの上を雑に片付ける。

今日はもう、キッチンでタバコを吸う気にはならなかった。


店を閉めた後、さっきの客が掛けていたスツールを見る。私がこぼした吸殻は、床にも落ちていない。全て灰皿に載っている。


珍しい客もいるものだ。

店員に吸殻をぶちまけられても、「なんしよん!」の一言で、終わった。

そして、それを拾い、灰皿にまとめて帰った。

床に落ちた灰を見て、私はまたため息を吐いた。木目に詰まった灰の掃除と、それを見つめる自分、その両方に。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



店の奥、六畳程の倉庫兼自室。コーヒー豆とフィルターの段ボールが積み重なったそこに、敷きっぱなしの布団と衣装ケース。

それが私の全てだ。

シャワーを浴びにネットカフェに行く気だるさを感じながら、スマホをつける。

意味もなく短い動画を流して、見るでもなくタバコに火をつけた。

簡単にできる家庭菜園、和牛の捌き方、百均で出来るDIY。

文字通り流れていく映像。フリックした次の動画から、明るい電子音声が飛び出す。

「今話題の!方言が魅力的なVTuber!星海ナナちゃん!」

動画でよく聴く人工の合成音声のタイトルコールが耳障りだった。


VTuberという存在は知っている。だがなぜそれで商売になるのかを、理解はしていない。

画面には黒い髪のアニメのようなキャラクターが大笑いしながらゲームをしているようだった。


「ちょっと!なんしよん!!」

大きな声が耳に届いた。


今日、店で聞いた声とまったく同じイントネーションだった。ハキハキとしゃべる声は、先程の女性と、テンション以外は同じように思えた。


「……ほし、うみ、なな」

そういえば、灰皿にまとめられていたタバコは、セブンスターだったな、と思った。

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