表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

91/141

第5話 アキハ「世界一嫌いだと言ってください」(後編)

「では日村さん。ちょっとした宣戦布告をしましょうか」


「宣戦……布告?」


「次にあなたが気絶して目覚めた後、あなたは月澄さんとのことを忘れているでしょう。私への警戒心も、この会話も、すべてリセットされています」


 先輩は俺の手を取り、ぎゅっと力を込めた。


「そのとき、私はあなたを誘惑します。色仕掛け、泣き落とし、ありとあらゆる手段を使って、あなたを籠絡(ろうらく)します」


 言いながら、先輩が顔を近づける。

 薔薇の香りが広がる。

 頭の奥が甘く痺れる。


 先輩は俺を見つめている。

 黒曜の瞳は光を吸い込んでどこまでも深く、俺の姿を閉じ込めて離さない。映り込んだ虚像の俺は、呆けた顔で固まっている。


 さらり、濡鴉(ぬれがらす)色の長髪が、俺の顔を覆う。小さな夜の帳のように、俺を朝日から隠す。


「すべて私が悪いのです。私があなたの尊厳を無視して手術を強制しました。私のせいであなたは前向性健忘になりました。……そして、私のせいで、あなたは不義を働くことになる」


 先輩の囁き声は、甘く苦い毒のように俺の脳を侵す。


「あなたは記憶を失っているのですから、何も悪くありません。罪悪感を抱く必要もない。すべて私が悪いのです。私が、我慢できないから……いかに卑しい手段を使ってでも、あなたを手に入れたい」


 先輩は、俺の唇に指先を添えて微笑んだ。あるいは天使のように、あるいは悪魔のように。


「だから安心してください。あなたはただ、私に愛されてくれればいいのです」


 俺と木南先輩の世界が影に包まれる。

 逆光を背負った先輩の身体が、ゆっくりと俺に覆いかぶさってくる。


 逃げ場はない。

 逃げるつもりもない。

 俺はシーツを握りしめていた手を離し、先輩の華奢な腰に手を回した。


「きゃ──」


 先輩の口から、気の抜けた悲鳴が漏れる。

 俺は腕に力を込め、体勢を反転させた。


 衣擦れの音。

 視界が180°回転し、次の瞬間、俺は先輩を見下ろす形になっていた。


 バサ、と乾いた音がした。

 木南先輩の黒髪が、純白のシーツの上に広がる。

 それはまるで、キャンバスに撒かれたインクのようで、あるいは咲き乱れる黒薔薇のようでもあった。


 その中心で、木南先輩は目を丸くしている。

 先ほどまでの妖艶さも、人並み外れた凄みも霧散した。

 そこにはただ、予期せぬ出来事に対する無垢な驚きがあった。


「悪いのは、俺です」


 俺は先輩の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。


「手術を嫌がった俺の気持ちは、本当です。うちは母子家庭で、母はワーカホリックで……俺が家に帰ってもいつも誰もいなくて、ずっと一人でした。そんな俺の話し相手は、隣に住んでいたフユミだけでした」


 ぽつり、ぽつりと、記憶の欠片を吐き出す。

 いつまでも鮮明に残っている、大切な過去の残滓。


「フユミとは中学入る前に疎遠になっちゃったんですが、どうしても同じ高校に行きたくて、必死で勉強して、なんとか七曜学園に滑り込みました。そのおかげで、先輩や、シミズや、火伏さんや、その他にもたくさんの人と知り合えたんです。……それが俺の全てだったんです」


 学園での日々。

 放課後の教室の匂い。中庭から見上げた空の色。下らない冗談で笑い合った時間。


 そういうのの全てが、孤独だった俺を救ってくれた。


「だから、そんな過去を失うくらいなら、未来なんて要らないと思っていました。……でも」


 俺は言葉を区切る。

 脳裏に、一つの「もしも」が()ぎる。


 もし手術を受けていなければ。

 あるいは、脳血管の奇形もなければ。

 俺はフユミと、一生仲直りできなかったかもしれない。


 途切れてしまった縁を、つなぎなおせないままだったのかもしれない。


 だから木南先輩に感謝している。


 けれど、それを口にすることは、何よりも深く木南先輩を傷つける。


 先輩のおかげでフユミと仲直りして結ばれることができました、なんて。

 俺を好きになってくれて、俺の命を救うために罪を被った木南先輩に対して、あまりにも残酷で不誠実だ。


 だから俺は、その言葉を口の中で噛み殺した。


「先輩が、俺の命を助けてくれたんです」


 先輩の瞳が揺れる。

 俺の言葉を拒むように、あるいはすがるように。


「俺は、今あるこの命が間違ってるだなんて思いません。先輩は俺の命の恩人です。だから、これは俺のせいです。俺が弱かったせいで、先輩に罪の意識を背負わせてしまった」


 木南先輩は何も言わなかった。

 ただ、その表情は万華鏡のように移ろう。

 苦しみと喜び。罪悪感と安堵。嫉妬と愛情。


 抑制された激情が見え隠れする。さざなみのように、寄せては返す。


 やがて、先輩の白魚のような手が持ち上がる。

 ひんやりとした掌が俺の頬を包み込み、細い親指が目尻をなぞった。


「……あなたは、本当に……」


 熱っぽい溜息と共に、その手が俺のうなじへと滑る。


 肌が粟立つ。

 先輩は俺の首に腕を絡ませ、抗いがたい力でゆっくりと引き寄せた。


 吐息が触れ合う距離。

 黄金色の朝日は俺の背中に遮られ、二人の間に濃密な影だけが落ちている。


「……二つ、お願いがあります」


 先輩の潤んだ瞳が、俺だけを映している。


「今だけで良いですから、名前で呼んでください。……私、自分の姓は好きではないので」


 俺に頷く隙も与えず、先輩は続ける。ゆっくりと、顔を近づける。


「そして、もし、すべての記憶を思い出したら。……そのときは、どうか私に────」


 視界が先輩でいっぱいになる。

 雑音が消え、背景が消え、ただ目の前にある薔薇色の唇だけが鮮烈に焼き付いた。


 言葉を紡ごうと震えるその形に、俺は魅入られていた。


「世界一嫌いだと言ってください」


 薔薇はすぐに見えなくなった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ