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第4話 アキハ「世界一嫌いだと言ってください」(中編)

「あなたに恋してしまったんです。つくづく馬鹿な女でしょう? どうか笑ってください」


 自嘲的に唇の端を歪める微笑。

 いつもの完璧な表情とは全く異なる、硝子細工にヒビが入ったような、イビツな表情。


 天使が通ったとでも形容すべき沈黙の間。


 その空白を埋めるように、窓の外の太陽が稜線を越えた。


 射し込む光の角度が変わる。

 無機質な白い壁、スチール製の点滴スタンド、そして木南先輩のシルエットが、瞬く間に黄金色へと塗り替えられていく。


 空気中に漂う塵の一つ一つが、金粉のように輝きながら対流する。


 朝日は世界に輝きを強いる。


 ただ、木南先輩だけが逆光の影の中にいた。


「……日村さん、落ち着いて聞いてくださいね」


 木南先輩はいずまいを正す。

 その表情は、いつも通りに仮面めいた、完璧な微笑に戻っていた。


「あなたは脳血管に奇形を抱えていました。いつ破裂してもおかしくない、余命いくばくかの状況だったのです」


 唐突な宣告に、


「……え?」


 俺は耳を疑った。


 脳血管の奇形? 俺に?


「幸い、開頭手術の必要はありませんでした。手首からカテーテルを通し、血管内治療で完治する程度のものでしたから。手術は無事に終わっています。今のあなたに、命の危険はありません」


 先輩の視線に促され、俺は自分の手首に目を落とす。


 そこには確かに、小さな(あと)があり、止血バンドの跡が赤く残っていた。


 実感が、じわじわと湧き上がってくる。

 俺は死にかけていたのか。そして、助かったのか?


「ですが……あなたは手術を拒みました」


 先輩の声が、少しだけ低くなる。


「手術に伴うリスクを、極端に恐れたからです。もし失敗して、記憶障害が残ったらどうするのかと。月澄(つきずみ)さんや火伏(ひぶせ)さんや冷水(しみず)さん……そして、私との記憶を失うくらいなら、このまま死んだほうがマシだと、あなたはそう言って手術同意書へのサインを拒否したのです」


 俺が、そんなことを言ったのか?

 信じられなかったが──少し考えたら、納得できた。

 これといって大切なものなんてない俺にとって、フユミとの過去や、皆との他愛ない思い出が全てだ。


 それを失って生き続けることに耐えられない──その思考は、イメージできる。


「《《だから》》、私が指示を出し、手術を強行しました」


 先輩は悪びれる様子もなく、平然と言い放った。


「あなたの尊厳と自由より、あなたとの過去より、あなたとの未来が惜しかったのです」


 木南先輩の瞳には、揺るぎない光と底知れない闇が宿っていた。

 俺の命を救ってくれた恩人なのに、言葉はまるで呪いのように染み渡る。


「その結果、医師の懸念は的中しました。今のあなたは『前向性健忘(ぜんこうせいけんぼう)』という障害を負っています」


「それは……?」


「新しい記憶を定着させることができないのです。あなたの記憶は、眠ったり意識を失ったりするたびに、リセットされます。起きていた間の記憶が、すべて消えてしまうのです」


 言われている意味を噛み砕くのに、数秒かかった。


 寝たら、忘れる?


 そんな馬鹿な。


「実感が……ありません。俺は、ちゃんと覚えているつもりです。先輩とこうして話していることも、フユミのことだって」


 俺の反論に、先輩はひどく虚しげに、陽炎のように、儚い微笑を浮かべた。


「ええ、そうおっしゃると思いました。私があなたに前向性健忘の話をするのは、これで六回目ですから」


「……え?」


「私が最初に説明してから、すでに一時間が経過しています。あなたは気絶しては起きてを繰り返しているのです。前向性健忘と宣告されるたびに驚いて、絶望して、そしてまた意識を失う。その繰り返しです」


 ぞわ、と全身の毛穴が開いた。


 六回目?

 この会話が? この衝撃が?

 俺が絶句していると、先輩は(なだ)めるように言葉を継いだ。


「ですが、そう悲観すべきではありません。起きてから気絶するまでの時間は、確実に伸び続けています。回復に向かっている証拠です。だからこそ医師も、私の面会希望に応えてくれました」


 先輩は優しく俺の手を握る。その温もりだけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の命綱だった。


「俺は……本当に、記憶障害なんですか?」


 (すが)るような思いで問う。

 嘘だと言ってほしい。悪い冗談だと笑ってほしい。


「昨夜、月澄さんと何をしたのか思い出せますか?」


 先輩は静かに問い返す。


 昨夜。

 俺はフユミと……。


 なんでフユミといっしょだったんだ?


 フユミの家に行ったから……


 なんでフユミの家に行ったんだ?


 記憶の海を探っても、暗闇の中で空転する。

 目覚めてすぐに夢を忘れていく感覚に似ている。

 確かにあったはずの影を見失い、輪郭すらほどけていく。


 思い出せない。

 曖昧で、(おぼろ)げで、掴みどころがない。


「……っ」


 俺の顔から血の気が引いていくのが自分でもわかる。きっと青ざめているのだろう。どこか他人事に感じる。そんな俺を、先輩はじっと見つめている。


「すぐに、治りますよね?」


 恐怖を押し殺し、希望を込めて尋ねた。


 先輩は深く頷いた。


「ええ。一週間ほどすれば、間違いなく治る、とのことです。脳の浮腫(むくみ)が引けば、記憶機能は正常に戻ります」


 安堵の吐息が、細く長く漏れ出た。


 一週間。

 たった一週間だ。それなら耐えられるかもしれない。


 けど────。


 その一週間の間、俺の記憶はどうなる?

 今日起きたことを、明日には忘れている。明日起きたことを、明後日には忘れている。


 俺の人生に、空白の一週間が現れるということか。


「俺は……いつか、全て思い出せるようになりますか? この一週間のことも」


「それは間違いありません。今は定着しないだけで、脳の奥底には記録されていますから。完治すれば、霧が晴れるように思い出すはずです」


 よかった。

 俺は安堵の息を吐く。

 一生の記憶を失うわけじゃない。ただ、一時的に思い出せなくなるだけだ。


 そう自分に言い聞かせる俺を見て、木南先輩はどこか軽やかな、けれど底冷えするような声で言った。


「では日村さん。ちょっとした宣戦布告をしましょうか」


「宣戦……布告?」


「次にあなたが気絶して目覚めた後、あなたは月澄さんとのことを忘れているでしょう。私への警戒心も、この会話も、すべてリセットされています」


 先輩は俺の手を取り、ぎゅっと力を込めた。


「そのとき、私はあなたを誘惑します。色仕掛け、泣き落とし、ありとあらゆる手段を使って、あなたを籠絡(ろうらく)します」



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