第9話 後輩のシミズ曰く、『言語の限界が世界の限界である』
キーンコーンカーンコーン。
昼休み終了の予鈴が、屋上の青空に吸い込まれていく。
「やっば! 忘れてた!」
コハルが慌てて弁当箱を片付け、立ち上がる。
「あたし、友達に現国の教科書借りたまんまだった! 早く返さないと!」
日差しのように現れ、叙々苑と唐揚げを交換し、和気あいあいと談笑し、嵐のごとくに去っていく。まさに陽キャの鑑と言うべき行動力。
「じゃあねトーマ! ナツキちゃんも、またお話ししよーね!」
「あ、はい……よ、よしなに……」
「よしなにって今日び聞かねぇな……」
手を振るコハルを見送ると、屋上には俺とシミズだけが残された。
「じゃ、俺もそろそろ……」
立ち上がろうとした俺の制服の裾を、シミズが掴んだ。
初夏の風が吹く。
シミズの黒髪がふわりと揺れ、彼女はどこか陶酔したような瞳で空を見上げていた。
「……信じられません」
「ん?」
「火伏琥春さん。まさか、私とあそこまで会話を成立させられるとは。私はどうやら、前期ウィトゲンシュタイン的な独我論の傾向が強すぎたようです」
シミズはブツブツと独り言を言っている。
どうやら『陽キャ=敵』という図式が崩れかかり、処理落ちしかけているらしい。
「まあ、イイ奴だろ? コハルは」
「……ええ。素敵な人です。しかし先輩」
シミズがくるりと振り返り、俺を見上げた。
その瞳が、見開かれる。
「私が先輩の、唯一無二の『理解者』であるという事実は、不変にして絶対、ですよね?」
嫉妬だ。
コハルと仲良く話していたのが面白くなかったらしい。
俺は大真面目にうなずく。
「もちろん。シミズ以上に俺と趣味の合う人はいないよ」
「ふふ、まだそのようなラベリングですか」
シミズは一歩、俺に近づいた。
距離が近い。叙々苑の残り香と、彼女自身のシャンプーの香りが混ざり合う。
「先輩。私と先輩の関係性は、もはや言語的定義の外部にあります。サルトルが言うところの『対自存在』としての葛藤を超越し、レヴィナスの言う『顔』としての倫理的応答責任を……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺は両手でタイムのジェスチャーをした。
「もっと簡単に教えてくれないか」
シミズが、ぽかんと口を開けた。
そして、ハッとしたように口元を押さえる。
「……あ。申し訳ありません。私としたことが……先輩が一般高校生レベルであることを失念していました」
「おいサラッとディスったな?」
「それは世界の限界です。つまり言語それ自体の限界です。したがって、私の悪意や作為ではありません。ええと、その! つまりですね……」
シミズはもじもじと指を絡ませ、視線をさまよわせた。
顔が赤い。耳まで赤い。
さっきまでの衒学的な態度はどこへやら、急に借りてきた猫みたいにしおらしく……いや、生まれたての小鹿みたいに震えている。
「その……私は、文学の話だけがしたいわけでもないのです。知的な交流も喜びですが、もっとこう……実存的で、本能的で、肉体的な……」
彼女は意を決したように、上目遣いで俺を見た。
潤んだ瞳。震える唇。
「わ、私、先輩がしたいことなら、なんでもできますよ」
「え?」
「オシャレにだってなりましたし! それに、そ、その……あのときみたいに、もっとすごいことでも……ご要望とあらば、なんでも……」
すごいこと?
何? 何をしたの俺たち!? 文芸部室で!!?
赤を通り越して、沸騰したヤカンのようだ。
自分の発言の大胆さに、脳の処理が追いつかなくなったらしい。
「あ、あう……私、なにを……なんて、はしたない言語ゲームを……ううぅ……」
「おい、大丈夫かシミズ!」
「せんぱい、せんぱ、い……」
ぷしゅう。
本当にそんな音が聞こえた気がした。
シミズは白目を剥き、糸が切れた操り人形のようにぐらりと傾いた。
「おいっ!?」
俺は慌てて彼女を支える。
軽い。折れそうなほど細い体だ。
完全に気絶している。知恵熱(誤用)か? それとも羞恥心によるオーバーヒートか?
「……参ったな」
このまま屋上に放置するわけにはいかない。
かといって保健室に運べば、『何があったの?』と詰問されるリスクがある。それに、シミズは俺以外の人との接触を極端に忌避する。それは養護教諭に対するときも例外ではない。
となれば、向かうべき場所は一つだけ。
俺はシミズを背負うと、特別棟への階段を降りた。
◆◆◆
昼休みの静寂を未だ保つ特別棟。
その三階の端にある文芸部室に、俺はシミズを運び込んだ。
長椅子に彼女を寝かせる。
額の汗をぬぐいつつ、体温を確かめる。熱はない。
呼吸を確認する。規則正しい寝息を立てている。ただ寝ているだけのようだ。
「……まったく、人騒がせな天才作家様だ」
俺は彼女の前髪を少しだけ整えてやり、書き置きを残すことにした。
『先に戻る。起きたらラインして』
部室を見渡す。
本棚にぎっしりと詰まった本。書きかけの原稿用紙。
ここが彼女の城であり、俺たちの部室。
記憶がないのが恨めしい。俺はここで、シミズとどんな時間を過ごしていたのだろうか。
「……思い出すのが怖い気もするけどな」
俺は苦笑し、部室を出た。
ドアを閉め、ふう、と大きく息を吐く。
なんとか昼休みの修羅場は乗り切った。
午後の授業まであと五分。ギリギリだ。急いで教室に戻らなければ。
俺は廊下の角を曲がろうとして――。
誰かとぶつかりそうになり、急ブレーキをかけた。
「っと、すみません!」
謝りながら顔を上げる。
そこには、腕を組み、仁王立ちしている人物がいた。
肩まで届く金髪のツインテール。
ラピスラズリのような碧眼。
そして、猛禽のように高くから見下ろすような視線。上背は、俺より低いはずなのに。
「……あ、あの」
干上がった俺の喉から、間の抜けた音が漏れる。
「奇遇ね、トーマ」
月澄・フユミ・エインズワース。
俺の幼馴染にして、美少女四天王の一角、つまり俺と一線を越えた少女がそこにいた。
「よ、よう、フユミ。こんなとこで何してんだよ〜! 特進クラスの教室、反対側だろ……?」
俺が頬を引きつらせながら尋ねると、フユミは絶対零度の微笑を浮かべた。
その視線は、俺の背後――文芸部室のドアへと注がれている。
「ちょっとね。パトロールよ」
「パ、パトロール?」
フユミは遅くも早くもない速度で距離を詰めてくる。
「ええ。私の無防備な幼なじみが、悪い虫にタカられてないか確認しに来たの」
一歩一歩が俺の寿命を数えるカウントダウンだ。ゼロになったら俺は、俺は……。
「それで? トーマ。なんで文芸部室から出てきたワケ? しかも、ずいぶんと慌てた様子で」
フユミは腰に片手を当て、俺を指さした。
ヒィッ!
体が固まる。指先かられいとうビームを噴射されたような感覚だ。
「い、いや! ちょっと調べ物があって!」
「へえ。一人で?」
フユミは問いを返しつつ、また一歩、近づいてくる。手を伸ばせば鼻をつまめる距離だ。
「ああ、一人で!」
「そう。一人で、ね」
フユミはまた一歩近づいた。今度は息がかかるほどの距離だ。近いよ〜……。
甘い匂いがする。我が家のボディソープの匂いだ。ってことは、やっぱりフユミは俺と……それにしても良い匂いだ……俺が使ってるのと同じのはずなのに雲泥の差……素体の差がここまで……。
ってそれどころじゃねえ!
「あら、タイが曲がってるわよ」
俺が答えるより早く、フユミは俺の胸元に手を伸ばし、ネクタイを握った。今朝、後輩にしたように。
「あ、おお、ありがと。フユミは昔から気が利くよな」
「神経質なのよ。曲がったものや細かいことがとにかく目について、気になっちゃうの」
「知ってるよ」
フユミは昔から真面目で品行方正、正義感の強い奴だった。周囲と対立することも、まあ、少なくはなかった。
「そんな自分が面倒に感じることもあったけど、今は嫌いになれないわ。トーマのせいでね」
フユミが、そっと微笑んだ。昔々、時たま俺に見せた、年相応の微笑みだ。久々に見た。
「ヒネくれた褒め方しやがって。どのみち褒めても何も出ねーぞ」
俺は軽口で返す。何やら良い雰囲気だ。さっきまでの恐怖は、俺の考えすぎだったのかもしれない。
「いえ、目当ての《《もの》》が出たわ」
フユミはそう言って、制服についた小さな糸くずのようなものをツマみ取った。
それは、俺のものより長い、まっすぐな黒髪だった。
シミズの髪だ。
「さっき、『一人で調べ物をしていた』って言ってたわよね」
フユミが微笑む。先程とは全く別種の微笑。
絞首台に立つ反逆者を見下ろす、女王様の微笑だ。
「ねえ、トーマ。私わからないわ。この綺麗な黒髪は誰のものなのかしら?」
詰んだ。
本日二度目の、完全なる『詰み』である。
俺が金魚みたいに口をパクパクさせていると、フユミはニコッと笑った。
その笑顔は、この世の何よりも美しく、そして恐ろしかった。
「放課後、一緒に、帰りましょう。話したいことが、山ほど、あるから」
フユミは一言一言、ハキハキと区切って言った。
まるで、聞き分けのない悪ガキに言い含めるような口調で。
呆然と立ち尽くす俺に背を向け、去りゆく。
小さくなっていく背中を見送る。
五限のチャイムが鳴り響く。
それは授業の始まりを告げる音ではなく、俺へのレクイエムのように聞こえた。




