第6話 一時間目、走る幼なじみを見る俺をジト目で見るギャル
生徒会室を出たとき、俺の体は新品の制服に包まれていた。
シャツの襟元が、少しだけ首筋を刺激する。
――怖い。
何が怖いって、あの木南先輩の用意周到さだ。
俺が腹を壊し、冷や汗で制服をビショビショにすることを予見していたかのように、彼女は『予備』をクローゼットから取り出した。
しかも、サイズは俺にジャストフィット。肩幅も、袖丈も、ウエストも。
「……なんで完璧に把握してんだよ」
採寸された記憶はない。
ということは、空白の一週間に採寸されたのか。薄着の俺にメジャーを当てる先輩の姿を想像する。
あるいは、触れ合っただけで俺の体型をミリ単位でスキャンしたのか。……ありそう。先輩ならそのくらいはしそうだ。
いや、考えるのはよそう。
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
俺はガクガク震える膝を叩き、自分の教室である2年C組のドアを開けた。
「……すみません、遅れました」
教壇に立つ数学教師が俺を見た。
「おっ、日村か。木南会長から連絡は受けてるぞ。体調不良だったそうだな。無理すんなよ」
「あ、はい……ありがとうございます」
生徒会長の根回し、完璧すぎ。
俺はクラスメイトたちの視線を浴びながら、窓際の後ろから二番目、自席へと滑り込んだ。
チャカチャカとチョークが黒板を叩く音。
窓から差し込む、穏やかな五月の陽射し。
遠くから聞こえる、体育中の生徒の掛け声。
……あれ?
さっきまでの地獄絵図が、嘘みたいに遠く感じる。
フユミの激辛味噌汁も、コハルの爆弾発言も、シミズの神アプデも、秋葉先輩のジンジャースナップクラッシュも。
全部全部、俺の脳内で繰り広げられた悪質な白昼夢だったんじゃないか?
そうだ、きっとそうだ。
俺はただの冴えない高校生だ。
美少女四天王の純潔を立て続けに奪うだなんて、それなんてエロゲってなインシデントが現実に起こるはずもない。
俺はホッと胸をなでおろし、何気なく窓の外へ目を向けた。
校庭では、他クラスが体育の授業を行っていた。
ひときわ目を引く黄金色の輝きがある。
「おっ」
フユミだった。
特進コースの彼女たちが、ハードル走をしている。
スタートの合図とともに、フユミがしなやかに地を蹴った。
弾けるように躍動する肢体。風になびく金髪のツインテール。
ハードルを越えるたび、短い体操服のハーフパンツから伸びる白皙の太ももが、眩い光を反射する。
速い。
そして、美しすぎる。
他の女子生徒たちを圧倒的な差で引き離し、彼女はゴールを駆け抜けた。
一息つき、手で顔を仰ぐ仕草すら、スポドリCMのように絵になる。
なんだあれ。
あんなもん校庭で無料公開してていいのか?
『月澄フユミ・公式ファンクラブ』の月額8,000円コース限定で見られる、4Kイメージビデオだろ。
俺の網膜に課金ボタンが表示されないのが不思議でならない。
「わ。トーマ、チョー鼻の下伸ばしてる。エロだね〜」
至近距離から、いたずらっぽい声がした。
振り向く。心臓が跳ね上がる。
いつの間にか、隣の席のコハルが少し身を乗り出し、俺の顔を覗き込んでいた。
「ひ、火伏さん、じゃなくてコハル」
「も〜。授業中なのに、フユちゃんに夢中すぎ。アタシがいるのに、浮気か〜?」
コハルはぷくっと頬を膨らませ、人差し指で俺の二の腕をツンツンと突っついてくる。
甘い匂いが、初夏の風に乗って鼻腔をくすぐる。
「いや別に……ただ、すごかったから」
「ふーん。まあ、フユちゃんは特別だもんね。でもさ」
コハルは声を潜め、俺の耳元で囁いた。
「アタシの方が、《《大きい》》よ?」
「ぶっ!!」
俺は思わず変な声を出し、机をガタンと鳴らしてしまった。
コハルはそれを見て、「あはは! 顔真っ赤!」と楽しそうに笑う。
「おい、そこ。日村と火伏」
黒板に向かっていた教師が、半笑いでこちらを振り返った。
「夫婦漫才なら前でやれ。授業の景気づけにちょうどいい」
教室内がドッと沸いた。
俺だけなら『陰キャの分際で』と冷ややかな目で見られそうなものだが、今の空気は温かい。
からかいの中にも、どこか俺たちを歓迎するような、和やかな雰囲気が漂っている。
「先生、いいんですか? うちらコンビ組んでここからM-1目指しちゃいますよ?」
コハルがノリノリで手を挙げると、クラスの連中が声を上げる。
「よっ! ご両人!」
「ヒムラ、そこ代われ!」
「これがホントの令和ロマンだ!」
教師は声を上げて笑った。
「ははは、冗談だよ! 火伏にそんなことさせたら、ファンクラブに刺されるからな。ほら、授業に戻るぞ」
教師が楽しげに笑い、再びチョークを動かし始める。
俺は、呆然と周囲を見渡した。
……あったけぇ。
なんだこれ。
モブとして背景に溶け込み、誰とも関わらず、ただ息を潜めて生きてきた俺の人生。
そんな俺が、今、この教室の「中心」にいる。
みんなが俺を見て、笑い、好意的に受け入れている。
一週間前までは、想像もできなかった光景だ。
フユミという憧れ。
コハルという刺激。
四股という絶望的な状況。
記憶喪失という深い闇。
それらすべてを抱えながらも、俺はこの瞬間、確かに「生きている」という実感に包まれていた。
――だが。
この温もりが、巨大な爆弾の起爆スイッチが押される前の、束の間の静寂であることに。
平和を噛み締める俺の背後に、さらなるカオスが迫っていることに。
この時の俺は、まだ、これっぽっちも気づいていなかったのだ。




