第16話 ☆ナツキ「先輩を襲っちゃいましょう」
トーマが浴室で滝行を始めた、そのころ。
ナツキ――冷水 夏希は、喉の奥にわだかまる熱気をアイスティーで鎮めていた。
カチリ、とグラスの中の氷が鳴る。アイスティーはキンキンに冷えている。
だが、ナツキの内側で膨れ上がる熱量を冷ますには、まるで足りていなかった。
(……不覚。実に不覚です)
バスローブにこもった自分の体温が、いつもより熱い。
先ほど『ナツキ』と名前を呼ばれた瞬間の、脳を直接焼かれるような熱量。
凡百の記号に過ぎないはずの三文字が、胸に響いて消えてくれない。心臓を揺さぶって、全身の血流を加速させている。
スッポンと牡蠣の成分が、その衝動に拍車をかけている。
冷水 夏希は、博識で聡明である。
ナツキは亜鉛による強壮効果を知っている。身を焦がす熱は生理的な反応のせいもあると知っている。
だが、知っていることと、制御できることは同義ではない。
ナツキの頭の中は、色めく記憶と猥雑な妄想でパンクしかけていた。
(体が燃えるように熱い……!『欲は火の如し』とは、よく言ったものです。ああ、父よ母よ。ナツキは淫らな娘になってしまいました。私の超自我は、ほとばしるリビドーを検閲できません)
普段のナツキなら、自分の醜態に形而上学的な絶望を感じて毒をあおりかねない状況だ。
しかし、今のナツキを支配しているのは、知性よりも遥かに原始的な《《熱》》だった。
ナツキは己が身を抱きかかえ、くねくねと身をよじる。
コハルは、スマホをイジる振りをしながらその様子を眺めていた。そんなコハルも、今は相当熱くなっている。
人の振り見て我が振り直せ、とばかりに、自分より浮ついているナツキを眺めて気を紛らわしていたのだ。
(とは言え、熱暴走してるナツキちゃんを放置しておくワケにもいかないか……)
見かねたコハルが声をかけようとした瞬間。
「コハルさん」
ナツキの方から口火を切った。
「現状をどう分析しますか?」
続く問いかけに、コハルは少々面食らった。
ナツキの声は、いつもより低く、冷たい。負の感情ゆえではない。何かの覚悟を決めたような重厚感があった。
「分析も何も、万事順調っしょ!」
コハルは明るく返した。ナツキの真意は気になるが、今はいつも通り、陽気に振る舞おうと考えたのだ。
事実、コハルのその朗らかさは、今のナツキにとって非常に頼もしいものだった。
ナツキはこくんとうなずく。
「同意します」
ナツキの脳内では、勝利への道筋が急ピッチで整備されている。
この文芸部室というプライベートな閉鎖空間。
お泊りデートというシチュエーション。
お風呂上がりというベストタイミング。
牡蠣スッポン鍋を食べた直後というコンディション。
そして、木南 秋葉という『絶対者』が、あえてこの状況を容認したという不可解な事実。
(……細工は流々、後は仕上げをご覧じろ、といったところですね)
ナツキの舌が冴えわたる。
「この数時間で、私たちは月澄さんと並んだ……いえ、一歩リード出来たと考えていいでしょう」
「だよねー。フユちゃんには悪いけど、『恋と戦争においては全てが公正である』ってワケ。ギャルはルール無用なの」
「……やっぱし怖いスね、ギャルは」
「ククク、ひどい言われようだな。まぁ、事実だからしょうがないけど」
ギャルとオタクがネットミームで笑い合う空間が、そこにはあった。
そして、コハルが鋭く問う。
「で、ナツキちゃん。この後、何かしようと思ってる?」
コハルの探るような視線に対し、ナツキはソファに腰掛けたまま、ゆっくりと身を乗り出した。
濡烏色のショートボブが、さらりと揺れる。おくれ毛から、澄んだ雫が一粒したたる。
雫はフェイスラインを通り、しなやかな首筋と繊細な鎖骨を伝って、ぶかぶかのローブの胸元へと吸い込まれていく。
コハルは自分がナツキに見惚れていたことに、遅れて気がついた。今のナツキは、同性のコハルから見ても逸脱して美しい。
『恋する乙女は美しい』とはよく言ったものだが、今のナツキの美しさを見るに、それ以上の理由がある。
コハルの勘は、それを察知していた。
「コハルさん……我々は、やれるだけのことを全てやりました。他二人よりリードしています。そして今夜は、先輩と一緒です。朝までここにいるのです。これは千載一遇の好機です」
ナツキはコハルの目をじっと見つめた。
ナツキの瞳の奥には、情念の炎が燃え盛っていた。
「今夜、先輩を襲っちゃいましょう」
言葉にした瞬間、ナツキの小さな心臓は、パンクしそうなほど膨らんだ。
恥じらいで顔から火が出て意識が飛びそうになる。しかしナツキは理性的に欲望に従う。今だ。今である。今しかない。ここで既成事実を作り上げるべきなのだ。
「今このときに攻めれば、先輩は絶対に拒めません。今を逃しては、お泊りデートはありえないでしょう。今です。今しかないのです」
コハルは息を呑んだ。
ナツキの発言が勢い任せではなく、計算と覚悟に基づくものだと理解していたからだ。
そして、ウブで可愛いと思っていた後輩が、マキャベリスティックな肉食系女子になっていたことに、驚愕を隠せなかった。
永遠にも思える数秒の後。
コハルの唇は、ゆっくりと弧を描いた。
「いいよ」
低く穏やかで、慈しむような女の声。
「ヤっちゃおっか」
大きな瞳を細めた、蠱惑的な微笑。
普段のコハルからは想像もつかないほど官能的な表情に、ナツキはしばし見惚れた。
そして、二人でうなずき合う。
彼女たちの視線は、浴室の扉一点へと注がれていた。
日村斗真が風呂から上がるまで、あと五分。




