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第12話 夏休み

 蝉時雨の最中、


「トーマ、集中力きれてる」


 フユミの声が、背後から響いた。


 俺はハッと我に返る。机の上には英単語帳と青チャートが広げられている。窓の外からは、夏日が射し込んでいる。


 勉強中にボーッとしちゃってたみたいだ。


「ああ、ごめん」


「まだ数学の問題、残ってるわよ」


 フユミは机の横に腰掛けて、俺の解答用紙を覗き込んだ。長い金髪が肩から流れ落ち、さらりとページをくすぐる。碧眼は冷静に文字を追う。


 細い指が、文章をなぞった。


「ここ、場合分けが甘い。判別式をもう一度使ってから書いてみて」


「……はい」


 縮こまる俺に、フユミが笑いかける。


「あと二時間で今日の勉強は終わり。お夕飯にしましょ。その後は、皆で遊びましょうか」


 ご褒美の提示までしてくれた。


 七月下旬。


 夏休みに入って、一週間。


 俺たち五人は、木南家の別荘で共同生活をしていた。文化祭の準備中に泊まった、あの別荘だ。森に囲まれている。涼しくて穏やかな場所だが、蝉の声が一日中響いている。


 夏休みの俺の一日は、毎日ほぼ同じだった。


 朝六時に起床。朝食。七時から正午まで勉強。昼食と休憩。午後一時から午後六時まで勉強。夕食、風呂、団らん。午後十時に勉強の続きを一時間。午後十一時に就寝。


 一日のうち、七時間睡眠と六時間の自由時間を除いた、残り十一時間が全部勉強だった。


 目指すは、東京大学文科一類。そこから法学部に進学し、予備試験に合格して、司法試験に通る。これが俺の今後数年の予定だった。


 まずは、十数ヶ月後の大学受験。東大文一の合格率は全国トップクラスの難関だ。現役合格を狙うには、この夏が勝負だった。


「日本史はアタシが教えちゃうよ〜」


 コハルが部屋に入ってきた。麦茶の入ったグラスを二つ、お盆に載せている。


「ありがとう」


「英語の読解問題は毎日やってね。すぐ勘が鈍るから」


 フユミは俺の隣に座って、問題集を覗き込んだ。


 フユミにコハル、ナツキにアキハ先輩。四天王が勢揃いで俺に勉強を教えてくれる。

 特に、フユミとアキハ先輩には助かり通しだ。二人は東大文一の二次試験に必要な全科目を、完璧にカバーしていた。


 それはそれは贅沢な環境だった。

 何より、かわいい彼女に囲まれて過ごせるのが贅沢だ。それはそれは贅沢だ。


 しかも、ご飯まで作ってもらえるなんて……幸せすぎて怖い。


「今日、夕食は何?」


 俺が聞くと、フユミは穏やかに微笑む。


「ナツキが作ってるわよ」


「ナツキが?」


 俺は思わずオウム返ししてしまった。

 驚きを隠せない俺を見て、フユミは少し笑い、うなずく。


「冷やしうどんと、天ぷら」


「へぇ、豪勢だな」


「でしょう。コハルの手伝いもほとんどなし。成長してるわよね、ナツキも」


 フユミは我が事のように誇らしげに言った。


 一ヶ月前なら、想像もつかない光景だった。


 ナツキは、ここ最近でずいぶん料理ができるようになった。最初は卵焼きすら焦がしていたのに、今は天ぷらの衣まで自分で作る。『料理は化学です。レシピを見れば再現できます』と言いながら、スマホを片手に鍋を振っている姿は、なかなか様になっていた。


 コハルが、『もう教えることがなくて寂しい』と嬉しそうに笑っていた。


 文化祭明けから一学期修了式まで、つまり七月六日から七月二十日までの二週間の学園生活は、幸いにも落ち着いていた。


 あれだけ騒ぎになった演劇のキスシーン。フユミとコハルのファンクラブが大混乱に陥った事件。あれが、意外なほどあっさり収束していた。


 キスシーンが演出の一種として処理されたこと。直後に俺が倒れたこと。俺が急にガリ勉になったこと。それら全部が合わさって、何やら緩やかに許された。特進の人々は、向学心のある生徒には優しいようだ。


 俺のことは『まあ頑張ってるみたいだし放っておこう』という扱いだ。


 命拾いしたなぁ、と思う。


「先輩」


 ナツキが、キッチンから顔を出した。そのままスタスタと俺へ歩み寄る。


「ん、どした?」


「どうしたもこうしたもありません。今の先輩は根を詰めすぎですよ」


 ナツキは俺の顔を覗き込んだ。


「最近、目の下にクマがあります」


「あ、そう?」


「週に一日くらいは、完全休養日を作ってください。脳を休ませないと、せっかく学んだことも定着しませんよ」


 まったく先輩は軟弱なんですから。

 そういうナツキの瞳は、不安げに揺れていた。

 

 俺を心配してくれているのだ。

 ナツキは未だに、文化祭のことを謝る夜がある。『不安で眠れない』と、俺の寝室を訪ねてくる夜もある。


 口が悪くて、かわいい後輩(ヤツ)だ。


「大丈夫だよ」


 俺は、ふっと笑って答えた。


「大人になっても皆と一緒にいるためだと思ったら、ついついはりきっちゃってさ」


 ナツキの動きが、一瞬止まった。

 ふいっと俺から目を逸らし、横髪をかき上げる。


「…………もう」


「ナツキ?」


「……すぐ、そういうこと言うんですから……」


 ナツキの耳の端が、ほんのり赤くなっていた。髪の隙間から覗く耳だけが、白磁の肌とのコントラストで、ヤケに目立っている。


 フユミが、俺の横でくすりと笑った。


「ナツキ、ほんと可愛いわね」


「可愛くないです」


「可愛いわよ」


「う……フユミさんも、すぐそういうこと言いますよね」


「ふふ、誰かさんに似たのかしらね?」


 フユミが流し目で俺を見る。


「俺そんなキザじゃないよ!」


「ふん、よく言うわ」


 フユミは満足げに笑い、麦茶を飲んだ。


「で、では、私は料理中なので、これにて」


 ナツキは、ギクシャクした動きで(きびす)を返し、台所に引っ込んだ。







 夕方になって、勉強の区切りをつけた。


 リビングに降りると、テーブルの上にはもう夕食が並んでいた。


「これ本当にナツキが作ったの?」


「ええ。まだまだカンが掴めませんが、悪くは、ないんじゃないかな、なんて……」


 ナツキはエプロンの端を指でいじりながら、目線を皿のあたりに落とした。変なところで自信のないやつだ。


「いや、超おいしそうだよ。ありがとう」


「……恐縮です」


 ナツキは短く答えて、席に着いた。


「じゃ、頂きます」


 みんなで頂きますを言って、天ぷらに箸を付ける。


「うまい」


「……味見しましたから。コハルさんと一緒に」


 ナツキはちょっと恥ずかしげだが、微笑んでくれた。日に日に素直になっている気がする。


「ナッちゃんは成長が早いんだよな〜」


 コハルが頬杖をついて、にこにこと笑った。


「最初はリンゴの皮むきも出来なかったのに、今や一人前じゃん? アタシ、もう教えることないもん」


 コハルの声は少しだけ寂しそうに、そして何より誇らしそうに、ナツキを見ていた。


「……コハルさんが、根気強く教えてくださったおかげです」


 ナツキが小さな声で言った。 


「うぇ、なになにナッちゃん素直〜!」


「時には、素直にならないと失礼ですから」


「はいはい、素直なナッちゃんもかわいい〜」


 コハルがナツキの頭をわしゃわしゃ撫でた。ナツキは無表情で、されるがままになっている。


 俺は、ふと思った。


「何か、お祝いみたいな豪華さだな」


 フユミは、にっこり笑った。


「お祝いよ。今日は。たまには息抜きしましょ」


「え?」


「あんた、ずっと勉強ばっかりだし」


「ああ、うん」


「今夜と明日は、勉強は無し。夏祭りで遊んで、お家でスマブラ大会して、暗くなったら花火でもしましょう」


「え、いいの!?」


「いいのよ」


 フユミの碧眼が細められる。慈しむような視線だった。


「フユミ……ありがとう」


「なによ改まっちゃって。こんなの、ただの気まぐれよ。気まぐれ」


「お、模範的なツンデレ出すねぇフユちゃん」


 コハルが茶化すと、


「こんなんナンボあってもいいですからね」


 ナツキが乗っかった。


「はっ、そんな挑発には乗らないわよ」


 小鼻を鳴らすフユミ。しかし、耳の先は赤らんでいる。こういうとき、色白だと損だ。


 三人のやりとりを見ていると、俺の頬も思わず緩む。皆との団らんが幸せだ。だからこそ、一つ気になることがある。


 アキハ先輩のことだ。

 ここ一週間ほど忙しくて、ほとんど会えてない。三人と一緒にいるのに、ふとしたときに寂しく感じる。そんな気持ちになるたびに、フユミとコハルとナツキをないがしろにしているような気がして、申し訳なく感じる。


「アキハ先輩に会いたいのね」


 フユミの声でハッと顔を上げる。からかうような視線が俺を見据えていた。


 くすくす、とフユミが忍び笑いを漏らす。


「アンタも素直になったわよね。『四人みんながいないと寂しいよー』って、顔に書いてあるわ」


「…………そうだよ」


 俺がうなずくと、コハルとナツキも笑った。


「やーっぱトーマってイジり甲斐あるよね〜」


「ですね。最近は何かと格好つけていたので、良い気味です」


「良い気味って、お前なぁ……」


「さっきのお返しですよ」


 ナツキはふふんと鼻を鳴らした。小憎らしい表情でも愛くるしくて仕方ないので、美少女というのは得である。


 そんな俺たちのやりとりを見て、コハルがぽん、と手を叩いた。


「ごはん食べたら、アキハ先輩に会いに行こ。夏祭りだから、きっとオシャレしてるよ〜」


 

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