第13話 ☆アキハ→フユミ、無言の宣戦布告
木南 秋葉が悪魔的計画をトーマに提案した、そのとき。
月澄・フユミ・エインズワースは、鏡の前に立っていた。
脱衣所に立ち込める湯気が、鏡面を白く曇らせる。フユミは、上気した自分の頬を両手のひらで包み込んだ。
伝わる熱は、風呂の温度によるものだけではない。フユミの碧眼は、甘い期待にとろとろと潤んでいる。
(……先にシャワー浴びて待ってろ、なんて)
フユミは小さく息を吐き、濡れた金髪をバスタオルで拭った。
トーマはいつだってそうだ。普段は頼りなくて、私の世話がないと生きていけないようなちゃらんぽらんのくせに。
ここぞという時に、強引に私の心を攫っていく。
あの夜もそうだった。
あんなに求めてくれた。
幼なじみという枠を超え、男女の関係になった瞬間。あの時のトーマの熱を、フユミの体は昨日のことのように覚えている。
それなのに記憶がないなんて、トーマはズルい。
……でも、いいわ。
フユミは自身の胸元に手を当てた。
何度だって思い出させてあげる。
肌の感触も、ファーストキスの味も、ささやき合った愛の言葉も。
トーマの過去も今も未来も、すべて私のもの。
相手が超お嬢様だろうが生徒会長だろうが譲る気はない。
フユミは決意を新たに、スキンケアをしようと洗面台に手を伸ばした。
違和感。
「あれ……?」
見慣れた洗面台の端に、異物が置かれているのに気づいた。
それは、銀色のキャップがついた、小さなガラスの小瓶だった。
隣には、見たこともない外国語のラベルが貼られたチューブ。
フユミは小瓶を手に取った。
ふたを開けると、高貴なバラの香りがふわりと漂った。高級なボディオイルだ。
チューブの方は、海外ブランドのホワイトニング歯磨き粉。
どちらもトーマが使うようなものではない。
トーマが使うのはドラッグストアの特売品だ。
そして、フユミのものでもない。
では誰のものか。
答えは一つしかない。
「……木南、秋葉」
フユミの手の中で、ガラス瓶がギリリと音を立てた。
これは置き忘れではない。
『マーキング』だ。
あえて目につく場所に、自分の私物を置いていく。
それも、歯磨き粉やボディオイルといった、生活感と親密さを匂わせるアイテムを。
それは無言の宣戦布告だった。
――『貴女と彼の生活圏には、すでに私が侵入していますよ』
フユミの美貌から甘い余熱が消え失せた。
代わりに浮かんだのは、冷たく燃え上がる対抗心。
「あの女ァ……!」
フユミは鏡を睨みつけた。
やってくれるじゃない──!
前々からトーマに興味を持っているのは知っていたが、ここまで露骨に喧嘩を売ってくるとは。
トーマの唯一無二の恋人(とフユミは信じている)である自分に対する、明らかな挑戦状だ。
「いいわ、受けて立つ。……トーマがどれだけ私を愛しているか、証明してあげる」
フユミは不敵に微笑み、パジャマを手に取った。
◆◆◆
夜風が冷たい。
本来なら心地よい気温のはずだが、今の俺には悪寒を助長させる冷気でしかなかった。
俺は玄関先で、アキハ先輩を見送っている。
「では、今日はこれにて失礼します」
アキハ先輩は、夜闇の中でもはっきりとわかるほど晴れやかな笑顔を浮かべていた。
無理もない。俺という奴隷との契約を成立させ、無理難題を押し付けた直後なのだから。
「あの……先輩」
俺は声を潜めて尋ねた。
「本当に、なんとかなるんですか? 全員と仲良くするなんて」
「なりますよ。というより、するのです」
アキハ先輩は自信満々だった。
「具体的な計画の第一歩については、また明日、学校でお伝えします。ひとまずは……そうですね、今夜、月澄さんに手を出さないよう我慢してください」
「我慢って、俺はそこまで節操なしじゃ」
「どの口で言っているのですか?」
すらりと伸びた人差し指が俺の唇に触れた。
「いっそ、今ここで塞いでしまいましょうか……」
それはどっちの意味で!?
動悸が止まらない。
そんな俺から先輩が離れていく。
「明日の昼休み、空けておいてください」
「ひ、昼休み……?」
「ええ。楽しい『お茶会』の始まりです」
お茶会。
今その単語から浮かぶイメージは、マッドハッターの狂った茶会だ。
アキハ先輩は丁寧にお辞儀してから、待機していた黒塗りの高級車へと乗り込んだ。
パタム、と重厚なドアが閉まる。
窓ガラス越しに、優雅に手を振る彼女の姿が見えた。
やがて車は、エンジン音ひとつ立てずに走り出し、夜の街へと消えていった。
「……はぁ」
嵐が去った。
だが、これは台風の目に入っただけだ。明日からまた暴風域が待っている。
俺はその場にへたり込みそうになるのをこらえ、家の中に戻ろうとした。
そのとき。
バンッ!!
背後のドアが勢いよく開いた。
「トーマっ! 木南先輩は!?」
飛び出してきたのはフユミだった。
自慢の金髪はまだ少し湿っていて、ボディソープのいい匂いがする。
それに、なにより……
「おまっ、ネグリジェなんて持ってたの!?」
フユミの服装が気になった。
デザインこそキュートとセクシーの中間だが、絶妙な透け感が天秤を後者へ傾けている。
『月澄さんに手を出さないよう我慢してください』
アキハ先輩の声が脳内にこだまする。
あぶねえ……先輩の警告がなければ、俺は何をしでかしていたことか……。
肝心のフユミは鬼気迫る形相であった。
「ねえ! 木南先輩は!!?」
「え、あ、今帰ったとこだよ。車、見えるだろ?」
俺が窓の方を指差すと、フユミは窓辺に駆け寄る。車の姿を認めてから、悔しそうに「くぅ〜!」とうめいた。
「逃げ足の速いやつ……!」
「フユミ? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
俺が尋ねると、フユミはキッと俺を睨み、それからハッとしたように表情を変えた。
そして笑顔を作り、猫なで声で俺の腕に絡みついてくる。
「ううん、なんでもないの。それよりトーマ、体が冷えちゃうわ。早く中に入りましょ?」
「お、おう……」
腕に当たる柔らかい感触にドキッとする。
だが、フユミの目は笑っていなかった。
彼女の視線は、走り去った車の行方を、まるで獲物を逃した猛獣のように鋭く見つめていた。




