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第32話 ナツキとの事後

「……せんぱいの、けだもの」


 シーツの陰に隠れたナツキは、かすれ声で俺を(なじ)る。乱れた黒髪は汗に濡れて額にはりついている。


「お互い様だろ……。てか、早く着替えなよ」


 俺は呆れ混じりに返しつつ、冷蔵庫から取り出した麦茶に口を付ける。


 壁掛け時計に視線をやると、時刻は十四時十三分。


 ナツキが『すぐに済むので』と言ってから、二時間以上も経っていた。


 ナツキはタオルで体を拭きつつ、ムッと頬を膨らます。


「お互い様とは何ですか。か弱い私は先輩に襲われただけですよ」


「おまっ……自分から誘ってきたくせに」


「私は上着のボタンを開けて『暑い』と言って、先輩の制服の袖を引っ張って、目を閉じてやや上を向いただけですが? 先輩がいきなりキスしてきたんですよ」


「明らかに誘ってるじゃねーか!」


「私がいつそんなこと言ったんですか? 何時何分地球が何回回ったときですか?」


「こ、こいつ……」


 思えばゴールデンウィークのときもそうだった。

 ナツキは明確に誘いをかけるタイプではない。そして、いざ俺が誘いに乗ると更に受動的になる。


 あの日も、ナツキは『私って、そんなに女の子らしくないですかね』と卑屈なことを言い出し、俺が否定すると『じゃあ証明してください』と迫ってきた。


 端的に言って、ナツキは卑怯者である。

 俺は、そういうところも可愛いと思っている。


「いい性格してるよ、ナツキ」


 俺が名前を呼ぶと、華奢な肩がビクンと跳ねた。

 ナツキは未だに名前を呼ばれ慣れていないらしい。


 弱点を(つつ)き回すチャンス!!


「どうしたんだナツキ。顔が赤いぞナツキ。熱でもあるのかナツキ。そういうところも可愛いぞナツキ」


 ナツキは俺をスルーして、さっさとバスローブに着替えた。が、耳は赤いままである。


「先輩は、意地悪ですよ」


 ナツキの震え声に、俺は肩をすくめて返す。


「後輩に似ちゃったんだろうね」


 ナツキは俺に視線を向け、目を細めた。黒曜の瞳は、やや潤んできらきらしている。


「何その顔。可愛いんだけど」


「睨んでるんですけど」


 全然そうは見えなかった。


 ナツキはため息をつき、前髪をかき上げる。


「だいたい、先輩は色々と強引すぎますよ。『休ませて』って言っても全然やめてくれないし、『足が浮くと怖い』って言っても聞いてくれないし、体格差を考えるべきです」


「『やめろ』とは言われてないし。ナツキの方こそ、電気消したときに『コムギ、いるか?』って言うのやめろよ。普通は萎えるからなアレ」


「だ、だって。恥ずかしかったんですもん」


「ナツキ、照れ隠しが変だよ……」


 ナツキは顔をそむける。

 そしてベッドに腰掛けて、マットレスをぽんぽんと叩く。


 俺はナツキの隣に座る。

 ナツキは黙って倒れ込み、膝枕の姿勢になった。


 なんとなく、俺はナツキの頭を撫でる。漆の色をした髪は、それはそれは滑らかで、指通りの良さに夢中になるほどだった。


「……二ヶ月前は」


 ナツキがぽつりと呟いた。


「二ヶ月前は、こんな爛れた関係になるとは思ってませんでしたよ。夏日に部室で白昼堂々、なんて、官能小説の世界じゃないですか」


「……そうだねぇ」


 俺も夢にも思わなかったので、上手い返しを思いつかない。未だに白昼夢を見ているような、独特の浮遊感がある。


 それでも俺は今ここにいて、ナツキも確かに今ここにいる。


 ただそれだけの事実が無性に嬉しくて、俺はナツキをじっと見つめる。カーテンを閉め切った部屋は薄暗いけれど、ナツキの瞳の潤んだ光は、確かに見て取れる。クーラーの作動音の中でも、ナツキの(かす)かな息遣いが聞こえる。


 ただ生きている。


 それが本当に幸せだった。


「……『心配かけた』とか言ったら、許しませんからね。慰めたくて《《した》》わけじゃないので」


 ナツキが鋭く釘を刺した。俺は黙って、小さく肩をすくめる。手持ち無沙汰なので、ナツキの髪を撫でるのに集中する。


 ナツキの髪は、ショートヘアというには少し長いくらいに伸びている。最後に切ってやったのはゴールデンウィーク中なので、もう二ヶ月前だ。それにしてもナツキは、髪が伸びるのが早い。


「髪が伸びるのが早い子はスケベである、という説があるよな」


「セクハラですか?」


「そうだよ」


「そうだよって、うわぁ⋯⋯先輩は、つくづくケダモノですね……」


 ナツキは再び、ため息をついた。


 俺は無言で、ナツキの髪を撫で続ける。しばらくそうしていたが、やがて、ナツキがぽつりと呟いた。


「いきなりどうしたんだー、とか、聞かないんですね」


 俺は髪を撫でながら、どう答えたものか思案する。少し考えてから、答えを口にした。


「話したくなったら、話したいように話してくれればいいから」


 ナツキは横目で俺を見て、そして静かに目を閉じた。


「……私は、何もかも言葉にしようと考えていました。そのくせ、大事なことは人任せで。言葉にしてもらうのも、行動してもらうのも、すべて先輩にやらせようとしていました」


 だから、とナツキは続ける。


「だから今日は自分から動いてみました。言葉を使わなくても伝わるように。……ど、どうでしたかね?」


 ナツキは俺の顔を見上げる。不安と期待の入り交じった表情は、いつもの生意気な顔つきより、ずっと幼く見えた。


 俺は居ても立ってもいられなくなり、両手でナツキの頬をコネる。ナツキは揉みくちゃにされながら、もごもごと文句を言う。俺は忍び笑いをこらえきれなかった。


「可愛いよ、すっごく。それが一番伝わってきた」


「せ、先輩はやっぱり、けだものです。色魔(しきま)です。女たらしです。スケコマシのスケベ野郎です」


 ナツキは俺を見上げつつ、再び目を細める。

 睨みつけるように、微笑みかけるように。目を凝らすように、眩しがるように。



 そしてビシッと俺を指さした。


「私は勝つことを諦めません。一番はフユミさんに譲りましたが、二番は私のものです。記憶を取り戻した先輩と、二番目に結ばれたのは、何を隠そうこの私です」


 宣言されんでも知ってるよ。俺は当事者なんだから。


 と思ったが、言わないでおいた。ナツキがノリに乗ってるときは、静かに眺めるのが一番良い。


 俺の無言を快諾か何かとして受け取ったのか、ナツキはふふんと鼻を鳴らす。


「次は最下位決定戦となってしまいますね。先輩がコハルさんを選んでもアキハ先輩を選んでも、残された方は絶対にヤキモチを焼きますよ」


 あの二人に限ってそんなことはないだろう。

 そもそも今となっては、順番なんて些細なことだろうし。


 と思ったが、やっぱり言わないでおいた。


「ま、お二人には『お疲れ様』と伝えたいですね。勝者の私から掛けられる言葉は、そのくらいでしょうから」


 ナツキは俺の膝の上で、ファサァと髪をかきあげた。


 ナツキ、調子に乗りすぎだろ……と思ったので、言っておいた。


「調子に乗りすぎだろ……」


「さっきまでは先輩が私に乗ってたんですけどね」


「やめろセクハラは!!」


「どの口で言ってるんですか、先輩」


 俺をせせら笑うナツキの表情は、それはそれは清々しげだった。


 

 


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