第27話 全ては夏の夜の幻
もしかしたらロバートは、ジュリエットがセシリアになりすまして手紙を書いていることに気づいていて、お前の企みなど全てお見通しだとほのめかしているのだろうか。ジュリエットは必死で記憶の糸をたぐった。
(落ち着くのよ、ジュリエット。そう言えばこの前、確かに散歩の途中で白いスミレを見つけたと書いたわ。しまった、軽率だったわ。侯爵令嬢ともあろうお方は道端のスミレに目など留めないことぐらい、少し冷静に考えれば分かることだったのに。……あ、でも)
「ジュリエット嬢? 大丈夫か?」
「え、ええ、ご心配をおかけして申し訳ございません。ちょっと喉に風が入ってしまって。もう大丈夫ですわ。それにロバート様、お忘れになりましたの? この前のセシリア様へのお手紙で、最近は大輪の薔薇だけでなく、道端に咲く名もなき花にも一つ一つ違った美しさがあることに気づいた、と書くように仰ったのはロバート様ではございませんか。きっと、セシリア様はそういうロバート様の細やかなお志に感服なさって、ご自分も同じ目線でスミレをご覧になったのですよ。それにしても、わたくしとセシリア様を混同なさるなんて、ご冗談が過ぎますわ」
「そうだったか。なるほど」
ジュリエットは俯いて、小さな溜息をついた。いや、そんなはずはないとロバートに食い下がられたらどうしようかと気が気でなかったのだ。だが存外にロバートがあっさりと引き下がってくれたのは幸いだった。額にうっすらと汗をかいているのに気づいて、ジュリエットは肩にかけていた薄物のショールをそっと顔にあてた。
「確かにそう言った記憶があるな。そうか、では、もしかしたらセシリアも私の変化に戸惑っているのかもしれないな」
「きっとそうですわ。やはりセシリア様はロバート様のことを、誰よりもよく理解していらっしゃるのです」
ロバートが冗談めかして小さな笑い声を上げたのを耳にして、ジュリエットは心底ほっとした。笑うのをやめたロバートがぽつりと言った。
「貴女がいてくれて良かった」
「……わたくしはお二人の橋渡しをさせて頂いているだけですわ」
「それでも、貴女がいてくれなければできなかったことだ」
不意に二人の間に奇妙な沈黙が流れた。ジュリエットはそろそろ会話を終わらせて部屋に戻ったほうが良いことは分かっていたが、なぜか身体が動かない。もう少しここにいて、ロバートとの間に流れる空気を楽しんでいたい、そう思ってしまう。
少し強くなってきた風にあおられて、ジュリエットが持ってきた燭台の蝋燭の炎がゆらめいて消えそうになった。慌てて両手で炎の周りを覆うと、ロバートの横顔が下から照らされるような形になった。その時、彼の赤毛がとても美しいことにジュリエットは気づいて、思わず口にしてしまった。
「まるで炎のよう……」
「炎? 何が?」
「いっ、いえ、あの、違うのです、ロバート様の髪がとても綺麗で……嫌だわわたくしったら、なんてはしたないことを……!」
ロバートが訊き返してきた瞬間、ジュリエットは急に恥ずかしくてたまらなくなった。ロバート・グリーンウッド将軍のような立派な軍人の容姿をとやかく評するなんて、失礼極まりなかったかもしれない。焦って謝罪しようとしても、しどろもどろになって訳のわからないことをぶつぶつ繰り返してしまう。だが意外にも、ロバートの顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「炎のようで綺麗、か。髪を褒められるなんて初めてだ」
「申し訳ございません……とんだご無礼を……」
「いや、少し驚いたが、悪い気はしない。気にしないでくれ。そういえばジュリエット嬢、貴女の髪はどんな色をしているのだろう?」
「え、わたくしの髪ですか? そ、そんな、わたくしの髪はどこにでもいる栗色で、取り立てて人目を惹くほどのものではございません」
「そんな言い方をするものではない。よく手入れされた女性の髪は、何色だろうが美しいものだ」
まさかロバートが女性の髪について語るなんて、ジュリエットには驚きだった。だが、それはまだ序の口だった。ロバートは続けてこう言ったのだ。
「ジュリエット嬢、折り入って頼みがあるのだが……貴女の顔に触れても良いだろうか」
「えっ?」
顔に、触れる!? 一体、何を言っているのだろう、ロバートは。ジュリエットは思わず身を引いた。だがロバートの表情は真剣そのものだった。
「ずっと、貴女がどんな顔をしているのか知りたいと思っていたのだが、あいにく今の私は見ることができない。だから、この手で触れて確かめさせてほしい」
「そ、そんな、わたくしの顔など、わざわざご覧になるほどではございませんわ。その……わたくし、美しくないので……」
ジュリエットは困惑しながらロバートに答えた。自分が美しくないことはよく知っている。子供の頃から、いつも皆が誉めそやすのは隣にいる妹のフラニーだったのだから。それに、ロバートの想い人、ブラウニング侯爵令嬢セシリアは、イギリス社交界の名花と謳われる美貌の持ち主だ。もうとっくに自分の容姿に期待を抱くことはなくなったけれど、年頃の女性である以上、どうしても心に傷を負う時はある。きっとロバートは無意識のうちにセシリアと比較して失望するだろう。ロバートの目が見えないのと、ここがロンドンの社交界から遠く離れた田舎であることのおかげで、ジュリエットは生まれて初めて自分を誰かと比較する息苦しさから解放されることができたというのに。だがロバートは逃げようとするジュリエットを逃がすまいとするかのように手を伸ばして、さらに畳みかけた。
「そのように自分を卑下するものではない。それに、貴女が美しいかどうかは私が決めることだ。貴女のように清らかな心根を持つ人がどのような顔をしているのか、雇い主として知りたいのは当然の感情だろう? さあ、動かないで」
暗闇の中で、不意にロバートの手が頬に触れた瞬間、ジュリエットは雷に打たれたかのように動けなくなった。ロバートが小さな溜息を漏らすのが聞こえた。
「……吸いつくような肌だ。きっと象牙のように白いのだろうな」
「そう、ですね、ありがたいことに、肌だけは皆さん褒めて下さいます……」
ゆっくりと頬を撫でていた手がするすると上に上がり、ジュリエットの瞼《まぶた》と睫毛をそっとなぞる。ロバートの指はいかにも軍人らしく、大きくて筋ばっているのに、その動きは無骨な見てくれからは到底考えられないほど、繊細で柔らかかった。それから眉間で一瞬、指を止めて、そのまま鼻の先を通って……。ジュリエットの鼓動が速くなった。
「貴女の瞳、鼻……そしてこれが……暗闇の中にいる私を励まし、希望の言葉をかけてくれた、唇……」
「……!」
ロバートの手がさっきより熱を帯びていることに、ジュリエットは気がついていた。そして、ロバートの顔がゆっくりと近づいてくるのが、気配で夜目にも分かる。だがロバートの唇がジュリエットの唇に触れようとする寸前、ジュリエットは最後の理性を振り絞って立ち上がった。その瞬間、ロバートもはっと冷静になり、慌てて手を引っ込めると困惑した様子で顔を背けた。ジュリエットは必死で呼吸を落ち着かせると、どうにか平静を装ってロバートに言った。
「も、もう遅いですわ、ロバート様。明日は出発が早いですし、わたくし、そろそろ寝ませていただいても良いでしょうか」
「あ、ああ、もちろんだ。……すまん、ジュリエット嬢。私はどうかしていた。その……今夜のことは忘れてくれ」
「お気になさらないで下さいませ。きっと明日からの旅行で気が昂っておられるのでしょう。バースでの療養が良い結果になることを願っておりますわ」
「そうだな。ありがとう、ジュリエット嬢。明日からよろしく頼む。では……お休み。ああ大丈夫だ、一人で戻れる」
「はい、では、ご機嫌よう、ロバート様」
二人とも本当はこんな会話がしたいわけではないのに、お互いに胸の奥に言葉を飲み込んで、その場を離れた。ジュリエットは階段の途中で振り返って燭台をかかげ、杖を手にしたロバートの姿が暗闇の奥に消えていくのを見届けてから、静かに部屋に戻った。開いたままになっていたフランス窓から部屋に入り、後ろ手にガラス戸を閉めると、足の力が一気に抜けて、そのままジュリエットは床に座り込んだ。
ロバートの手の感触が、ずっと残っている。あのまま黙って座っていたら、どうなったのだろう。ジュリエットは認めざるをえなかった。ロバートが口づけしてくれるのではないかと、どこかで期待していたことを。だがすんでのところでジュリエットの脳裏に、最後に会った時にウィリアムが見せた、泣き笑いのような表情が甦った。そして、いつぞや新聞の社交欄で見かけたことのある、セシリアの完璧に美しい姿も。そのおかげで、彼女は理性を取り戻したのだった。
(自分が恥ずかしいわ……いったい、何を期待していたの? ロバート様がわたくしに特別な関心をお持ちになるなんて、なんという思い上がり。ロバート様の心にいるのはセシリア様だけですもの。お会いになれない時間が長すぎて、つい何かで寂しさを紛らわしたくなったのでしょう。その時たまたま隣にいたのがわたくしだった、ただそれだけのこと。そうよ、そうに違いないわ。勘違いしてはダメ、ジュリエット。あなたを愛する人など、どこにもいないのだから)
ジュリエットはバースから戻ったら、黙ってロバートの元を去ることに決めていた。その時がすぐそこまで来ているのだから、今夜のことも、ちょっとした気の迷いにしてしまえばいい。二人の間に確固たる信頼関係と友情が築かれていたからこそ引き起こされた、夏の夜の幻ということにしておけば、ちゃんと説明はつく。ロバートがセシリアを想っている限り、ジュリエットがここに留まることは許されない。救国の将軍と人でなし令嬢の運命が交わることは、決してないのだ。




