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揺れている。
優花に身体を揺さぶられているのだと気がつくまでに、若干の時間を要した。こんな風に揺すり起こされるのは、大会に向けた練習をすっぽかして昼寝をしていた時以来ではないかと、少し懐かしい気持ちになった。起こされるままに目を開けると、真剣な表情をした優花の顔がそこにはあった。途端に眠気は引いていく。
それだけの顔をする何かがあったのは明白だった。
「どうした?何かあったか」
優花は創のことを覗き込むような態勢のままに、真剣な表情を崩さずに言った。
「うん。食べ物がないことに、ついに子供達がしびれを切らしたのかな。みんな外に出て、集会みたいなことを始めてるの」
その優花の言葉に、別段驚きはなかった。どうやら、ついに変化の時が訪れたようだ。
「見に行こう。隠れ潜むのはもう終わりだ」
創は身を起こし、立ち上がる。こんな風にまどろみの時間さえなく一瞬にして目を覚ますのは、随分と久しぶりだ。外ではどんな光景が広がっているのか、気持ちが高ぶっていくのが、はっきりと自覚できる。
創が立ち上がるのと同時に優花も立ち上がる。
「それじゃあ、私は先に下に降りて待ってるね」
「ああ、着替えたらすぐ降りるよ」
着ていく服の組み合わせを考える余裕なんてなく、もはや寝巻きを脱ぐ手間すらも億劫だ。タンスの引き出しを開けて、優花の父の服を借りて袖を通す。下に降りると、身支度を終えた優花が待っていた。もはや残り少なくなったご飯を食べることもせずに、二人揃って家を出る。
優花の言葉の通りに、外は随分と騒がしかった。今までは家の中へと隠れていた子供達がみんな街へ出払って、けたたましい空気を生み出している。
限界を迎えているのは明らかだった。
いよいよ余裕のなくなった子供たちは周りのことなど目に入らないのか、近くを歩く創と優花のことを気に留めることもない。好都合と思い、創は優花と町を歩いて観察を続けていった。
この町を包むのは、焦りと怒り。どこの通りを歩いてみても、子供たちの怒りの声が聞こえぬ場所はない。町全体の空気がピリピリとした緊張感を孕んで全身を刺す。
歩いていると、やがて鴨居が集会に利用していた公園までたどり着く。この非常事態に対する緊急集会だろうか。そこには公園を埋め尽くすほどの子供達と、その中央に設置された壇の上に立つ鴨居の姿があった。
ほんの数日前まで、そこは鴨居を讃える歓声で溢れていた。だが、今この公園に響くのは、怒声、罵声。「食料はどうする!」、「どうにかしろ!」、くだらない意見ばかりが、右に左に飛び交っている。あれだけ鴨居に心酔していた彼らは、この間までの態度が嘘みたいに不満を吐き出し続ける。
そんな観衆を前にして、鴨居は口を開く。
「今のこの世界の状況は、みんなもよく知っていることだと思う。確かに苦しい状況ではあるが、これは大人と生活を切り離すためには避けては通れない道なのだと、僕は考えている」
鴨居が語り出したというに、観衆が口を閉ざすことはない。たった数日でここまで状況が変わるなんて、誰が想像できただろう。
今日のこの集会が、食料不足の問題が露呈してから初めての集会ではないのだろうか。彼らが鴨居へと向ける罵声は、漠然とした怒りや焦りに因るものではない。観衆の野次からは、鴨居への明確な不満が透けて見える。
「面倒くさいことをごちゃごちゃ言ってないで、俺たちの食べ物をどうにかしろよ!大人との関係なんてこの際どうだっていいだろ!!」
その時、一つの甲高い声が、怒声の中に浮かび上がるように響いた。そして、それを聞いたまた別の誰かが、それに同調するように「そうだ、そうだ」と叫ぶ。その声は、元となった声から波紋のように広がっていく。
これだけの怒号を浴びながらも、鴨居は語り続けることをやめようとしない。その鴨居の言葉に、創は必死に耳を傾けた。
「僕たちが目指すのは、大人たちとの完全な別離だ!食料が尽きた、だから大人を頼るのか?それは違う!そもそも、僕たちは大人という存在を、意識の内側から排除しなければならないのだ!」
「すごいね、鴨居は。考え方には賛同できないけど、ちゃんと芯はぶれてない。今だってきっと、このままいけば周りからの求心力がなくなることを分かっていて、それでも自分の考えをつらぬているんだと思う」
壇の上で必死に声を張り上げて語り続ける鴨居を見つめて、優花は言った。その言葉に毒づくような響きはなく、ただ純粋に関心をしているような印象を受けた。
鴨居はこの広場に集まった大勢の子供たちとは違う。彼らにとっての大人は、ただの疎ましいだけの存在で、自分の都合によっては利用することを良しとしている。
だが、鴨居にとっての大人は、利用をする対象でさえない。一切の関わりを絶ち、お互いに干渉することを止めることで、物理的にも精神的にも独立することを目指しているのだろう。
一見すると似ているように見えた彼らの思想は、最初から向いている方向が違っていて、それが食糧危機の問題によって一気に露呈した。きっと、ただそれだけのことなのだろう。
「確かに、その辺の奴らよりは鴨居の方がよっぽど芯は通ってるよ。それが正しい方向へ向かっているかはさておきさ」
「うん、そうだね。憎むべき相手のはずだけど、なんだか心の底からは嫌いになれなくなっちゃったな」
そう呟く優花の目には、今も必死に自らの想いを語り続ける鴨居の姿が映っている。その目には、哀れみの感情が浮かんでいるようにも見えた。
「みんな、どうか聞いて欲しい!僕たちだけでこの食料問題を解決するためには……!」
「いい加減黙んな!」
突然、鴨居の言葉を遮るように、野太い声が公園に響いた。誰もが騒ぐことをやめ、その声がした方へと視線を向ける。
すると、一人の男が鴨居の立つ壇上に乗り上がるのが見えた。その男が再び叫ぶ。
「なあ、みんな。いつまでもこんな奴に任せていいのかよ!このままじゃあ、いずれ食べ物がなくなって辛い思いをすることになる!」
突如として現れた男の存在に、観衆たちは戸惑いの表情を浮かべている。だが、その表情の奥には、男への興味が透けていた。
「そもそも、大人との完全な別離ってのが間違ってるんだ。俺たち子供は特別な存在なんだぞ!?そんな俺たちには大人たちを使役する権利がある!」
男の主張に同調するように、辺りからは歓声が湧き上がり始める。この広間全体が男に支配されていく。そして、それに決定打を打つように、男はひときわ大きな声で観衆に向けて叫ぶ。
「鴨居の時代はもう終わりにするんだ。大人を追放するんじゃない、大人を支配する世界を!俺たちが本当に楽しく暮らせる世界を作ろうぜ!」
男の声に、観衆は歓声を上げる。それは、かつて鴨居に向けられていたそれと遜色ないほどに、力強い声。
鴨居という指導者を失った子供たちは、この非常事態の中で、頼るもののいない不安を抱いているであろうことは明らかだ。
彼らが抱く不満や不安を代弁するかのような男の言葉は、観衆の心の隙間に自然と入り込んで行ったように見えた。
子供たちが彼のことを、新たな指導者と認めた瞬間だった。
舞台を乗っ取られる形となった鴨居は再び、自らの想いや男を批判する内容の言葉を声高に訴える。男はそれに反論し、言葉の応酬が始まった。
鴨居と男の舌戦は続く。鴨居の支持者は完全に消えてしまった訳ではないが、もはやかつての声援の大きさとは比較にもならない。新たに登壇したその男と、どちらがより多くの支持を受けているかは明白だった。
男が語ったのは、大人との共存の世界。最小限の大人をこの町に招き入れて、食事の用意などの給仕をさせる。つまりは、大人たちを奴隷のように扱っていくことを公約に掲げた。
鴨居のために開かれたであろうこの集会は、気がつけばこの男が乗っ取るような形になっていた。大人を再びこの地へと呼び戻す。そんな結論で完全に決着し、話はやがて具体的な手段について移っていった。
まずは何人かの子供を大人エリアへと向かわせて、一〇〇人程度の大人を連れて来る。それには一体誰を向かわせるのかという話になると、驚くほどの数の手が一斉に上がった。その上がった手のうち、男に近い方から一〇名ほどが選ばれて、いよいよ彼らの計画は実行へと移されていく。
それは、男が登壇をしてからほんの三〇分ほどの出来事であり、創も優花もそのあまりの手早さに、ただ見つめていることしかできなかった。
「頼んだぞ」と、どこかから声が上がる。それに続くように、同じような言葉が幾重にも重なって公園中に響く。
「これからどうなるかな」
答えを求めるでもなく、創は尋ねてみた。
「わかんない。あいつらの思い通りに事が運ぶとも思えないけど、なんかもうわかんないや」
そういう優花の口調には、ずいぶんと疲れがにじみ出ていた。無理もない。ここ数週間の間に、めまぐるしく周りの状況が変わりすぎている。
大人狩りを起点としたこの一連の騒動が起きるまで、どこかこの世界は自分の思い通りに動いていくものだと信じていた。けれど、そんなものはまやかしで、実際はどうしようもないことばかりだ。その事実が、創の心を確実に削っていた。
「どうなるんだろうな、本当に」
足元に転がる小石を蹴飛ばして、どこか他人事のようにつぶやく。
男によって選ばれた一〇人ほどの子供達が、大歓声を背中に受けてこの公園を後にしていく。重要な使命を背負った彼らは、大人を連れてこの町へと凱旋する時のことを、今から想像でもしているのだろう。
彼らを見送る歓声の中に、こっそりと舌打ちを一つ紛れ込ませた。それが今の創にできる唯一の抵抗で、彼らの背中が見えなくなると同時に、この広場を後にした。
この公園から大人エリアはそう遠く離れていない。何も力を使わずに歩いて行ったとしても、三〇分から一時間ほどでたどり着く。順調に事が運んだのなら、今日の夕方ごろには、一〇〇人ほどの大人を連れた彼らがこの場所へ戻ってくるだろう。
創は優花と共に一度家へと戻り、その時が来るのを待った。
三〇分ごとに落ち着きなく窓の外を覗き込んでは、外の様子を確認する。そんなことを何度も繰り返しているうちに時間は過ぎて、いつしか今日が終わりを迎えていた。
――大人たちを連れに行った一〇人の子供は、結局この町に戻って来ることはなかった。




