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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第8話 鐘

 噂は、港の段差で生まれた。魚屋の奥さんがしゃがみこんで、割れ目にたまった赤い水を見つめていたとき、「昨夜、海が鳴った」と誰かが言った。誰かは曖昧で、顔は川霧みたいにぼやけている。けれど、その言葉だけはすぐ固まり、波に濡れない場所へ運ばれていった。


 赤い月の満ち欠けに合わせ、海の底から低い音が鳴る——。それは最初、笑い話の一種だった。赤い泡にたぶらかされた大人の幻聴、あるいは誰かの古い怪談の言い換え。だが、笑いはもう長く続かない。笑いは人の口で丸く削られて、すぐに静けさへ戻る。静けさのほうが、この町では礼儀正しい。


 校舎の廊下で、理科準備室の窓ぎわでも、体育館の隅のベッドとベッドのあいだでも、同じ言葉が小さく交わされた。


「鐘みたいな音だった」

「水を通して、なんていうか、骨で聞く感じ」

「満ちる前と欠ける前で、高さが違う」


 ミサキは、その噂が広がる前から、断片をこぼしていた。浅い眠りの底へ一瞬触れて戻ってくるとき、糸くずのような声で言った。「底で、古い鐘が鳴ってる」と。灯台の鐘でも、教会の鐘でもない。誰かが鳴らすのでなく、水そのものが鳴らしている——そんな言い方だった。


 ユウは、その音を確かめたいと思った。確かめなければ、噂はどこまでも膨らむ。膨らんだものは、いつか紙で包まれて掲示板に貼られ、標語の隣で乾いていく。乾く前に、耳でつかみたかった。


 夕暮れ、ユウは家の引き出しから古いノートを取り出した。表紙の角が潰れた、学校指定の罫線ノート。ページの初めに、日付と、月の形を描く。欠け具合を折り紙の型紙みたいに真似て、濃い鉛筆の丸の端を指で擦って薄くする。次に、時間の目盛りを縦に記す。秒針がひと目盛り進むごとに、短い線をつける準備だ。時計は、祖父の形見の手巻きのやつを持っていく。スマホは光が強すぎる。光の強さは、夜にとって鈍器だ。


 母は縁側で指を水にひたし、父は物置の錠をもう一度確かめていた。夕飯は味噌汁と冷たいご飯。味噌汁の表面にわずかに赤が混じるのは、塩気のせいだろうと誰も言わなかった。言葉が塩を呼ぶからだ。食器を片づけ、廊下の窓を半分だけ開け、玄関の小さな靴べらの位置を整える。整えることが、出かける言い訳になる。


「灯台のあたりで、紙を拾ったの」


 出がけに母が言った。掌にのせられた小さな袋には、ミサキが拾って以来ずっと持ち歩いている、図書館の抜き取られた欠片の、さらに端切れが入っていた。袋の内側で、半分の文字がこすれて音にならない音を立てる。母は続けない。続けないぶんだけ、見送るという意思が伝わってくる。


「行ってくる」


「気をつけて」


 気をつけるとは、最近では「戻ってくる」の言い換えだ。戻ることだけが、祈りの本体になっている。


 防波堤は、街灯に照らされたコンクリートの白が頼りなく光っていた。白は夜の中で薄く、古い骨の表面に似ている。堤防の端まで行くと、灯台が遠くで目を細めていた。遠くで目を細める者は、どこか信頼できる。


 波の音は、昼よりも低い。低いのに、早足で行き来する。行き来の端で赤い泡がふくらみ、すぐにしぼむ。しぼんだ泡の膜が薄く広がり、海の表面に白い地図を描く。白い地図には道がない。道の代わりに、音の輪郭だけが引かれている。


 堤防の上に腰を下ろし、背中を冷たい石に預ける。手巻きの時計を膝の上に置き、秒針の音と波の打ち寄せを、左右から聴く。左耳で陸、右耳で海。陸の音は短く、海の音は長い。長さの違いが、夜の幅だ。幅をはかるように、ユウはノートに短い線を刻む。線はうすく、だが消えない。鉛筆の芯の黒は、夜のなかで一番人間に近い色だ。


 眠気は、まず目の縁で立ち上がる。立ち上がったあと、頬の内側に薄い布をひく。薄い布は、音の輪郭を丸める。丸められた音は、海の底と似合う。似合ってしまう前に、ユウは指先を噛んだ。肉ではなく、爪の根元。軽く、骨に触れない程度に。痛みは小さく、しかし確実な距離を引き戻す。引き戻された意識の端に、赤い月の輪郭が滲む。雲の向こうにいるのに、存在感だけがこちらへ歩いてくる。


 観覧車の骨が、遠い黒い線になって海へ延びていた。動かないはずの円が、風に合わせてわずかに軋む。軋みは、夜の温度を刻む音だ。刻まれた温度をノートにうつす。言葉ではなく、短い線の密度で。


 港の向こう側で、検疫の車の青い光が一度だけ明滅した。体育館の鍵がひとつ閉まり、またひとつ開く気配。遠くの紙の上で、誰かの名前が増えたり、黒い線で消されたりする。消される音は聞こえない。聞こえない音のほうが、よく記憶される。


 眠気は、今度は首の後ろから来た。髪の毛の根元に小さな手が忍び込み、皮膚の下で糸を引く。引かれる前に、ユウは歯を合わせ、舌の側面で冷たい空気をなめる。冷たさは薄く、しかし助けになる。助けの薄さを、今のこの町はよく知っている。


 やがて、潮が満ちて、また少し引いた。引く瞬間、海の色は暗さを増して、赤がさらに深く沈んだ。沈んだ色の上を、月の気配が薄い膜になって覆う。月はまだ雲の裏だ。裏にいるのに、海の表面の形を変える。形はいつだって、遠いものに従う。


 そのときだった。音がした。


 最初の一撃は、耳でなく胸の真ん中に落ちた。誰かが遠いところで厚い鉄の皿を叩く。叩いた音が水に吸われ、重くなって、骨へ届く。骨は音を受け取る器官ではないはずなのに、そこだけがはっきり聴いてしまう。聴いてしまったものは、もう戻せない。


 低い。古い。長い。三つに分けるなら、そんな言葉しか見つからなかった。長さは秒針にすれば十を少し超える。低さは、腹の底でだれかが詩を唱えるときの声の高さ。古さは、学校の古典の活字の匂いに似ている。音が一度、岸壁の表面の砂を震わせ、ユウの靴底を淡く叩いた。叩かれた感触を、ユウはノートに落とす。線ではなく、丸。今日だけの丸。


 二撃目は、さっきよりわずかに高かった。高いといっても、水の奥の中での話だ。水の重さが音の肩にのしかかり、沈ませ、また持ち上げる。持ち上げられる瞬間に、遠い鐘楼の影が頭の中に差した。見たこともない鐘楼。古い石と、濡れた苔と、誰もいない階段。階段の上から、誰かの名を呼ばない呼び声が降りてくる。名前の形だけをもった、音。


 三撃目。ユウは、その音に合わせるように、意識がゆっくりと傾くのを感じた。傾斜はなだらかで、怖さより先に安堵が来る。安堵は危険だ。危険のほうが、いまは正直だ。指を噛む。痛みは、さっきより遅れて届く。届いたときにはもう、まぶたの裏に光が浮かび上がっている。赤く、丸く、しかし中心は黒い。


 観覧車が、月に溶けていった。あの骨組みが、音の波に合わせて細かく震え、一本一本が柔らかい糸のようになり、赤い円の明かりの中へほどけていく。ほどけるのに、崩れない。崩れないで、形だけが白くなって空へ吸われていく。ゴンドラは鎖を断ち切って浮かび、赤い星の欠片みたいに遠ざかっては、また戻る。戻るたびに、数が減る。減るたび、月の黒い穴が大きくなる。穴の縁に、細い鐘の文字が刻まれている——そんな馬鹿げた映像が、はっきり、脳の白い壁に映し出されていた。


 跳ね起きたとき、時計の秒針はひとつ分しか進んでいなかった。海は変わらない。観覧車はそこにあり、骨は硬く、錆は冷たい。ゴンドラは鎖で縛られ、月はまだ雲の裏にいる。息だけが浅くなっていた。胸の真ん中が軋む。軋みは痛みではなく、音の残響が骨に引っかかったままの手触りだった。


 ノートに、震えた文字で書く。


 聴こえた。

 水の重さを通って届く、鐘。

 古い。低い。長い。

 観覧車が、赤い月に溶けた——これは、たぶん、見えたのではなく、見せられた。


 見せられた、という言い方は卑怯だと自分でも思う。けれど、正確な言い方でもある気がした。誰に、と問われれば、誰でもない、と答えるしかない。誰でもないものが、いちばんよく働く夜がある。


 夜明け前、空は濁った青を取り戻す。鳥の声は少ないが、ゼロではない。ゼロでないことが、町をかろうじて現実につなぎ止める。ユウは堤防の端を歩いて戻り、灯台の下の階段に腰をかけた。そこに、灯台守の老人がいた。腰を悪くして、最近は町内の子に灯りの点検を任せているという。顔は海で削られ、目はひたすらに乾いていた。


「鐘を聴いたか」


 老人は、ユウの顔を見る前に言った。言葉は浜の石みたいに丸かった。


「……聴こえた気がします」


「気がする、でいい。気のせいのほうが、夜は長くもつ」


「昔から、鳴ってたんですか」


「昔は、風鈴みたいに軽かった。台風の前は、少し重くなった。今は……水が深くなったのか、音が落ちてきてる」


「水が深く」


「海は同じに見えるが、同じでいたがるだけだ」


 老人はそれだけ言って、立ち上がった。足元の砂をならす仕草が、習慣のように丁寧だった。習慣でできている人間は、夜に強い。強さに嫉妬して、ユウは老人の背を長く見送った。


 帰り道、ミサキに紙片で連絡を入れた。観覧車の三番の柱。朝の光はまだ弱く、錆は赤黒く、人の気配はない。柱の根元にしゃがんで、ユウは昨夜の音のことを話した。ミサキは小さくうなずき、細い髪を耳にかけてから、困った顔の形に眉を寄せた。


「それ、夢だよ」


 言い切る声に、やさしさと自分への苛立ちが半分ずつ入っていた。ユウは首を振った。振った首の筋が少し痛む。痛みは、現実の味見だ。


「違う。夢に見える現実だったんだ」


「現実に見える夢じゃなく?」


「夢に見える現実」


「ことばの順番、入れ替えただけだよ」


「順番で、ぜんぜん違う」


 ミサキは少し黙って、観覧車の骨組みを見上げた。空はもう白い。昨夜ユウが見た幻の赤は、どこにもない。ないことが安心であり、同時に恐怖でもある。恐怖は、目印を失うとすぐに拡がる。


「もういちど、教えて」


「最初の音はね、耳じゃなくて、胸の真ん中に落ちてきた。二度目は、少し高くなって、古い階段の影が見えて、三度目で、観覧車が……」


 ユウは言葉を選んだ。選ぶ、という動作そのものが、夜の残響を削る。削りすぎれば、何も残らない。残らないなら、初めから話さないほうがいいのかもしれない——そんな考えが、いちどだけ頭をかすめた。けれど、話すことは、今の自分に残された数少ない技術だった。


「観覧車が、月へほどけた。糸みたいになって」


「ほどけたのに、崩れなかったの?」


「崩れたら、起きられなかったと思う。崩れなかったから、戻ってこられた」


「戻ったのは、ここ?」


「うん。ここ。三番の柱の影」


 ミサキは柱の錆を指先でそっと触れ、その指を鼻先に近づけた。鉄の匂いに、潮の匂いが薄く混じる。混じり方に、記憶の味があった。誰の記憶かは、わからない。


「わたしの鐘はね、誰の名前も呼ばないの。音だけで、なんだか名札みたいな形をしてるんだ。あなたのは?」


「名前を持たない呼び声、って感じだった」


「似てる」


「似てる」


 似ていると言い合うことで、ふたりは少しだけ眠くなった。眠くなることは、罪の入口だと知っている。知っているのに、毛布のない朝は、目の下が重くなる。重さの分だけ、目の前の人の輪郭がやさしくなる。やさしさは、夜の真ん中では刃なのに、朝の端では包帯になる。


「ねえ、ユウ。確かめよう」


「なにを」


「それが夢に見える現実なのか、現実に見える夢なのか。確かめるために、道具を使おう」


「どんな」


「録音機。シュウトが前、放送部の古いやつ持ってるって言ってた。あれ、借りられないかな」


「シュウト」


 昨夜別れ際に交わした会話が、蘇る。彼は正義を板の裏に仕舞った。仕舞ったぶん、肩が軽くなった。軽さは危うい。危うさは、誠実の隣にある。


「借りに行こう。『検疫の記録の補助』って言えば、嘘じゃない」


「嘘じゃないけど、ぜんぜん本当じゃない」


「ふり、って言葉、昨日あなた言ってたでしょう」


「ふりはよくない」


「ふりで持つ夜がある」


 ミサキは笑い、ポケットから小さな袋を取り出した。図書館の欠片が入った袋。袋の口を指で少し開き、陽に透かしてみせる。紙の繊維が金色に光る。光は弱いのに、救いの形をしていた。


「ねえ、ユウ。あなたが聴いた三つの音、もしほんとうに海が鳴らしてるなら、わたしたちが抱き合うの、少しだけ遅らせよう」


「どうして」


「音にかき消されて、戻す合図が届かなくなるかもしれない。浅い眠りの橋の上は、渡る順番がたいせつ」


「順番」


「最初の音が鳴ったら、手首。次で肩。三つ目で、名前」


「名前は、最後」


「うん。最後に名前。いちばん硬くて、いちばんやさしい鍵だから」


 決め事は、ふたりの間に一本の板を渡す。板は薄いが、渡れる。渡れるものは、今はそれで十分だ。ユウはうなずき、三番の柱のボルトの陰へ紙片を滑り込ませる。今日の時刻、明日の印、灯台の影の長さ。紙は潮でふやけるだろう。ふやけた文字は柔らかくなって、読みやすくなることもある。


 校門のそばで、シュウトは立っていた。白いチョークの粉が指に残っている。放送部の部室の鍵を、無言で差し出した。差し出すとき、目は正面を向いたまま、ほんのわずかに笑った。


「録音機、動くかわからないけど」


「ありがとう」


「ありがとうって言う筋合いない」


「正しい言い方ではないけど、ありがとう」


 ふたりで部室の戸を開け、棚の奥から古い機械を出す。金属のグリル、ひびの入ったつまみ、重たい電池。録音用のテープがまだ残っている。テープの茶色が、海の底の色に少し似ている。似ていると、怖くない。ユウはそう思おうとした。


 夜、再び堤防へ。今度はミサキも一緒だった。録音機は毛布の代わりにふたりの間に置かれ、マイクは海の方向へ向ける。秒針の代わりに、テープの回転を目で追う。回転は静かで、時間をすり減らす音だけが指先へ昇ってくる。


「音が鳴ったら、手首、肩、名前」


「手首、肩、名前」


 繰り返すことで、合図の形が骨に入る。骨に入ったものは、少し壊れにくい。壊れないうちに、海が満ちる。雲がほどけ、赤い月が顔を出す。黒い中心が、部屋の消し忘れた穴のようにぽっかり開く。穴の縁に、昨夜見た文字はない。ただ、見たかもしれない記憶の形だけが、そこにぴったり合う。


 一撃目。胸の真ん中。低い。古い。長い。ミサキの手首をつかむ。脈がわずかに走る。ずれは生きている。ユウは「ここにいる」と言わず、ただ指で二度、やさしく叩いた。言葉が重い夜は、叩くほうが軽い。


 二撃目。高くなる。階段の影。肩へ触れる。叩かず、撫でる。撫でながら、録音機のメーターがふるえるのを横目で見る。針は鈍いのに、確かに上がった。上がるたび、胸の軋みが増す。増える痛みは、現実のカウントだ。


 三撃目。名を呼ぶ合図。ユウは息を短く整え、喉の奥で音を集め、ミサキの名前を呼ぼうとして、呼ばなかった。呼んだ瞬間に、彼女が落ちる気がしたからだ。合図は鍵だが、鍵は合わない鍵穴に差し込むと折れる。折れた鍵を抜く手は、この町にはもう残っていない。


 代わりに、額と額を、ほんの一瞬だけ触れさせる。触れた皮膚の温度が、鐘の残響で水に溶けそうになる前に、離す。離したあとも、熱だけが残る。熱は危険だ。危険なのに、今はそれを手放せない。


 終わった。音は三度で止み、海はいつもの波に戻った。録音機のテープは端に近づき、機械は小さな息を吐いた。ミサキは目を開けたまま、まぶたの内側に薄い涙の形を浮かべていた。涙にならない。涙にならないことが、いちばん泣いているときがある。


「聴こえた?」


「聴こえた」


「録れたかな」


「録れていてほしい」


「録れてないほうが、よかったりする?」


「わからない」


 わからない、という返事が、今夜は救いだった。救いは答えでなく、答えの行き場を増やすことだ。行き場が増えれば、夜は少しだけ広くなる。広い夜は、崩れにくい。


 家に戻る前に、観覧車の前で一度立ち止まった。ゴンドラは鎖のまま揺れていない。揺れないものを、揺れていないと指で確かめる。指が冷える。冷えた指で、ユウはミサキの手首をもう一度だけ包んだ。脈は、生きている。生きているうちは、今夜の合図が届く。


「ユウ」


「なに」


「あなたの言い方、わかる気がするよ」


「夢に見える現実?」


「うん。現実に見える夢より、少し、やさしい。罪の入り口から、目をそらさせてくれる」


「そらしたままで、いられるかな」


「いられないと思う。だから、明日もここで」


「三番の柱」


「三番の柱」


 ふたりで場所の名前を確認する。名前は、場所を現実に留める。名前のない場所は、夜の地図からすぐに落ちる。落ちた場所へ行く道は、まだ作られていない。


 翌朝、放送室でテープを巻き戻す。巻き戻しの音は、過去を上書きするみたいで不安になる。再生ボタンを押す。雑音。遠い波。赤い泡が視界の隅で弾ける気配。やがて、低いものが、テープの奥からゆっくり浮かび上がる。


 一撃目は、薄い。二撃目は、少しだけ厚い。三撃目は、波に紛れて消えそうになり、最後の最後で、針がわずかに跳ねた。目で見るほうが、耳で聴くより信じやすい。信じることは、ここではぜいたく品だ。


「録れてる」


 ミサキは手で口をおおい、そしてすぐに手を下ろした。防音材の匂いが指先に残る。匂いは現実の一部だ。現実は、案外こんなふうに小さくて、頼りない。


「これ、どうする」


「どうもしない」


「報告は?」


「しない。これは合図じゃない。合図じゃないものは、紙に向かない」


「紙に向かないもの、増えたね」


「増えたぶんだけ、紙の外で抱える」


 抱える、という言葉にふたりとも少し黙った。抱えることは、抱くことに似ている。似ていることが、今は罪の縁を照らす。照らされた縁は、細く、光っている。


 防波堤の夜に戻るまでの間、ユウはノートにもう一度書き足した。


 鐘は、たしかに聴こえる。

 誰の名も呼ばないまま、名の形で。

 観覧車は、溶けなかった。溶けなかったから、戻れた。

 これは夢に見える現実だ。そう名付けることでしか、いまは持てない。


 名付けることは卑怯で、同時に祈りだ。祈りは、紙に貼られない。貼られないもののほうが、長く残ることもある。ユウはノートを閉じ、鉛筆をポケットに戻し、手のひらの小さな傷を爪で確かめた。昨夜噛んだ跡が、うすい赤になっていた。赤はすぐ肌に馴染む。馴染むものだけが、今は信じられる。


 教室に戻ると、黒板の端に誰かが小さく書いていた。


 鐘は、三つ。


 消すべきか迷った跡が、白く残っている。迷ってくれる大人がいる。迷う同級生がいる。迷う町が、まだここにある。あるうちに、三番の柱へ行く。名前を呼ばない呼び声に耳をすまし、名前を呼ぶタイミングを最後に取っておく。最初は手首。次は肩。最後に名前。順番があるうちは、わたしたちは落ちない。


 赤い月はまた昇る。黒い穴は、何も言わない。何も言わないものほど、よく見える。見えすぎないように、ミサキが持ち歩く半分の文字を、陽に透かしてみせてもらう。半分の文字が、今日も金色に光る。光は弱く、しかし確実だ。確実さの小ささこそが、今夜の合図になる。


 そして、鐘は鳴る。

 三度。

 ゆっくりと。

 水の重さを通って、骨の裏で。

 わたしたちは、それを聴いたふりをやめない。聴かなかったふりも、やめない。その二つのふりの間で、肩と肩、額と額、脈と脈を確かめ続ける。名前は、最後に。最後まで。

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