第七章 赤い月の夜に、君を殺す夢を見た
赤い光が、すべてを白く塗りつぶした。
最初に戻ったのは、音だった。
泣き声が聞こえた。
一人ではない。何人もの子どもが泣いている。声は壁に吸い込まれ、天井に反響し、また別の泣き声と重なった。そこは学校ではなかった。市民センターでもなかった。十年前の研究施設だった。
白い部屋。
白いベッド。
白い検査服。
白い蛍光灯。
何もかもが清潔に見えるのに、その部屋には拭き取れない汚れがあった。目には見えない。けれど、そこにいる全員が知っている。誰かの恐怖を、別の誰かへ移すという汚れだ。
幼い澪がベッドに横たわっている。
頭には電極が貼られ、腕には細いコードがつながれていた。周囲のベッドには、他の子どもたちがいる。泣いている子。唇を噛んでいる子。目を閉じたまま震えている子。大人たちは白衣姿で、モニターの数字を見ていた。
その中に、朝霧医師によく似た男がいた。
朝霧の父なのだろう。
男は若かった。今の朝霧より少し年上くらいに見える。表情は真剣だった。悪魔の顔ではない。むしろ、患者を救おうとする医師の顔に近かった。
だからこそ、怖かった。
「媒体への集中率が上がっています」
白衣の一人が言った。
「他の被験者の恐怖反応は低下。睡眠波形も安定しています」
「続けて」
朝霧の父らしき男が言った。
「この子には負荷が大きすぎます」
「中断すれば、全員の悪夢が再発する」
「ですが」
「もう少しだ」
その言葉が、部屋の空気を決めた。
もう少し。
あと少し。
これを越えれば救える。
そういう言葉が、人を一番遠くまで連れて行く。正しさの服を着た残酷さは、裸の悪意よりも長く歩ける。
幼い澪の目が開いた。
彼女は泣いていなかった。
泣く力も残っていないようだった。
「もう、いや」
小さな声だった。
誰も振り向かなかった。
モニターの数字が跳ねる。
赤い円形のマークが、壁に映し出される。プロジェクターの光ではない。部屋そのものの奥から染み出したような赤だった。
幼い澪の体が弓なりに反った。
他の子どもたちが一斉に眠りに落ちる。
泣き声が止む。
部屋は静かになった。
大人たちは、それを成功と呼んだ。
ただ一人、幼い澪だけが、目を開けたまま眠っていた。
白い天井を見つめ、声にならない声で助けを呼んでいた。
僕は、その光景を見ていた。
澪も見ていた。
黒瀬も、水無瀬も。
そして、町の人々も見ていた。
市民センターで眠っている母も。病院で眠っている白鳥も。意識の底に沈んでいる榊先生も。死んだ間宮も。貯水施設で死んだ女子生徒も。十年前、ここで夢を分け合わされた子どもたちも。
全員が、その部屋に立っていた。
誰も、声を出せなかった。
赤い月は、彼らの頭上にあった。
研究施設の天井を突き破り、白い部屋を赤く照らしている。月というより、開いた傷口だった。十年前に閉じたことにされた傷が、ようやく膿を流し始めている。
澪が、一歩前へ出た。
幼い自分のベッドへ近づく。
彼女の足取りは揺れていた。だが、止まらなかった。
ベッドの横に立つと、澪は幼い自分を見下ろした。
「ごめんね」
その声は、誰に向けられたものでもないようで、すべての人に向けられているようでもあった。
「忘れていて、ごめん」
幼い澪は、目だけを動かして彼女を見た。
「忘れていたかったんだと思う」
澪は続けた。
「覚えていたら、生きていけなかったから。でも、忘れたせいで、あなたをずっと一人にした」
幼い澪の目から、涙が一筋こぼれた。
澪はベッドに手を伸ばした。
その瞬間、赤い月が大きく脈打った。
白衣の大人たちが、こちらを振り向いた。
彼らの顔は、もう人間のものではなかった。目も鼻も口も曖昧になり、代わりに赤い穴が開いていた。彼らは同時に言った。
「触れるな」
澪の手が止まる。
「その子が持たなければ、みんなが壊れる」
「その子が眠れば、みんなが眠れる」
「その子が死ねば、みんなが目覚める」
声が増える。
白衣の大人たちだけではない。町の人々の中からも声が上がった。
「うちの子を返して」
「妻を起こしてくれ」
「母さんを助けて」
「誰かが終わらせて」
「その子ならできるんでしょう」
澪の肩が震えた。
僕は彼女の隣に立った。
「澪」
初めて、名前を呼んだ。
彼女は驚いたように僕を見た。
僕自身も、少し驚いていた。
けれど、この夢の中で彼女を篠宮さんと呼ぶのは違う気がした。ここにいるのは、クラスメイトの篠宮澪ではない。十年前からずっと悪夢の中心に置かれ続けた、一人の少女だった。
「触れよう」
僕は言った。
「一人でじゃない」
黒瀬が反対側に立つ。
「俺もいる」
水無瀬も、ゆっくり前へ出た。
「僕も」
澪は三人を見た。
そして、泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう」
四人で、幼い澪に手を伸ばした。
赤い月が悲鳴を上げた。
白い部屋が歪む。
ベッドが沈む。
床から黒い水が噴き出す。
水の中から、無数の手が現れた。十年前の子どもたちの手。町の人々の手。死者の手。眠る者の手。彼らは僕たちを止めようとしているのか、助けを求めているのか、わからなかった。
その中に、間宮の顔があった。
屋上から落ちたはずの彼は、黒い水の中で笑っていた。
「月代」
間宮が言った。
「やっぱり、お前が来たな」
「間宮」
「俺、怖かったんだよ」
その声は、夢の廊下で聞いた軽い声ではなかった。
本物だった。
「落ちる瞬間、お前の顔が見えた。でも、お前じゃなかった。お前の顔をした何かが、俺を押してた」
「ごめん」
「謝るなって」
間宮は少しだけ笑った。
「でも、助けてほしかった」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
夢の底で、死者は嘘をつく。
水無瀬はそう言った。
けれど、今の間宮の言葉は嘘ではなかった。少なくとも、死の直前の光景から滲み出た本当だった。
白鳥玲奈もいた。
彼女はノートを抱え、黒い水の上に立っていた。
「私、みんなを守りたかった」
「わかってる」
澪が言った。
「でも、名前を書いたら、もっと怖くなった。誰かを助けるつもりで、誰かを差し出してた」
白鳥の声は震えていた。
「怖いって言えばよかった」
澪は頷いた。
「うん」
白鳥は、澪を見た。
「篠宮さん。ごめん」
澪は首を振った。
「私も、怖かった」
その一言で、白鳥の姿が少しだけ薄くなった。
消えるのではない。
赤い月の支配から、少しだけ離れたように見えた。
次に、知らない少女が現れた。
貯水施設で死んだ女子生徒だった。
髪が水に濡れ、手首には僕の指の形をした痣がある。
僕は彼女を見て、息が止まった。
「僕が」
「違う」
少女は言った。
「あなたの手だった。でも、あなたじゃなかった」
それは救いにはならなかった。
僕の手だったことは変わらない。
少女は続けた。
「でも、本当は私も、誰かの名前を書いた」
彼女の足元に、濡れた紙が浮かんでいた。
《夢を見た子がいる》
《あの子が怪しい》
《あの子を連れて行って》
少女は泣いていた。
「怖かった。だから、先に誰かを出せば、自分は助かると思った」
黒瀬が顔を伏せた。
彼も同じだったからだ。
怖いと、人間は誰かを差し出そうとする。
その怖さを責めるだけでは、きっと何も終わらない。
澪は、幼い自分の手を握った。
僕も、その上から手を重ねた。
黒瀬と水無瀬も続く。
幼い澪の小さな指が、震えながらこちらを握り返した。
白い部屋の壁が割れた。
そこから、別の光景が流れ込んでくる。
市役所の会議室。
十年前の関係者たちが、施設事故の報告書を前に沈黙している。死者数、被験者名、研究データ、責任者の署名。誰かが言う。
「公表すれば町が終わる」
別の誰かが言う。
「子どもたちには記憶処理を」
「家族には医療事故として説明を」
「施設は閉鎖。資料は廃棄」
「これ以上、被害を広げないためだ」
これ以上、被害を広げないため。
また、正しそうな言葉だった。
その言葉で、澪は忘れさせられた。
死んだ子どもたちは、記録から消された。
町は、何もなかった顔で生活を続けた。
そして十年後、同じ言葉が戻ってきた。
みんなのため。
守るため。
保護するため。
危険な人を見つけるため。
赤い月は、人間が都合よく使ってきた言葉を覚えていた。
だから、同じ形で返してきたのだ。
光景は、さらに広がった。
眠っている町の人々の意識に、十年前の記憶が流れ込んでいくのがわかった。市民センターで横たわる母の夢にも。家で眠る子どもの夢にも。病院の白鳥の夢にも。市役所の職員の夢にも。澪の母親の夢にも。
澪の母親が見えた。
彼女は自宅のリビングで眠っていた。夢の中で、幼い澪を抱いて泣いている。十年前、娘が何をされていたのかを、今初めて知ったのだろう。彼女は何度も「ごめん」と言っていた。
澪はそれを見て、唇を噛んだ。
「お母さんも、知らなかったんだ」
朝霧の父も見えた。
彼は研究施設の廊下に立っていた。現実ではもう亡くなっているのかもしれない。夢の中の彼は、若い姿と老いた姿が重なって見えた。
朝霧医師本人も、どこかでこの夢を見ているのだろう。
父の姿の前で、ただ立ち尽くしていた。
父が言う。
「私は、救いたかった」
朝霧が答える。
「それで、誰を見なかった」
父は黙った。
その沈黙が、白い部屋に響いた。
赤い月が、ひび割れ始めた。
いや、月そのものが割れているのではない。
赤い色が、剥がれている。
月の表面から、血のような赤が薄い膜となって剥がれ、黒い水の上へ落ちていく。その下から現れたのは、普通の月の白だった。
だが赤い月は、最後の抵抗をした。
教室の黒板が再び現れる。
白い文字が浮かぶ。
《誰か一人を殺せば、痛みは終わる》
次に、赤い文字。
《誰も殺さなければ、痛みは全員に戻る》
町の人々がざわめいた。
眠っている人々の不安が、夢の中に波のように広がる。
痛みを返される。
忘れていた罪を見せられる。
なかったことにしてきた恐怖を、自分で持たなければならない。
それは、誰か一人を殺すよりも怖いのかもしれなかった。
澪は黒板を見つめていた。
幼い自分の手を握ったまま。
「痛いのは、嫌だよ」
彼女は言った。
その言葉に、町のざわめきが少し静まった。
「私も嫌だった。怖かった。十年前も、今も。誰かのために苦しめるほど、私は強くなかった」
澪の声は、夢の町全体に響いていた。
「でも、誰か一人に渡した痛みは、消えない。見えないところに置いただけで、ずっと残る。赤い月みたいに、いつか戻ってくる」
僕は澪の横顔を見た。
彼女は震えていた。
それでも、言葉を止めなかった。
「だから、返します。私が持たされていたものを、返します。憎むためじゃない。責めるためでもない。みんなが、自分の分を持つために」
赤い月の光が弱まる。
黒瀬が、一歩前へ出た。
「俺は怖かった」
彼の声も、夢の中に広がった。
「怖くて、友達を売りかけた。いや、売った。保護してほしいって言えば聞こえはいいけど、本当は自分が安心したかった。俺だけじゃない。たぶん、みんなそうだ。でも、それをなかったことにしたら、また誰かを売る」
水無瀬が続いた。
「僕は前の町で黙った。誰かが犠牲になるのを止めなかった。生き残ったけど、ずっと夢の中にいた。今度は黙らない」
そして、僕は月を見た。
「僕は殺す夢を見た」
声が震えた。
それでも言った。
「間宮を突き落とした。誰かを水に沈めた。澪の首を絞めた。僕の意思じゃないと言えば、少しは楽になる。でも、手の感触は残っている。だから僕は、これからも覚えている。夢の中で誰かを殺したことを」
間宮が、黒い水の向こうで小さく笑った。
悲しそうで、少しだけ安心したような顔だった。
「でも」
僕は澪の手を握り直した。
「僕は、澪を殺さない。澪を殺せば終わるという夢を殺す」
赤い月が、大きく揺れた。
黒板の文字が砕ける。
白い部屋が崩れる。
市役所の会議室も、研究施設も、夢の教室も、すべてが黒い水に溶けていく。
残ったのは、月だけだった。
赤い月。
それは、空の高いところから僕たちを見下ろしていた。
声がした。
「誰も殺さないなら、誰が終わらせる」
僕は答えた。
「終わらせない」
澪が僕を見る。
僕は続けた。
「消して忘れるんじゃない。終わったことにしない。覚えたまま、朝を迎える」
水無瀬が頷いた。
「赤い月を消せば、また別の場所に移る」
黒瀬が言った。
「だったら、ここで見てやる」
澪が幼い自分を抱きしめた。
「もう、隠れなくていい」
その瞬間、赤い月の中心に亀裂が入った。
中から、白い光が漏れる。
赤い色が、夜空に散った。
それは血ではなく、長いあいだ空に貼りついていた薄い紙のようだった。剥がれて、風に散って、黒い水の上に落ちる。水は赤を吸い込み、少しずつ透明になっていった。
月が白く戻る。
完全な白ではなかった。
ところどころに赤い痕が残っている。
傷痕のように。
それでいいのだと思った。
傷があったことを忘れる必要はない。
僕たちは、忘れたせいでここまで来たのだから。
遠くで、誰かが息を吸う音がした。
一人ではない。
町中で、人々が息を吸っている。
眠りの底から浮かび上がるように。
僕は母の声を聞いた気がした。
悠真。
白鳥の声も。
怖かった。
間宮の声も。
助けてほしかった。
幼い澪が、今の澪の腕の中で顔を上げた。
「もう、眠っていい?」
澪は涙を流しながら笑った。
「うん」
「一人じゃない?」
「一人じゃない」
幼い澪は目を閉じた。
その体が、赤い光ではなく、白い光になって澪の中へ溶けていく。
澪が膝をついた。
僕は彼女を支えた。
黒瀬と水無瀬も、同じように崩れ落ちる。
世界が遠ざかる。
白い月が、遠い天井のように見える。
最後に、間宮の声がした。
「月代」
僕は顔を上げた。
間宮は屋上のフェンスの向こうに立っていた。
今にも落ちそうな場所ではなく、向こう側の光の中にいるように見えた。
「今度は押すなよ」
いつもの冗談みたいな声だった。
僕は泣きながら笑った。
「押さない」
「ならいい」
間宮は背を向けた。
その姿が、白い月の光に溶けていく。
僕は手を伸ばさなかった。
見送った。
今度は、見ないふりをしなかった。
目が覚めた。
市民センターの大ホールだった。
天井の蛍光灯が眩しい。
発電機の音が聞こえる。誰かが泣いている。誰かが名前を呼んでいる。警告音は止まっていた。
僕はゆっくり体を起こした。
右手には澪の手があった。
左手には黒瀬の手。
紐はまだ繋がっている。
澪は目を閉じていた。
僕は息を止めた。
「澪」
名前を呼ぶ。
彼女の睫毛が震えた。
ゆっくり、目が開く。
黒い瞳が、僕を見た。
「朝?」
彼女は掠れた声で言った。
僕はホールの窓を見た。
遮光カーテンの隙間から、青白い光が入っている。
夜が明けていた。
「朝だ」
そう答えた瞬間、澪の目から涙がこぼれた。
彼女は声を出さずに泣いた。
僕も泣いていたかもしれない。
黒瀬が隣で呻いた。
「……生きてる?」
「生きてる」
僕が答えると、彼は目を開けた。
「最悪の寝起きだな」
「いつもより顔色いいぞ」
「嘘つけ」
水無瀬も体を起こした。
彼はしばらく自分の手を見ていた。
「戻れた」
その声は、信じられないものを確認するようだった。
ホールのあちこちで、人々が目を覚まし始めていた。
泣きながら抱き合う親子。呆然と天井を見る老人。自分の手首のバンドを外そうとして、途中でやめる市の職員。朝霧医師は中央のモニターの前で立ち尽くしていた。
彼の背後には、目を覚ました人々のデータが次々に表示されている。
接続率、低下。
覚醒反応、回復。
赤色月光反応、消失。
朝霧は振り返り、僕たちを見た。
何か言おうとして、言えなかった。
その目には涙が浮かんでいた。
僕は母を探した。
入口近くのベッド。
母はそこにいた。
目を開けていた。
「悠真」
その声を聞いた瞬間、僕は走っていた。
母は上半身を起こし、僕を抱きしめた。力は弱かったが、確かに温かかった。僕は子どもみたいに母の肩に顔を押しつけた。
「ごめん」
何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。
母は僕の背中を叩いた。
「帰ってきたなら、いい」
その言葉で、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ溶けた。
澪の母親も、市民センターに来ていた。
彼女は人混みをかき分けるようにして澪のもとへ向かった。澪は一瞬、身を固くした。だが、母親は何も言わずに彼女を抱きしめた。
「ごめん」
澪の母親は泣いていた。
「知らなかった。知らなかったの。ごめんね、澪」
澪はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくり母親の背中に手を回した。
許したのかどうかはわからない。
そんな簡単なことではないのだろう。
けれど、二人は同じ場所で泣いていた。
それだけで、十年前よりはましなのだと思った。
その日の午後、町は赤い月についての公式発表を行った。
もちろん、すべてが一度に語られたわけではない。市は最初、赤色月光現象に伴う大規模睡眠障害という表現を使った。研究施設の件については、調査委員会を設置する、とだけ発表した。
だが、人々はもう知っていた。
夢の中で見たからだ。
忘れられた子どもたち。
白い部屋。
媒体にされた少女。
隠蔽された記録。
誰か一人に恐怖を押しつければ、全員が助かるという嘘。
それを、町は見た。
見てしまった。
だから、なかったことには戻れない。
情報提供箱は、すべて撤去された。
睡眠報告票は廃止された。
睡眠管理バンドは回収されたが、すぐに捨てられたわけではない。調査資料として残された。誰かを管理するためではなく、何が起きたのかを忘れないために。
白鳥玲奈は三日後に目を覚ました。
病室で会ったとき、彼女はやつれていたが、意識ははっきりしていた。僕と澪が見舞いに行くと、白鳥は最初に頭を下げた。
「ごめんなさい」
澪は椅子に座り、少し考えてから言った。
「私も、まだ怖い」
白鳥は顔を上げた。
「うん」
「だから、すぐには普通に話せないかもしれない」
「うん」
「でも、箱はもういらない」
白鳥は泣きそうな顔で頷いた。
「うん」
それ以上の言葉はなかった。
でも、その沈黙は悪くなかった。
間宮の葬儀は、町の調査が進む中で改めて行われた。
僕は黒瀬と一緒に参列した。
遺影の中の間宮は、いつものように少しふざけた顔で笑っていた。僕は焼香の前で、長く手を合わせた。
謝罪だけでは足りない。
忘れないという言葉も、軽すぎる。
だから、何も言わなかった。
ただ、あの夢の屋上で間宮を見送ったときと同じように、目を逸らさなかった。
黒瀬は帰り道で言った。
「俺、怖いって言う練習するわ」
「何だよ、それ」
「怖いときに、平気なふりするとろくなことしないってわかったから」
「確かに」
「お前もな」
黒瀬が僕を見る。
「何でも一人で抱えた顔すんな。あれ、見てる方も怖い」
「努力する」
「努力じゃなくて、報告」
「密告箱は撤去されたぞ」
「俺に報告しろって意味だよ」
黒瀬はそう言って、少し笑った。
僕も笑った。
笑えることに驚いた。
水無瀬朔は、しばらく町に残った。
真瀬町のことを調べ直すと言っていた。赤い月がなぜ町から町へ移ったのか、まだわからないことは多い。朝霧医師も、それに協力すると言った。
ある日、水無瀬は僕に言った。
「前の町で置いてきた子の夢を、少し見た」
「どんな夢」
「怒ってた」
「そりゃそうだろ」
「うん」
水無瀬は少しだけ笑った。
「でも、最後に、次はちゃんと言えって言われた」
「何を」
「死ぬなって」
その言葉のあと、彼は空を見た。
昼の月が薄く浮かんでいた。
白い月だった。
それから数週間が過ぎた。
町は、完全には元に戻らなかった。
当然だ。
眠って見たことを、誰も完全には忘れられない。十年前の研究施設跡には調査が入った。市の関係者の名前が少しずつ明らかになり、町では説明会が開かれた。怒号もあった。涙もあった。沈黙もあった。
誰もが被害者だったわけではない。
誰もが加害者だったわけでもない。
だが、誰も完全に無関係ではいられなかった。
それを認めるところから、町はやり直すしかなかった。
僕たちの学校も、少しずつ変わった。
間宮の席はしばらく空いたままだった。
白鳥は復学したが、委員長を辞めた。代わりに、教室の後ろに小さな箱を置いた。情報提供箱ではない。
《言えないことを書く箱》
白鳥がそう名づけた。
誰かを報告するためではなく、自分の怖さを書くための箱。中身は本人の許可なく読まない。必要なら、保健室へ一緒に持って行く。
最初、みんな笑った。
でも、何枚か紙が入った。
僕も一枚入れた。
《眠るのがまだ怖い》
翌日、箱の横に別の紙が貼られていた。
《私も》
誰が書いたのかはわからない。
わからなくてよかった。
赤い月は、それ以来出ていない。
ただ、僕は時々、夢を見るようになった。
死者の夢だった。
間宮が屋上でくだらない話をしている夢。白鳥がノートを閉じる夢。知らない子どもたちが白い部屋から出ていく夢。貯水施設の少女が、水面から顔を上げて空を見る夢。
目覚めると、胸が重い。
けれど、以前のように手を洗い続けることはなくなった。
感触は消えない。
消さないことにした。
その日、放課後の屋上で、僕と澪は月を見ていた。
屋上はしばらく立入禁止になっていたが、調査が終わり、フェンスも新しくなった。間宮が落ちた場所には、もう何も残っていない。何も残っていないからこそ、そこに何があったかを覚えていなければならない。
夕方の空に、月が薄く浮かんでいる。
白い月だった。
澪はフェンスにもたれ、風に髪を揺らしていた。
「また、私を殺す夢を見た?」
不意に、彼女が聞いた。
僕は少し迷った。
嘘をつくこともできた。
でも、もうそれはやめた。
「見たよ」
澪の指が、フェンスを握った。
「そっか」
「でも、前と違った」
「どう違ったの?」
僕は月を見上げた。
「夢の中で、僕はまた君の首に手を伸ばしてた。赤い月も出てた。教室もあって、黒板にも名前が書いてあった」
「うん」
「でも、僕が止まる前に、君が僕の手を叩いた」
澪がこちらを見る。
「私が?」
「かなり強めに」
澪は少しだけ笑った。
「夢の中の私、遠慮ないね」
「それで言ったんだ。殺したいなら順番待ちして、私はまだ生きる予定があるからって」
澪は今度こそ笑った。
その笑い声は、風に混じって屋上に広がった。
僕は、その声を聞いてようやく朝が来たのだと思った。
長い夜のあとではなく、もっと深い場所から戻ってきた朝だった。
「それで、夢の中の僕はどうしたの」
澪が聞いた。
「謝った」
「月代くんらしい」
「それから、君が僕の手を引っ張ってくれた」
「どこへ?」
「赤い月のない方へ」
澪はしばらく黙っていた。
それから、フェンスから離れ、僕の隣に立った。
「じゃあ、次は私の番だね」
「何の?」
「月代くんが夢の中で迷ったら、引っ張る番」
澪は僕の右手を取った。
夢の中で何度も人を殺した手。
間宮を突き落とし、少女を水に沈め、澪の首に触れた手。
その手を、彼女は普通に握った。
特別な儀式のようではなく、放課後に友達と並んで歩き出すときのように。
「眠るの、まだ怖い?」
澪が聞いた。
「怖い」
「私も」
「でも」
「でも?」
「一人で眠るよりは、ましだと思う」
澪は頷いた。
「うん」
白い月が、夕暮れの空に浮かんでいる。
赤い色はもうない。
けれど、僕にはわかっていた。
あの赤は、完全に消えたわけではない。
町のどこかに、僕たちの中に、眠りの底に、薄い傷痕として残っている。いつかまた、誰かが誰か一人に恐怖を押しつけようとしたとき、その傷は疼くかもしれない。
そのときは、見ないふりをしない。
怖いと言う。
差し出すなと言う。
誰か一人を殺せば終わるという夢を、何度でも拒む。
澪の手が、僕の手を少し強く握った。
僕も握り返した。
赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。
けれど朝が来たとき、君はまだ隣で生きていた。
了
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、「誰か一人を犠牲にすれば、みんなが助かる」という、一見すると正しそうで、けれどとても残酷な考え方への抵抗として書きました。
赤い月、夢、密告箱、睡眠検疫。
どれも現実にはありえないものかもしれません。
けれど、怖いときに誰かを疑ってしまうこと。
みんなのため、という言葉で誰か一人に重荷を背負わせてしまうこと。
見たくないものを、なかったことにしてしまうこと。
そういうものは、私たちのすぐ近くにもあるのではないかと思っています。
悠真は、夢の中で何度も誰かを殺しました。
澪は、何度も殺される夢を見ました。
それでも二人は、最後に「誰か一人を差し出して終わらせる」ことを選びませんでした。
怖いものを消すのではなく、忘れるのでもなく、ちゃんと見て、持ち帰って、それでも朝を迎える。
この物語が、少しでも心に残るものになっていたら嬉しいです。
よろしければ、読後の感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると、とても励みになります。
ひと言だけでも、スタンプだけでも、本当に力になります。
ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝します。
ありがとうございました。




