↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。 ――夢で殺された人間は、翌朝ほんとうに死んでいる  作者: アコンプリスの人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/16

第七章 赤い月の夜に、君を殺す夢を見た

 赤い光が、すべてを白く塗りつぶした。

 最初に戻ったのは、音だった。

 泣き声が聞こえた。

 一人ではない。何人もの子どもが泣いている。声は壁に吸い込まれ、天井に反響し、また別の泣き声と重なった。そこは学校ではなかった。市民センターでもなかった。十年前の研究施設だった。

 白い部屋。

 白いベッド。

 白い検査服。

 白い蛍光灯。

 何もかもが清潔に見えるのに、その部屋には拭き取れない汚れがあった。目には見えない。けれど、そこにいる全員が知っている。誰かの恐怖を、別の誰かへ移すという汚れだ。

 幼い澪がベッドに横たわっている。

 頭には電極が貼られ、腕には細いコードがつながれていた。周囲のベッドには、他の子どもたちがいる。泣いている子。唇を噛んでいる子。目を閉じたまま震えている子。大人たちは白衣姿で、モニターの数字を見ていた。

 その中に、朝霧医師によく似た男がいた。

 朝霧の父なのだろう。

 男は若かった。今の朝霧より少し年上くらいに見える。表情は真剣だった。悪魔の顔ではない。むしろ、患者を救おうとする医師の顔に近かった。

 だからこそ、怖かった。

「媒体への集中率が上がっています」

 白衣の一人が言った。

「他の被験者の恐怖反応は低下。睡眠波形も安定しています」

「続けて」

 朝霧の父らしき男が言った。

「この子には負荷が大きすぎます」

「中断すれば、全員の悪夢が再発する」

「ですが」

「もう少しだ」

 その言葉が、部屋の空気を決めた。

 もう少し。

 あと少し。

 これを越えれば救える。

 そういう言葉が、人を一番遠くまで連れて行く。正しさの服を着た残酷さは、裸の悪意よりも長く歩ける。

 幼い澪の目が開いた。

 彼女は泣いていなかった。

 泣く力も残っていないようだった。

「もう、いや」

 小さな声だった。

 誰も振り向かなかった。

 モニターの数字が跳ねる。

 赤い円形のマークが、壁に映し出される。プロジェクターの光ではない。部屋そのものの奥から染み出したような赤だった。

 幼い澪の体が弓なりに反った。

 他の子どもたちが一斉に眠りに落ちる。

 泣き声が止む。

 部屋は静かになった。

 大人たちは、それを成功と呼んだ。

 ただ一人、幼い澪だけが、目を開けたまま眠っていた。

 白い天井を見つめ、声にならない声で助けを呼んでいた。

 僕は、その光景を見ていた。

 澪も見ていた。

 黒瀬も、水無瀬も。

 そして、町の人々も見ていた。

 市民センターで眠っている母も。病院で眠っている白鳥も。意識の底に沈んでいる榊先生も。死んだ間宮も。貯水施設で死んだ女子生徒も。十年前、ここで夢を分け合わされた子どもたちも。

 全員が、その部屋に立っていた。

 誰も、声を出せなかった。

 赤い月は、彼らの頭上にあった。

 研究施設の天井を突き破り、白い部屋を赤く照らしている。月というより、開いた傷口だった。十年前に閉じたことにされた傷が、ようやく膿を流し始めている。

 澪が、一歩前へ出た。

 幼い自分のベッドへ近づく。

 彼女の足取りは揺れていた。だが、止まらなかった。

 ベッドの横に立つと、澪は幼い自分を見下ろした。

「ごめんね」

 その声は、誰に向けられたものでもないようで、すべての人に向けられているようでもあった。

「忘れていて、ごめん」

 幼い澪は、目だけを動かして彼女を見た。

「忘れていたかったんだと思う」

 澪は続けた。

「覚えていたら、生きていけなかったから。でも、忘れたせいで、あなたをずっと一人にした」

 幼い澪の目から、涙が一筋こぼれた。

 澪はベッドに手を伸ばした。

 その瞬間、赤い月が大きく脈打った。

 白衣の大人たちが、こちらを振り向いた。

 彼らの顔は、もう人間のものではなかった。目も鼻も口も曖昧になり、代わりに赤い穴が開いていた。彼らは同時に言った。

「触れるな」

 澪の手が止まる。

「その子が持たなければ、みんなが壊れる」

「その子が眠れば、みんなが眠れる」

「その子が死ねば、みんなが目覚める」

 声が増える。

 白衣の大人たちだけではない。町の人々の中からも声が上がった。

「うちの子を返して」

「妻を起こしてくれ」

「母さんを助けて」

「誰かが終わらせて」

「その子ならできるんでしょう」

 澪の肩が震えた。

 僕は彼女の隣に立った。

「澪」

 初めて、名前を呼んだ。

 彼女は驚いたように僕を見た。

 僕自身も、少し驚いていた。

 けれど、この夢の中で彼女を篠宮さんと呼ぶのは違う気がした。ここにいるのは、クラスメイトの篠宮澪ではない。十年前からずっと悪夢の中心に置かれ続けた、一人の少女だった。

「触れよう」

 僕は言った。

「一人でじゃない」

 黒瀬が反対側に立つ。

「俺もいる」

 水無瀬も、ゆっくり前へ出た。

「僕も」

 澪は三人を見た。

 そして、泣きそうな顔で笑った。

「ありがとう」

 四人で、幼い澪に手を伸ばした。

 赤い月が悲鳴を上げた。

 白い部屋が歪む。

 ベッドが沈む。

 床から黒い水が噴き出す。

 水の中から、無数の手が現れた。十年前の子どもたちの手。町の人々の手。死者の手。眠る者の手。彼らは僕たちを止めようとしているのか、助けを求めているのか、わからなかった。

 その中に、間宮の顔があった。

 屋上から落ちたはずの彼は、黒い水の中で笑っていた。

「月代」

 間宮が言った。

「やっぱり、お前が来たな」

「間宮」

「俺、怖かったんだよ」

 その声は、夢の廊下で聞いた軽い声ではなかった。

 本物だった。

「落ちる瞬間、お前の顔が見えた。でも、お前じゃなかった。お前の顔をした何かが、俺を押してた」

「ごめん」

「謝るなって」

 間宮は少しだけ笑った。

「でも、助けてほしかった」

 その言葉が、胸の奥に刺さった。

 夢の底で、死者は嘘をつく。

 水無瀬はそう言った。

 けれど、今の間宮の言葉は嘘ではなかった。少なくとも、死の直前の光景から滲み出た本当だった。

 白鳥玲奈もいた。

 彼女はノートを抱え、黒い水の上に立っていた。

「私、みんなを守りたかった」

「わかってる」

 澪が言った。

「でも、名前を書いたら、もっと怖くなった。誰かを助けるつもりで、誰かを差し出してた」

 白鳥の声は震えていた。

「怖いって言えばよかった」

 澪は頷いた。

「うん」

 白鳥は、澪を見た。

「篠宮さん。ごめん」

 澪は首を振った。

「私も、怖かった」

 その一言で、白鳥の姿が少しだけ薄くなった。

 消えるのではない。

 赤い月の支配から、少しだけ離れたように見えた。

 次に、知らない少女が現れた。

 貯水施設で死んだ女子生徒だった。

 髪が水に濡れ、手首には僕の指の形をした痣がある。

 僕は彼女を見て、息が止まった。

「僕が」

「違う」

 少女は言った。

「あなたの手だった。でも、あなたじゃなかった」

 それは救いにはならなかった。

 僕の手だったことは変わらない。

 少女は続けた。

「でも、本当は私も、誰かの名前を書いた」

 彼女の足元に、濡れた紙が浮かんでいた。

《夢を見た子がいる》

《あの子が怪しい》

《あの子を連れて行って》

 少女は泣いていた。

「怖かった。だから、先に誰かを出せば、自分は助かると思った」

 黒瀬が顔を伏せた。

 彼も同じだったからだ。

 怖いと、人間は誰かを差し出そうとする。

 その怖さを責めるだけでは、きっと何も終わらない。

 澪は、幼い自分の手を握った。

 僕も、その上から手を重ねた。

 黒瀬と水無瀬も続く。

 幼い澪の小さな指が、震えながらこちらを握り返した。

 白い部屋の壁が割れた。

 そこから、別の光景が流れ込んでくる。

 市役所の会議室。

 十年前の関係者たちが、施設事故の報告書を前に沈黙している。死者数、被験者名、研究データ、責任者の署名。誰かが言う。

「公表すれば町が終わる」

 別の誰かが言う。

「子どもたちには記憶処理を」

「家族には医療事故として説明を」

「施設は閉鎖。資料は廃棄」

「これ以上、被害を広げないためだ」

 これ以上、被害を広げないため。

 また、正しそうな言葉だった。

 その言葉で、澪は忘れさせられた。

 死んだ子どもたちは、記録から消された。

 町は、何もなかった顔で生活を続けた。

 そして十年後、同じ言葉が戻ってきた。

 みんなのため。

 守るため。

 保護するため。

 危険な人を見つけるため。

 赤い月は、人間が都合よく使ってきた言葉を覚えていた。

 だから、同じ形で返してきたのだ。

 光景は、さらに広がった。

 眠っている町の人々の意識に、十年前の記憶が流れ込んでいくのがわかった。市民センターで横たわる母の夢にも。家で眠る子どもの夢にも。病院の白鳥の夢にも。市役所の職員の夢にも。澪の母親の夢にも。

 澪の母親が見えた。

 彼女は自宅のリビングで眠っていた。夢の中で、幼い澪を抱いて泣いている。十年前、娘が何をされていたのかを、今初めて知ったのだろう。彼女は何度も「ごめん」と言っていた。

 澪はそれを見て、唇を噛んだ。

「お母さんも、知らなかったんだ」

 朝霧の父も見えた。

 彼は研究施設の廊下に立っていた。現実ではもう亡くなっているのかもしれない。夢の中の彼は、若い姿と老いた姿が重なって見えた。

 朝霧医師本人も、どこかでこの夢を見ているのだろう。

 父の姿の前で、ただ立ち尽くしていた。

 父が言う。

「私は、救いたかった」

 朝霧が答える。

「それで、誰を見なかった」

 父は黙った。

 その沈黙が、白い部屋に響いた。

 赤い月が、ひび割れ始めた。

 いや、月そのものが割れているのではない。

 赤い色が、剥がれている。

 月の表面から、血のような赤が薄い膜となって剥がれ、黒い水の上へ落ちていく。その下から現れたのは、普通の月の白だった。

 だが赤い月は、最後の抵抗をした。

 教室の黒板が再び現れる。

 白い文字が浮かぶ。

《誰か一人を殺せば、痛みは終わる》

 次に、赤い文字。

《誰も殺さなければ、痛みは全員に戻る》

 町の人々がざわめいた。

 眠っている人々の不安が、夢の中に波のように広がる。

 痛みを返される。

 忘れていた罪を見せられる。

 なかったことにしてきた恐怖を、自分で持たなければならない。

 それは、誰か一人を殺すよりも怖いのかもしれなかった。

 澪は黒板を見つめていた。

 幼い自分の手を握ったまま。

「痛いのは、嫌だよ」

 彼女は言った。

 その言葉に、町のざわめきが少し静まった。

「私も嫌だった。怖かった。十年前も、今も。誰かのために苦しめるほど、私は強くなかった」

 澪の声は、夢の町全体に響いていた。

「でも、誰か一人に渡した痛みは、消えない。見えないところに置いただけで、ずっと残る。赤い月みたいに、いつか戻ってくる」

 僕は澪の横顔を見た。

 彼女は震えていた。

 それでも、言葉を止めなかった。

「だから、返します。私が持たされていたものを、返します。憎むためじゃない。責めるためでもない。みんなが、自分の分を持つために」

 赤い月の光が弱まる。

 黒瀬が、一歩前へ出た。

「俺は怖かった」

 彼の声も、夢の中に広がった。

「怖くて、友達を売りかけた。いや、売った。保護してほしいって言えば聞こえはいいけど、本当は自分が安心したかった。俺だけじゃない。たぶん、みんなそうだ。でも、それをなかったことにしたら、また誰かを売る」

 水無瀬が続いた。

「僕は前の町で黙った。誰かが犠牲になるのを止めなかった。生き残ったけど、ずっと夢の中にいた。今度は黙らない」

 そして、僕は月を見た。

「僕は殺す夢を見た」

 声が震えた。

 それでも言った。

「間宮を突き落とした。誰かを水に沈めた。澪の首を絞めた。僕の意思じゃないと言えば、少しは楽になる。でも、手の感触は残っている。だから僕は、これからも覚えている。夢の中で誰かを殺したことを」

 間宮が、黒い水の向こうで小さく笑った。

 悲しそうで、少しだけ安心したような顔だった。

「でも」

 僕は澪の手を握り直した。

「僕は、澪を殺さない。澪を殺せば終わるという夢を殺す」

 赤い月が、大きく揺れた。

 黒板の文字が砕ける。

 白い部屋が崩れる。

 市役所の会議室も、研究施設も、夢の教室も、すべてが黒い水に溶けていく。

 残ったのは、月だけだった。

 赤い月。

 それは、空の高いところから僕たちを見下ろしていた。

 声がした。

「誰も殺さないなら、誰が終わらせる」

 僕は答えた。

「終わらせない」

 澪が僕を見る。

 僕は続けた。

「消して忘れるんじゃない。終わったことにしない。覚えたまま、朝を迎える」

 水無瀬が頷いた。

「赤い月を消せば、また別の場所に移る」

 黒瀬が言った。

「だったら、ここで見てやる」

 澪が幼い自分を抱きしめた。

「もう、隠れなくていい」

 その瞬間、赤い月の中心に亀裂が入った。

 中から、白い光が漏れる。

 赤い色が、夜空に散った。

 それは血ではなく、長いあいだ空に貼りついていた薄い紙のようだった。剥がれて、風に散って、黒い水の上に落ちる。水は赤を吸い込み、少しずつ透明になっていった。

 月が白く戻る。

 完全な白ではなかった。

 ところどころに赤い痕が残っている。

 傷痕のように。

 それでいいのだと思った。

 傷があったことを忘れる必要はない。

 僕たちは、忘れたせいでここまで来たのだから。

 遠くで、誰かが息を吸う音がした。

 一人ではない。

 町中で、人々が息を吸っている。

 眠りの底から浮かび上がるように。

 僕は母の声を聞いた気がした。

 悠真。

 白鳥の声も。

 怖かった。

 間宮の声も。

 助けてほしかった。

 幼い澪が、今の澪の腕の中で顔を上げた。

「もう、眠っていい?」

 澪は涙を流しながら笑った。

「うん」

「一人じゃない?」

「一人じゃない」

 幼い澪は目を閉じた。

 その体が、赤い光ではなく、白い光になって澪の中へ溶けていく。

 澪が膝をついた。

 僕は彼女を支えた。

 黒瀬と水無瀬も、同じように崩れ落ちる。

 世界が遠ざかる。

 白い月が、遠い天井のように見える。

 最後に、間宮の声がした。

「月代」

 僕は顔を上げた。

 間宮は屋上のフェンスの向こうに立っていた。

 今にも落ちそうな場所ではなく、向こう側の光の中にいるように見えた。

「今度は押すなよ」

 いつもの冗談みたいな声だった。

 僕は泣きながら笑った。

「押さない」

「ならいい」

 間宮は背を向けた。

 その姿が、白い月の光に溶けていく。

 僕は手を伸ばさなかった。

 見送った。

 今度は、見ないふりをしなかった。

 目が覚めた。

 市民センターの大ホールだった。

 天井の蛍光灯が眩しい。

 発電機の音が聞こえる。誰かが泣いている。誰かが名前を呼んでいる。警告音は止まっていた。

 僕はゆっくり体を起こした。

 右手には澪の手があった。

 左手には黒瀬の手。

 紐はまだ繋がっている。

 澪は目を閉じていた。

 僕は息を止めた。

「澪」

 名前を呼ぶ。

 彼女の睫毛が震えた。

 ゆっくり、目が開く。

 黒い瞳が、僕を見た。

「朝?」

 彼女は掠れた声で言った。

 僕はホールの窓を見た。

 遮光カーテンの隙間から、青白い光が入っている。

 夜が明けていた。

「朝だ」

 そう答えた瞬間、澪の目から涙がこぼれた。

 彼女は声を出さずに泣いた。

 僕も泣いていたかもしれない。

 黒瀬が隣で呻いた。

「……生きてる?」

「生きてる」

 僕が答えると、彼は目を開けた。

「最悪の寝起きだな」

「いつもより顔色いいぞ」

「嘘つけ」

 水無瀬も体を起こした。

 彼はしばらく自分の手を見ていた。

「戻れた」

 その声は、信じられないものを確認するようだった。

 ホールのあちこちで、人々が目を覚まし始めていた。

 泣きながら抱き合う親子。呆然と天井を見る老人。自分の手首のバンドを外そうとして、途中でやめる市の職員。朝霧医師は中央のモニターの前で立ち尽くしていた。

 彼の背後には、目を覚ました人々のデータが次々に表示されている。

 接続率、低下。

 覚醒反応、回復。

 赤色月光反応、消失。

 朝霧は振り返り、僕たちを見た。

 何か言おうとして、言えなかった。

 その目には涙が浮かんでいた。

 僕は母を探した。

 入口近くのベッド。

 母はそこにいた。

 目を開けていた。

「悠真」

 その声を聞いた瞬間、僕は走っていた。

 母は上半身を起こし、僕を抱きしめた。力は弱かったが、確かに温かかった。僕は子どもみたいに母の肩に顔を押しつけた。

「ごめん」

 何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。

 母は僕の背中を叩いた。

「帰ってきたなら、いい」

 その言葉で、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ溶けた。

 澪の母親も、市民センターに来ていた。

 彼女は人混みをかき分けるようにして澪のもとへ向かった。澪は一瞬、身を固くした。だが、母親は何も言わずに彼女を抱きしめた。

「ごめん」

 澪の母親は泣いていた。

「知らなかった。知らなかったの。ごめんね、澪」

 澪はしばらく動かなかった。

 それから、ゆっくり母親の背中に手を回した。

 許したのかどうかはわからない。

 そんな簡単なことではないのだろう。

 けれど、二人は同じ場所で泣いていた。

 それだけで、十年前よりはましなのだと思った。

 その日の午後、町は赤い月についての公式発表を行った。

 もちろん、すべてが一度に語られたわけではない。市は最初、赤色月光現象に伴う大規模睡眠障害という表現を使った。研究施設の件については、調査委員会を設置する、とだけ発表した。

 だが、人々はもう知っていた。

 夢の中で見たからだ。

 忘れられた子どもたち。

 白い部屋。

 媒体にされた少女。

 隠蔽された記録。

 誰か一人に恐怖を押しつければ、全員が助かるという嘘。

 それを、町は見た。

 見てしまった。

 だから、なかったことには戻れない。

 情報提供箱は、すべて撤去された。

 睡眠報告票は廃止された。

 睡眠管理バンドは回収されたが、すぐに捨てられたわけではない。調査資料として残された。誰かを管理するためではなく、何が起きたのかを忘れないために。

 白鳥玲奈は三日後に目を覚ました。

 病室で会ったとき、彼女はやつれていたが、意識ははっきりしていた。僕と澪が見舞いに行くと、白鳥は最初に頭を下げた。

「ごめんなさい」

 澪は椅子に座り、少し考えてから言った。

「私も、まだ怖い」

 白鳥は顔を上げた。

「うん」

「だから、すぐには普通に話せないかもしれない」

「うん」

「でも、箱はもういらない」

 白鳥は泣きそうな顔で頷いた。

「うん」

 それ以上の言葉はなかった。

 でも、その沈黙は悪くなかった。

 間宮の葬儀は、町の調査が進む中で改めて行われた。

 僕は黒瀬と一緒に参列した。

 遺影の中の間宮は、いつものように少しふざけた顔で笑っていた。僕は焼香の前で、長く手を合わせた。

 謝罪だけでは足りない。

 忘れないという言葉も、軽すぎる。

 だから、何も言わなかった。

 ただ、あの夢の屋上で間宮を見送ったときと同じように、目を逸らさなかった。

 黒瀬は帰り道で言った。

「俺、怖いって言う練習するわ」

「何だよ、それ」

「怖いときに、平気なふりするとろくなことしないってわかったから」

「確かに」

「お前もな」

 黒瀬が僕を見る。

「何でも一人で抱えた顔すんな。あれ、見てる方も怖い」

「努力する」

「努力じゃなくて、報告」

「密告箱は撤去されたぞ」

「俺に報告しろって意味だよ」

 黒瀬はそう言って、少し笑った。

 僕も笑った。

 笑えることに驚いた。

 水無瀬朔は、しばらく町に残った。

 真瀬町のことを調べ直すと言っていた。赤い月がなぜ町から町へ移ったのか、まだわからないことは多い。朝霧医師も、それに協力すると言った。

 ある日、水無瀬は僕に言った。

「前の町で置いてきた子の夢を、少し見た」

「どんな夢」

「怒ってた」

「そりゃそうだろ」

「うん」

 水無瀬は少しだけ笑った。

「でも、最後に、次はちゃんと言えって言われた」

「何を」

「死ぬなって」

 その言葉のあと、彼は空を見た。

 昼の月が薄く浮かんでいた。

 白い月だった。

 それから数週間が過ぎた。

 町は、完全には元に戻らなかった。

 当然だ。

 眠って見たことを、誰も完全には忘れられない。十年前の研究施設跡には調査が入った。市の関係者の名前が少しずつ明らかになり、町では説明会が開かれた。怒号もあった。涙もあった。沈黙もあった。

 誰もが被害者だったわけではない。

 誰もが加害者だったわけでもない。

 だが、誰も完全に無関係ではいられなかった。

 それを認めるところから、町はやり直すしかなかった。

 僕たちの学校も、少しずつ変わった。

 間宮の席はしばらく空いたままだった。

 白鳥は復学したが、委員長を辞めた。代わりに、教室の後ろに小さな箱を置いた。情報提供箱ではない。

《言えないことを書く箱》

 白鳥がそう名づけた。

 誰かを報告するためではなく、自分の怖さを書くための箱。中身は本人の許可なく読まない。必要なら、保健室へ一緒に持って行く。

 最初、みんな笑った。

 でも、何枚か紙が入った。

 僕も一枚入れた。

《眠るのがまだ怖い》

 翌日、箱の横に別の紙が貼られていた。

《私も》

 誰が書いたのかはわからない。

 わからなくてよかった。

 赤い月は、それ以来出ていない。

 ただ、僕は時々、夢を見るようになった。

 死者の夢だった。

 間宮が屋上でくだらない話をしている夢。白鳥がノートを閉じる夢。知らない子どもたちが白い部屋から出ていく夢。貯水施設の少女が、水面から顔を上げて空を見る夢。

 目覚めると、胸が重い。

 けれど、以前のように手を洗い続けることはなくなった。

 感触は消えない。

 消さないことにした。

 その日、放課後の屋上で、僕と澪は月を見ていた。

 屋上はしばらく立入禁止になっていたが、調査が終わり、フェンスも新しくなった。間宮が落ちた場所には、もう何も残っていない。何も残っていないからこそ、そこに何があったかを覚えていなければならない。

 夕方の空に、月が薄く浮かんでいる。

 白い月だった。

 澪はフェンスにもたれ、風に髪を揺らしていた。

「また、私を殺す夢を見た?」

 不意に、彼女が聞いた。

 僕は少し迷った。

 嘘をつくこともできた。

 でも、もうそれはやめた。

「見たよ」

 澪の指が、フェンスを握った。

「そっか」

「でも、前と違った」

「どう違ったの?」

 僕は月を見上げた。

「夢の中で、僕はまた君の首に手を伸ばしてた。赤い月も出てた。教室もあって、黒板にも名前が書いてあった」

「うん」

「でも、僕が止まる前に、君が僕の手を叩いた」

 澪がこちらを見る。

「私が?」

「かなり強めに」

 澪は少しだけ笑った。

「夢の中の私、遠慮ないね」

「それで言ったんだ。殺したいなら順番待ちして、私はまだ生きる予定があるからって」

 澪は今度こそ笑った。

 その笑い声は、風に混じって屋上に広がった。

 僕は、その声を聞いてようやく朝が来たのだと思った。

 長い夜のあとではなく、もっと深い場所から戻ってきた朝だった。

「それで、夢の中の僕はどうしたの」

 澪が聞いた。

「謝った」

「月代くんらしい」

「それから、君が僕の手を引っ張ってくれた」

「どこへ?」

「赤い月のない方へ」

 澪はしばらく黙っていた。

 それから、フェンスから離れ、僕の隣に立った。

「じゃあ、次は私の番だね」

「何の?」

「月代くんが夢の中で迷ったら、引っ張る番」

 澪は僕の右手を取った。

 夢の中で何度も人を殺した手。

 間宮を突き落とし、少女を水に沈め、澪の首に触れた手。

 その手を、彼女は普通に握った。

 特別な儀式のようではなく、放課後に友達と並んで歩き出すときのように。

「眠るの、まだ怖い?」

 澪が聞いた。

「怖い」

「私も」

「でも」

「でも?」

「一人で眠るよりは、ましだと思う」

 澪は頷いた。

「うん」

 白い月が、夕暮れの空に浮かんでいる。

 赤い色はもうない。

 けれど、僕にはわかっていた。

 あの赤は、完全に消えたわけではない。

 町のどこかに、僕たちの中に、眠りの底に、薄い傷痕として残っている。いつかまた、誰かが誰か一人に恐怖を押しつけようとしたとき、その傷は疼くかもしれない。

 そのときは、見ないふりをしない。

 怖いと言う。

 差し出すなと言う。

 誰か一人を殺せば終わるという夢を、何度でも拒む。

 澪の手が、僕の手を少し強く握った。

 僕も握り返した。

 赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。

 けれど朝が来たとき、君はまだ隣で生きていた。

 了



 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


 この物語は、「誰か一人を犠牲にすれば、みんなが助かる」という、一見すると正しそうで、けれどとても残酷な考え方への抵抗として書きました。


 赤い月、夢、密告箱、睡眠検疫。

 どれも現実にはありえないものかもしれません。


 けれど、怖いときに誰かを疑ってしまうこと。

 みんなのため、という言葉で誰か一人に重荷を背負わせてしまうこと。

 見たくないものを、なかったことにしてしまうこと。


 そういうものは、私たちのすぐ近くにもあるのではないかと思っています。


 悠真は、夢の中で何度も誰かを殺しました。

 澪は、何度も殺される夢を見ました。

 それでも二人は、最後に「誰か一人を差し出して終わらせる」ことを選びませんでした。


 怖いものを消すのではなく、忘れるのでもなく、ちゃんと見て、持ち帰って、それでも朝を迎える。


 この物語が、少しでも心に残るものになっていたら嬉しいです。


 よろしければ、読後の感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると、とても励みになります。

 ひと言だけでも、スタンプだけでも、本当に力になります。


 ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝します。


 ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。