第六章 君を殺せば、世界は助かる
澪の首は、思っていたよりも温かかった。
夢の中なのに、体温があった。
指先に触れる皮膚の柔らかさ。喉元で小さく震える鼓動。息を吸おうとするたびに、僕の掌の下でかすかに動く骨。すべてが、現実よりも現実らしかった。
僕は、手を離そうとした。
離れなかった。
腕は僕のものではなくなっていた。いや、正確には、腕だけではない。肩も、背中も、足も、呼吸も、赤い月の光に糸で吊られているようだった。
澪は抵抗しなかった。
赤い月の下で、彼女は僕を見ていた。
苦しげではあった。けれど、そこに怯えはなかった。むしろ、僕を安心させようとしている目だった。
「大丈夫」
澪が声にならない声で言った。
「今度こそ、ちゃんと殺して」
その言葉が、僕の中で何かを壊した。
僕は叫んだ。
声は出なかった。
代わりに、町が震えた。
商店街の看板が割れ、駅のホームが歪み、市役所の窓が一斉に黒い水を吐いた。眠っている町の人々の体が、同じリズムで痙攣した。まるで、澪の喉を締める僕の指に合わせて、町全体の呼吸が止まりかけているようだった。
違う。
僕は心の中で叫んだ。
これは僕の意思じゃない。
僕は澪を殺したくない。
その瞬間、左手首に痛みが走った。
強く引かれる感触。
水無瀬か。
いや、違う。
夢の中で、僕の左手首には赤い糸が巻きついていた。その先は、黒い水の中へ沈んでいる。水の奥から、誰かが糸を引いている。
僕はそちらを見た。
水の中に、黒瀬透がいた。
制服姿で、胸まで水に浸かっている。顔色はひどく悪い。だが、彼は必死に僕の手首を掴もうとしていた。
「悠真!」
声が届いた。
「起きろ!」
夢の景色が大きく揺れた。
澪の首にかかった手が、わずかに緩む。
澪が息を吸った。
赤い月が、怒ったように膨張した。
僕の視界が白く弾けた。
目が覚めたとき、僕は校庭に倒れていた。
頬に砂の感触があった。口の中に鉄の味がする。誰かに名前を呼ばれている。目を開けると、朝霧医師の顔があった。彼は白衣ではなくコート姿のまま、僕の肩を揺さぶっていた。
「月代くん。聞こえますか」
僕は起き上がろうとして、胸の奥から咳が出た。
澪はどこだ。
その言葉を口にするより先に、視界の端で彼女を見つけた。
澪は僕のすぐ隣に横たわっていた。市の職員が毛布をかけようとしている。顔は青白い。けれど、胸は動いていた。
生きている。
僕は彼女の方へ這った。
「篠宮」
声が掠れていた。
澪の瞼が震えた。
ゆっくり目が開く。
その目は、しばらく僕を見ていなかった。もっと遠い場所を見ていた。赤い月の裏側か、十年前の白い部屋か、僕にはわからない場所を。
やがて彼女は、僕を認識した。
「殺さなかったね」
その言葉は、ひどく小さかった。
「当たり前だ」
僕はそう言った。
だが、声に力はなかった。
当たり前。
本当にそう言えるのか。
僕の両手は、まだ澪の首の感触を覚えている。あと少しだった。黒瀬が夢の中で僕の手首を引かなければ、僕は彼女を殺していたかもしれない。
澪は微笑もうとした。
うまく笑えていなかった。
「月代くん。私、思い出した」
朝霧の顔が険しくなる。
「篠宮さん、今は話さない方がいい」
「話さないと、また忘れる」
澪はゆっくり上半身を起こした。
僕は支えようとしたが、彼女は首を振った。
「十年前、私は毎晩、みんなの夢を見てた。泣いてる子。逃げてる子。誰かを押した子。誰かに閉じ込められた子。全部、私の夢に入ってきた」
澪の声は淡々としていた。
淡々としているから、余計に痛かった。
「大人たちは、私に言ったの。澪ちゃんは強い子だから、みんなの怖いものを持ってあげられるねって。みんなが眠れるようになるには、澪ちゃんが一度、夢の奥まで行けばいいんだよって」
水無瀬が少し離れたところに立っていた。
彼は顔を伏せている。水無瀬もまた、似たような言葉を聞いたことがあるのかもしれなかった。
澪は続けた。
「最初は、本当にそう思ってた。私が怖い夢を見れば、他の子が泣かなくなる。私が我慢すれば、みんなが眠れる。だったら、それでいいって」
「もういい」
僕は言った。
聞いていられなかった。
澪は首を振った。
「でも、夢はどんどん重くなった。私の中に、私じゃない怖さが増えていった。誰かを憎む気持ち。誰かを突き落としたい気持ち。誰かが死ねばいいと思う気持ち。全部、私の中に入ってきた」
彼女の手が、自分の胸元を握った。
「私、たぶん一度、夢の中で壊れたんだと思う」
赤い月は、まだ空にあった。
夜は終わっていない。
町のあちこちから、サイレンが聞こえる。校門の外には倒れた人々が運ばれている。市の職員たちも、半分は眠気に抗えず座り込んでいた。
朝霧が腕時計型の端末を確認する。
「町内の昏睡者が増えています」
彼の声は低かった。
「バンドのデータでは、接続率が六割を超えた」
「接続率?」
僕が聞くと、朝霧は画面から目を離さずに答えた。
「複数の睡眠者の心拍、脳波に近似した周期が出ている。町全体が一つの夢に引き込まれつつある」
「どれくらい危ないんですか」
「八割を超えると、戻れない可能性があります」
戻れない。
その言葉を聞いた瞬間、校庭が急に広く感じられた。
ここにいる僕たちは、町全体から見ればほんの数人でしかない。学校の外には、何千人もの人がいる。母も、その一人だ。
僕は立ち上がった。
「母は」
スマートフォンを取り出す。
圏外だった。
通話はできない。
メッセージも送れない。
胸が締めつけられた。
母は家にいるはずだ。眠らずに待っているかもしれない。いや、すでに眠っているかもしれない。赤い月の夢に引きずり込まれているかもしれない。
澪が僕の袖を掴んだ。
「月代くん」
「帰らないと」
「今、町のどこにいても同じだよ」
「でも」
「お母さんを助けたいなら、夢を止めるしかない」
その言葉は正しかった。
正しすぎて、残酷だった。
朝霧が言った。
「市民センターに避難者を集めています。そこに睡眠検査設備と予備電源があります。町のネットワークに接続できれば、バンドを通じて全員に覚醒刺激を送れる可能性があります」
「それで目覚めるんですか」
「浅い睡眠なら」
「深い夢に入った人は?」
朝霧は答えなかった。
澪が僕を見た。
深い夢に入った人を戻すには、夢の中へ行くしかない。
そして、今この町でそれができる可能性があるのは、僕たちだけだった。
そのとき、校門の方で大きな声がした。
「悠真!」
黒瀬だった。
彼は息を切らして走ってきた。制服は泥で汚れ、頬には擦り傷があった。右手には、破れた睡眠報告票を握っている。
僕は一瞬、どう反応すればいいかわからなかった。
黒瀬は僕の前で止まると、膝に手をついて息を整えた。
「ごめん」
最初に出たのは、その言葉だった。
「俺、書いた」
わかっていた。
それでも、胸の奥が重くなる。
「お前らが旧校舎で危ないことしてるって。保護した方がいいって。俺、本気でそう思ったんだ。お前らが死ぬくらいなら、怒られても、恨まれても、市に連れて行かれた方がましだって」
「黒瀬」
「でも違った」
黒瀬は顔を上げた。
目が赤かった。
「保護って、守ることじゃないんだな。怖い人間を、見えないところへどかすことでもあるんだな」
彼は握っていた紙を広げた。
そこには、別の情報提供用紙があった。
乱れた字で、こう書かれている。
《篠宮澪を隔離すれば赤い月は終わる》
僕は息を呑んだ。
「どこで」
「職員室の前に落ちてた。たぶん、誰かが持っていこうとして落とした。先生か、市の人間か、生徒かはわからない。でも、もうそういう話になってる」
澪は動かなかった。
わかっていた、という顔だった。
黒瀬は澪の方を見た。
「ごめん。篠宮。俺、お前のこと何も知らないのに、怖がってた。悠真がおかしくなったのは、お前のせいだと思ってた」
「普通だよ」
澪は言った。
「怖かったら、そう思う」
「普通で済ませたくない」
黒瀬は唇を噛んだ。
「俺、間宮が死んでから、ずっと怖かった。次は自分かもしれないって。悠真が何か知ってるのに言わないのも怖かった。篠宮が夢に関係してるのも怖かった。怖いと、人間って、正しいことをしてるふりで誰かを売れるんだな」
その言葉は、黒瀬自身に向けられていた。
だが、僕にも刺さった。
僕だって、澪を守りたいと言いながら、どこかで彼女に答えを求めていたのかもしれない。なぜ君が中心なのか。なぜ僕が君を殺す役なのか。どうすれば終わるのか。
それは、澪に重荷を背負わせることと、どれほど違うのだろう。
朝霧が言った。
「市民センターへ移動します。ここにいても危険が増すだけです」
黒瀬が顔を上げた。
「俺も行く」
「君は避難対象です」
「だから行くんだよ」
黒瀬は僕を見た。
「今度は逃げない」
水無瀬が、黒瀬をしばらく見ていた。
「夢に引きずられるぞ」
「もう引きずられてる」
黒瀬は自分の睡眠管理バンドを見せた。
ランプは赤く点滅していた。
「さっきから、変な声が聞こえる。俺の名前を呼んでる。たぶん、もう片足突っ込んでる」
「なら余計に――」
「だから、行く」
黒瀬の声には、初めて揺れがなかった。
「俺が密告したせいで、お前らが囲まれた。なら、今度は俺が時間を稼ぐ」
その言葉の意味を、僕はすぐには理解しなかった。
だが、黒瀬の表情を見て、嫌な予感がした。
「黒瀬、何を」
そのとき、校門の外から怒号が聞こえた。
人が集まっていた。
住民たちだった。
眠らずに残った人、家族が昏睡した人、パニックに陥った人。数十人はいる。彼らは校門の外で、市の職員に詰め寄っていた。
「篠宮澪はどこだ」
誰かが叫んだ。
「その子を出せ!」
「うちの子が起きないんだ!」
「隠すな!」
僕の全身が冷えた。
情報が漏れた。
澪を隔離すれば赤い月が終わる。
その紙に書かれていた噂は、もう町に広がっている。
澪が小さく息を吐いた。
「早いね」
その声があまりに静かで、僕はかえって怖くなった。
「篠宮」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「うん。大丈夫じゃない。でも、驚いてはいない」
黒瀬が校門の方を見た。
住民たちは、少しずつ押し寄せてきている。市の職員だけでは止められない。警察官の姿もあるが、彼ら自身も睡眠不足で顔色が悪い。
朝霧が言った。
「裏門から出ます」
「車は?」
「校舎裏に一台あります。市民センターまで十分程度です」
僕たちは走った。
校舎裏の駐車スペースに、白いワゴン車があった。睡眠観察支援班と書かれた車だ。以前は恐ろしく見えた文字が、今はかろうじて残された避難手段に見えた。
朝霧が運転席に乗り込む。
僕と澪、水無瀬、黒瀬が後部座席に乗った。市の職員が二人、機材を抱えて乗り込む。車が動き出す直前、校舎の角から住民たちの一部が回り込んできた。
「いたぞ!」
「その子だ!」
誰かが窓を叩いた。
澪が身を縮める。
僕は彼女を庇うように前へ出た。
ワゴン車が急発進した。
敷地を出ると、町はさらに異様な状態になっていた。
道路のあちこちに車が止まっている。運転席で眠っている人。歩道に座り込んで動かない人。家の窓から赤い光が漏れている。防災無線は壊れたように同じ文言を繰り返していた。
「不要不急の外出を……不要不急の……睡眠中の異常を……不要……」
信号はすべて赤だった。
いや、赤に見えているだけかもしれない。
赤い月の光が、町の色を奪っていた。
車内で、澪はずっと黙っていた。
僕は彼女の手を握っていた。
彼女の手は冷たかった。
「月代くん」
澪が小さく言った。
「何」
「もし、私を殺さないせいで、あなたのお母さんが目覚めなかったら」
「言うな」
「でも」
「言うな」
僕の声は、自分でも驚くほど強かった。
澪は目を伏せた。
「ごめん」
謝らせたかったわけじゃない。
でも、その問いに答えたくなかった。
母か、澪か。
町か、一人か。
そんな天秤を僕に渡さないでほしかった。
けれど赤い月は、まさにその天秤を僕の前に置こうとしている。
市民センターに着く前に、道が塞がれていた。
交差点に車が何台も放置されている。運転手たちは眠っているか、どこかへ逃げた後だった。朝霧は車を止め、舌打ちに近い息を漏らした。
「ここから歩きます」
「歩いて何分」
「五分」
朝霧は車内の職員に指示を出した。
簡易モニター、救急バッグ、予備バッテリーを持つ。澪には毛布をかける。バンドの警告は止まらない。黒瀬のバンドも赤く点滅していた。
車を降りた瞬間、赤い月の光が肌に刺さった。
町の空気が、夢の中とほとんど同じになっている。
現実が薄くなっていた。
水無瀬が言った。
「急いだ方がいい」
その声もまた、遠く聞こえた。
僕たちは交差点を抜け、市民センターへ向かった。
途中、眠っている子どもを抱えた母親が、道路の端に座り込んでいた。
「起きて」
母親は何度も子どもの頬を叩いていた。
「お願い、起きて。ねえ、起きて」
澪が足を止めた。
僕は彼女の手を引いた。
「見るな」
「でも」
「今止まったら、助けられない」
その言葉が、自分でも嫌だった。
誰かを助けるために、目の前の誰かを見捨てる。
そういう選択を、僕たちはもう始めている。
市民センターは、赤い光に包まれていた。
入口には避難者が集まっている。中では簡易ベッドが並び、眠った人々が寝かされていた。職員と医療スタッフが慌ただしく動いているが、スタッフの中にも倒れている者がいた。
体育館のような大ホールに入ると、電子音がいくつも重なって聞こえた。
睡眠管理バンドのモニター音。
心拍計の警告音。
発電機の唸り。
そして、人々の寝息。
何百人分もの寝息が、同じリズムで響いている。
朝霧は中央の機材へ向かった。
「バンドのネットワークに接続します。覚醒刺激を送れるか試す」
職員たちが慌ただしく端末を操作する。
僕はホールの中を見渡した。
母がいた。
入口近くの簡易ベッドに横たわっていた。
僕は走った。
「母さん!」
母は目を閉じていた。
顔色は悪くない。眠っているだけに見える。だが、呼びかけても反応しない。腕には睡眠管理バンドがつけられており、赤く点滅していた。
胸の奥が潰れた。
「母さん、起きて」
肩を揺さぶる。
反応はない。
母の手は温かい。
生きている。
でも、戻ってこない。
澪が僕の隣に立った。
彼女は何か言いかけたが、言わなかった。
僕は母の手を握りしめた。
守れなかったとき、自分を殺さないでほしい。
朝、母はそう言った。
その母が、今、夢に沈んでいる。
朝霧の声がホールに響いた。
「覚醒刺激、送ります」
端末の画面にカウントが表示される。
三。
二。
一。
ホールのあちこちで、バンドが一斉に振動し、短い警告音を鳴らした。
眠っている人々の体が、小さく震えた。
しかし、目覚めない。
朝霧の顔が険しくなる。
「もう一度」
二回目。
三回目。
結果は同じだった。
浅い眠りではない。
町の人々は、すでに深い夢に落ちている。
水無瀬が低く言った。
「中から呼び戻すしかない」
朝霧は端末から目を離した。
彼も同じ結論に至っていた。
澪は、ホール中央へ歩き出した。
僕は慌てて追いかける。
「篠宮」
「わかってる」
「何が」
「私が中心になれば、みんなの夢につながれる」
「だめだ」
「でも、他にない」
「それは十年前と同じだ」
澪は振り返った。
「同じじゃない」
「何が違う」
「今は、私が選んでる」
その言葉が、僕の怒りに火をつけた。
「選ばされてるんだよ」
ホールの中で、僕の声が響いた。
「町が眠ってる。君を差し出せって人が叫んでる。母さんも倒れてる。そんな状況で、君が本当に自由に選べるわけないだろ」
澪は黙った。
僕は続けた。
「十年前も、きっとそうだった。いい子だから、強い子だから、みんなのためだから。そう言われて、君は選んだと思わされた。でも、それは選択じゃない。押しつけだ」
澪の目が揺れた。
「じゃあ、どうすればいいの」
その声は、初めて年相応の少女の声だった。
「何もしなかったら、みんな死ぬかもしれない。月代くんのお母さんも、黒瀬くんも、水無瀬くんも、白鳥さんも。私が生きたいって言ったせいで、みんなが目覚めなかったら、私はどうすればいいの」
「そんな責任、君が持つ必要はない」
「でも、持ってしまうよ」
澪は泣いていなかった。
でも、泣くよりも苦しい顔をしていた。
「持つ必要がなくても、持ってしまう。だって、私が中心なんでしょう。私が死ねば終わるかもしれないって知ってしまった。もう知らなかったことにはできない」
僕は言葉を失った。
黒瀬が近づいてきた。
「篠宮」
澪が彼を見る。
黒瀬は苦しそうに言った。
「俺は、お前に死んでほしくない」
澪は少し驚いた顔をした。
「ありがとう」
「でも、町の人たちが目覚めなかったら、たぶん俺も迷うと思う」
僕は黒瀬を見た。
黒瀬は逃げなかった。
「最悪だろ。でも、本音だ。親が倒れて、友達が倒れて、子どもが倒れて、誰か一人で助かるかもしれないって言われたら、人間は迷う。俺はもう、自分だけは違うなんて言えない」
黒瀬は唇を噛んだ。
「だから、今言っておく。俺が迷う前に、間違える前に、篠宮を殺すなって俺を殴ってくれ」
その言葉は、ひどく不器用だった。
だが、本物だった。
水無瀬が言った。
「前の町では、みんな黙った」
僕たちは彼を見た。
水無瀬はホールの眠る人々を見ていた。
「誰か一人が犠牲になれば助かるかもしれないって話が出たとき、誰も賛成とは言わなかった。でも誰も反対しなかった。沈黙が、その子を殺した」
彼の拳が震えていた。
「僕も黙った。怖かったから。自分が死にたくなかったから。あの子が『私が行く』って言ったとき、止めなかった。止めたら、今度は自分が選ばれるかもしれないと思った」
水無瀬は澪を見た。
「だから、今度は言う。死ぬな」
澪の表情が崩れた。
初めて、涙が頬を伝った。
そのとき、ホール全体の照明が赤く明滅した。
発電機の音が乱れる。
眠っている人々が、一斉に呻いた。
朝霧が端末を見る。
「接続率、七十八パーセント」
八割に近づいている。
時間がない。
澪は涙を拭った。
「私、死なない」
彼女は言った。
僕は息を止めた。
「でも、夢には入る。逃げていたら、たぶん終わらない」
「一人では行かせない」
僕が言うと、澪は頷いた。
「うん」
水無瀬も頷く。
黒瀬が前に出た。
「俺も」
「黒瀬、お前は」
「俺も行く」
「危険すぎる」
「危険じゃない場所なんてもうないだろ」
黒瀬は眠っている人々を見た。
「俺が密告したことで、赤い月に名前を渡したかもしれない。だったら、夢の中で取り返す」
朝霧が近づいてきた。
「四人で夢に入るなら、身体の管理はこちらで行います。手首を接続し、心拍を監視する。危険値に達したら、外部刺激で引き戻す」
「引き戻せるんですか」
「保証はできません」
「正直ですね」
「今は、嘘をついている余裕がありません」
朝霧は僕を見た。
「月代くん。君は殺す役に近い。夢の中で、最も危険な行動を取らされる可能性がある」
「知ってます」
「篠宮さんを傷つけそうになったら」
「止まります」
「止まれなかったら」
僕は澪を見た。
澪も僕を見ていた。
「止めてもらいます」
黒瀬が僕の肩を叩いた。
「殴ってでも止める」
水無瀬が言った。
「置いてでも戻す」
澪が小さく笑った。
「みんな、言い方がひどい」
それは、赤い月が出てから初めて聞く、澪の自然な笑いに近かった。
僕たちはホール中央に簡易ベッドを四つ並べた。
朝霧と職員たちが、僕たちの手首にモニター用のコードをつける。睡眠管理バンドは外さない。その上から、細い布紐で互いの手首を繋ぐ。
僕の右手は澪の左手に。
僕の左手は黒瀬に。
澪の反対側は水無瀬に。
水無瀬と黒瀬の手首も繋がれ、四人で輪を作る。
中央には、白鳥のノート。
それから、朝霧が古い写真を置いた。
十年前の施設で撮られた、子どもたちの写真。
幼い澪が写っている。
澪はそれを見て、深く息を吸った。
「大丈夫?」
僕が聞くと、彼女は頷いた。
「大丈夫じゃないけど、見る」
朝霧が言った。
「目的は、町全体を夢から切断することです。篠宮さん一人に悪夢を集めるのではなく、町の記憶として全員に返す。理論上は、赤い月の中心を分散できます」
「失敗したら?」
黒瀬が聞いた。
「全員が深い夢に沈みます」
「最悪だな」
「ええ」
朝霧は否定しなかった。
ホールの照明がまた赤く瞬いた。
端末から警告音が鳴る。
「接続率、七十九・五」
もう限界だった。
澪が僕の手を握った。
「月代くん」
「何」
「もし夢の中で、私がまた殺してって言ったら」
「聞かない」
「うん」
「絶対に聞かない」
澪は頷いた。
「じゃあ、私も月代くんが自分を犠牲にしようとしたら止める」
僕は返事に詰まった。
澪はじっと僕を見た。
「月代くんは、そういうことをしそう」
「しない」
「嘘」
「……できるだけ、しない」
「できるだけじゃだめ」
澪の手に力が入る。
「私を一人で生き残らせないで」
その言葉は、澪が初めて口にした自分の願いだった。
誰かのためではなく。
町のためでもなく。
赤い月を終わらせるためでもなく。
ただ、彼女自身の願いだった。
僕は頷いた。
「わかった」
黒瀬が隣で言った。
「約束したからな」
水無瀬も目を閉じながら言った。
「破ったら、夢の底まで殴りに行く」
澪が少しだけ笑った。
朝霧の声が遠く聞こえた。
「開始します」
睡眠導入剤は使わなかった。
必要なかった。
赤い月が、僕たちの瞼を閉じさせる。
ホールの寝息が、一つの波のように押し寄せる。
母の手を、最後にもう一度握りたかった。
だが、僕の手は澪と黒瀬に繋がれている。
それでいいのだと思った。
一人ではない。
誰か一人を差し出すためではなく、誰か一人に背負わせないために、僕たちは繋がっている。
意識が落ちる。
赤い底へ。
夢の中で、僕たちは教室にいた。
そこは二年三組だった。
けれど、教室の壁はなく、外には町全体が広がっている。机には眠っている人々が座っていた。僕の母もいた。白鳥もいた。間宮もいた。榊先生も、貯水施設の女子生徒も、知らない子どもたちもいた。
全員が、こちらを見ていた。
黒板には、白い文字が書かれている。
《最も罪のない者を殺せば、全員が目を覚ます》
澪が小さく息を呑んだ。
黒瀬が吐き捨てるように言った。
「最悪だ」
水無瀬は黒板を睨んでいた。
「前の町と同じだ」
教卓の前に、幼い澪が立っていた。
白い検査服姿だった。
彼女は、今の澪を見上げて言った。
「今度は、ちゃんと終わらせて」
澪の体が震えた。
僕は彼女の手を握った。
「言葉を信じるな」
水無瀬が言った。
「光景を見るんだ」
その瞬間、教室中の人々が一斉に立ち上がった。
彼らは声を揃えて言った。
「殺せ」
母の声もあった。
白鳥の声も。
間宮の声も。
町中の人々の声が、ひとつになって響く。
「その子を殺せば、目が覚める」
「その子が中心だ」
「その子が背負えば終わる」
「その子は強い」
「その子は選んだ」
澪の手が冷たくなる。
僕は叫んだ。
「黙れ!」
声は教室に反響した。
だが、人々は止まらない。
黒板の文字が赤く変わる。
《篠宮澪を殺せ》
僕の右手が、澪の首へ向かった。
黒瀬が僕の腕を掴んだ。
「悠真!」
水無瀬が背後から僕の肩を押さえる。
澪は逃げなかった。
でも、今度は言った。
「月代くん、だめ」
その一言で、僕の意識が戻った。
右手が止まる。
指先は、澪の首の数センチ手前にあった。
僕は歯を食いしばった。
赤い月が、窓の外で膨らむ。
教室の人々が、さらに声を強める。
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
僕は黒板を見た。
最も罪のない者。
その言葉が、急におかしく思えた。
誰が決めた。
澪が罪のない者だと。
罪がないから殺していいと。
罪がある者なら殺して悪いのか。
そもそも、誰かを殺せば全員が助かるというルールを、誰が作った。
赤い月だ。
赤い月が、町にそう思わせている。
十年前、大人たちが澪に言った言葉と同じだ。
君は強い子だから。
君なら背負えるから。
君が受け止めれば、みんな楽になるから。
それは優しさの顔をした暴力だった。
僕は右手を下ろした。
そして、黒板へ向かった。
教室中の声が止まる。
チョークが置かれている。
僕はそれを握った。
澪が息を呑む。
「月代くん」
彼女は僕が何をしようとしているのか、気づいたのだろう。
「だめ」
僕は振り返らなかった。
黒板の赤い文字の下に、自分の名前を書いた。
《月代悠真を殺せ》
教室が静まり返った。
黒瀬が叫んだ。
「ふざけんな!」
澪の声が震えた。
「約束した」
「わかってる」
僕はチョークを置いた。
「でも、これは犠牲になるためじゃない」
赤い月を見る。
「選ぶ相手を変えただけじゃ意味がない。澪を殺す代わりに僕を殺しても、同じだ。だから、これは答えじゃない」
黒板の文字が滲む。
僕は続けた。
「赤い月。お前は、誰か一人を選ばせたいだけだ。澪でも、僕でも、誰でもいい。誰か一人に恐怖を押しつけて、みんなが助かったふりをする。それを繰り返させたいだけだ」
教室の床から黒い水が滲み出す。
人々の顔が歪む。
母の顔も、間宮の顔も、白鳥の顔も、知らない顔に変わっていく。
赤い月の声がした。
「選べ」
低く、重く、町全体の底から響く声だった。
「誰かを選べ。選ばなければ、全員が沈む」
僕は答えた。
「選ばない」
澪が僕の隣に立った。
「私も、選ばれない」
黒瀬が反対側に立つ。
「俺も、選ばせない」
水無瀬が、少し遅れて前へ出た。
「もう黙らない」
四人の手首を繋ぐ紐が、赤く光った。
黒板の文字が崩れていく。
《最も罪のない者を殺せば、全員が目を覚ます》
その下に、別の文字が浮かび上がった。
《最も怖がっている者を差し出せば、全員が楽になれる》
さらに下。
《十年前も、そうした》
澪が息を止めた。
教室の壁が崩れた。
その向こうに、白い研究施設が現れる。
十年前の夢。
子どもたちの泣き声。
大人たちの記録する声。
幼い澪が、ベッドの上で目を閉じている。
周りの子どもたちは、眠っている。
研究者の一人が言う。
「媒体に恐怖が集中しています」
別の声。
「このまま進めれば、他の被験者の悪夢は軽減される」
幼い澪の唇が動く。
「もう、いや」
誰も聞いていない。
僕はその光景を見た。
澪も見た。
黒瀬も、水無瀬も見た。
おそらく、ホールで眠る町の人々も見ている。
赤い月が悲鳴を上げた。
いや、悲鳴を上げたのは月ではなく、見ないふりをしてきた町そのものだったのかもしれない。
夢の教室に戻ると、黒板の前に幼い澪が立っていた。
彼女は泣いていた。
今の澪が、ゆっくり近づく。
そして、幼い自分を抱きしめた。
「もう、私だけが持たなくていい」
澪の声が震えていた。
「返そう。みんなに。全部」
幼い澪は、今の澪の胸の中で泣き続けた。
赤い月が、さらに大きくなる。
教室の天井が割れ、赤い光が降り注いだ。
声がした。
「返せば、みんな壊れる」
澪は顔を上げた。
「壊れても、知らないふりよりはいい」
僕は彼女の横に立った。
「一人を壊して保つ町なら、そんなものは一度壊れた方がいい」
黒瀬が言った。
「そのあと、直せばいい」
水無瀬が静かに続けた。
「今度は、誰かを置いていかずに」
赤い月の光が、僕たちを飲み込んだ。
その直前、僕は見た。
教室の隅に、白鳥玲奈が立っていた。
彼女はノートを抱え、泣きながらこちらを見ていた。
間宮もいた。
榊先生も、知らない子どもたちも。
彼らはもう「殺せ」と言っていなかった。
ただ、見ていた。
忘れられていたことが、ようやく見られる瞬間を。
赤い光が、すべてを白く塗りつぶした。




