↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。 ――夢で殺された人間は、翌朝ほんとうに死んでいる  作者: アコンプリスの人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/16

第六章 君を殺せば、世界は助かる

 澪の首は、思っていたよりも温かかった。

 夢の中なのに、体温があった。

 指先に触れる皮膚の柔らかさ。喉元で小さく震える鼓動。息を吸おうとするたびに、僕の掌の下でかすかに動く骨。すべてが、現実よりも現実らしかった。

 僕は、手を離そうとした。

 離れなかった。

 腕は僕のものではなくなっていた。いや、正確には、腕だけではない。肩も、背中も、足も、呼吸も、赤い月の光に糸で吊られているようだった。

 澪は抵抗しなかった。

 赤い月の下で、彼女は僕を見ていた。

 苦しげではあった。けれど、そこに怯えはなかった。むしろ、僕を安心させようとしている目だった。

「大丈夫」

 澪が声にならない声で言った。

「今度こそ、ちゃんと殺して」

 その言葉が、僕の中で何かを壊した。

 僕は叫んだ。

 声は出なかった。

 代わりに、町が震えた。

 商店街の看板が割れ、駅のホームが歪み、市役所の窓が一斉に黒い水を吐いた。眠っている町の人々の体が、同じリズムで痙攣した。まるで、澪の喉を締める僕の指に合わせて、町全体の呼吸が止まりかけているようだった。

 違う。

 僕は心の中で叫んだ。

 これは僕の意思じゃない。

 僕は澪を殺したくない。

 その瞬間、左手首に痛みが走った。

 強く引かれる感触。

 水無瀬か。

 いや、違う。

 夢の中で、僕の左手首には赤い糸が巻きついていた。その先は、黒い水の中へ沈んでいる。水の奥から、誰かが糸を引いている。

 僕はそちらを見た。

 水の中に、黒瀬透がいた。

 制服姿で、胸まで水に浸かっている。顔色はひどく悪い。だが、彼は必死に僕の手首を掴もうとしていた。

「悠真!」

 声が届いた。

「起きろ!」

 夢の景色が大きく揺れた。

 澪の首にかかった手が、わずかに緩む。

 澪が息を吸った。

 赤い月が、怒ったように膨張した。

 僕の視界が白く弾けた。

 目が覚めたとき、僕は校庭に倒れていた。

 頬に砂の感触があった。口の中に鉄の味がする。誰かに名前を呼ばれている。目を開けると、朝霧医師の顔があった。彼は白衣ではなくコート姿のまま、僕の肩を揺さぶっていた。

「月代くん。聞こえますか」

 僕は起き上がろうとして、胸の奥から咳が出た。

 澪はどこだ。

 その言葉を口にするより先に、視界の端で彼女を見つけた。

 澪は僕のすぐ隣に横たわっていた。市の職員が毛布をかけようとしている。顔は青白い。けれど、胸は動いていた。

 生きている。

 僕は彼女の方へ這った。

「篠宮」

 声が掠れていた。

 澪の瞼が震えた。

 ゆっくり目が開く。

 その目は、しばらく僕を見ていなかった。もっと遠い場所を見ていた。赤い月の裏側か、十年前の白い部屋か、僕にはわからない場所を。

 やがて彼女は、僕を認識した。

「殺さなかったね」

 その言葉は、ひどく小さかった。

「当たり前だ」

 僕はそう言った。

 だが、声に力はなかった。

 当たり前。

 本当にそう言えるのか。

 僕の両手は、まだ澪の首の感触を覚えている。あと少しだった。黒瀬が夢の中で僕の手首を引かなければ、僕は彼女を殺していたかもしれない。

 澪は微笑もうとした。

 うまく笑えていなかった。

「月代くん。私、思い出した」

 朝霧の顔が険しくなる。

「篠宮さん、今は話さない方がいい」

「話さないと、また忘れる」

 澪はゆっくり上半身を起こした。

 僕は支えようとしたが、彼女は首を振った。

「十年前、私は毎晩、みんなの夢を見てた。泣いてる子。逃げてる子。誰かを押した子。誰かに閉じ込められた子。全部、私の夢に入ってきた」

 澪の声は淡々としていた。

 淡々としているから、余計に痛かった。

「大人たちは、私に言ったの。澪ちゃんは強い子だから、みんなの怖いものを持ってあげられるねって。みんなが眠れるようになるには、澪ちゃんが一度、夢の奥まで行けばいいんだよって」

 水無瀬が少し離れたところに立っていた。

 彼は顔を伏せている。水無瀬もまた、似たような言葉を聞いたことがあるのかもしれなかった。

 澪は続けた。

「最初は、本当にそう思ってた。私が怖い夢を見れば、他の子が泣かなくなる。私が我慢すれば、みんなが眠れる。だったら、それでいいって」

「もういい」

 僕は言った。

 聞いていられなかった。

 澪は首を振った。

「でも、夢はどんどん重くなった。私の中に、私じゃない怖さが増えていった。誰かを憎む気持ち。誰かを突き落としたい気持ち。誰かが死ねばいいと思う気持ち。全部、私の中に入ってきた」

 彼女の手が、自分の胸元を握った。

「私、たぶん一度、夢の中で壊れたんだと思う」

 赤い月は、まだ空にあった。

 夜は終わっていない。

 町のあちこちから、サイレンが聞こえる。校門の外には倒れた人々が運ばれている。市の職員たちも、半分は眠気に抗えず座り込んでいた。

 朝霧が腕時計型の端末を確認する。

「町内の昏睡者が増えています」

 彼の声は低かった。

「バンドのデータでは、接続率が六割を超えた」

「接続率?」

 僕が聞くと、朝霧は画面から目を離さずに答えた。

「複数の睡眠者の心拍、脳波に近似した周期が出ている。町全体が一つの夢に引き込まれつつある」

「どれくらい危ないんですか」

「八割を超えると、戻れない可能性があります」

 戻れない。

 その言葉を聞いた瞬間、校庭が急に広く感じられた。

 ここにいる僕たちは、町全体から見ればほんの数人でしかない。学校の外には、何千人もの人がいる。母も、その一人だ。

 僕は立ち上がった。

「母は」

 スマートフォンを取り出す。

 圏外だった。

 通話はできない。

 メッセージも送れない。

 胸が締めつけられた。

 母は家にいるはずだ。眠らずに待っているかもしれない。いや、すでに眠っているかもしれない。赤い月の夢に引きずり込まれているかもしれない。

 澪が僕の袖を掴んだ。

「月代くん」

「帰らないと」

「今、町のどこにいても同じだよ」

「でも」

「お母さんを助けたいなら、夢を止めるしかない」

 その言葉は正しかった。

 正しすぎて、残酷だった。

 朝霧が言った。

「市民センターに避難者を集めています。そこに睡眠検査設備と予備電源があります。町のネットワークに接続できれば、バンドを通じて全員に覚醒刺激を送れる可能性があります」

「それで目覚めるんですか」

「浅い睡眠なら」

「深い夢に入った人は?」

 朝霧は答えなかった。

 澪が僕を見た。

 深い夢に入った人を戻すには、夢の中へ行くしかない。

 そして、今この町でそれができる可能性があるのは、僕たちだけだった。

 そのとき、校門の方で大きな声がした。

「悠真!」

 黒瀬だった。

 彼は息を切らして走ってきた。制服は泥で汚れ、頬には擦り傷があった。右手には、破れた睡眠報告票を握っている。

 僕は一瞬、どう反応すればいいかわからなかった。

 黒瀬は僕の前で止まると、膝に手をついて息を整えた。

「ごめん」

 最初に出たのは、その言葉だった。

「俺、書いた」

 わかっていた。

 それでも、胸の奥が重くなる。

「お前らが旧校舎で危ないことしてるって。保護した方がいいって。俺、本気でそう思ったんだ。お前らが死ぬくらいなら、怒られても、恨まれても、市に連れて行かれた方がましだって」

「黒瀬」

「でも違った」

 黒瀬は顔を上げた。

 目が赤かった。

「保護って、守ることじゃないんだな。怖い人間を、見えないところへどかすことでもあるんだな」

 彼は握っていた紙を広げた。

 そこには、別の情報提供用紙があった。

 乱れた字で、こう書かれている。

《篠宮澪を隔離すれば赤い月は終わる》

 僕は息を呑んだ。

「どこで」

「職員室の前に落ちてた。たぶん、誰かが持っていこうとして落とした。先生か、市の人間か、生徒かはわからない。でも、もうそういう話になってる」

 澪は動かなかった。

 わかっていた、という顔だった。

 黒瀬は澪の方を見た。

「ごめん。篠宮。俺、お前のこと何も知らないのに、怖がってた。悠真がおかしくなったのは、お前のせいだと思ってた」

「普通だよ」

 澪は言った。

「怖かったら、そう思う」

「普通で済ませたくない」

 黒瀬は唇を噛んだ。

「俺、間宮が死んでから、ずっと怖かった。次は自分かもしれないって。悠真が何か知ってるのに言わないのも怖かった。篠宮が夢に関係してるのも怖かった。怖いと、人間って、正しいことをしてるふりで誰かを売れるんだな」

 その言葉は、黒瀬自身に向けられていた。

 だが、僕にも刺さった。

 僕だって、澪を守りたいと言いながら、どこかで彼女に答えを求めていたのかもしれない。なぜ君が中心なのか。なぜ僕が君を殺す役なのか。どうすれば終わるのか。

 それは、澪に重荷を背負わせることと、どれほど違うのだろう。

 朝霧が言った。

「市民センターへ移動します。ここにいても危険が増すだけです」

 黒瀬が顔を上げた。

「俺も行く」

「君は避難対象です」

「だから行くんだよ」

 黒瀬は僕を見た。

「今度は逃げない」

 水無瀬が、黒瀬をしばらく見ていた。

「夢に引きずられるぞ」

「もう引きずられてる」

 黒瀬は自分の睡眠管理バンドを見せた。

 ランプは赤く点滅していた。

「さっきから、変な声が聞こえる。俺の名前を呼んでる。たぶん、もう片足突っ込んでる」

「なら余計に――」

「だから、行く」

 黒瀬の声には、初めて揺れがなかった。

「俺が密告したせいで、お前らが囲まれた。なら、今度は俺が時間を稼ぐ」

 その言葉の意味を、僕はすぐには理解しなかった。

 だが、黒瀬の表情を見て、嫌な予感がした。

「黒瀬、何を」

 そのとき、校門の外から怒号が聞こえた。

 人が集まっていた。

 住民たちだった。

 眠らずに残った人、家族が昏睡した人、パニックに陥った人。数十人はいる。彼らは校門の外で、市の職員に詰め寄っていた。

「篠宮澪はどこだ」

 誰かが叫んだ。

「その子を出せ!」

「うちの子が起きないんだ!」

「隠すな!」

 僕の全身が冷えた。

 情報が漏れた。

 澪を隔離すれば赤い月が終わる。

 その紙に書かれていた噂は、もう町に広がっている。

 澪が小さく息を吐いた。

「早いね」

 その声があまりに静かで、僕はかえって怖くなった。

「篠宮」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「うん。大丈夫じゃない。でも、驚いてはいない」

 黒瀬が校門の方を見た。

 住民たちは、少しずつ押し寄せてきている。市の職員だけでは止められない。警察官の姿もあるが、彼ら自身も睡眠不足で顔色が悪い。

 朝霧が言った。

「裏門から出ます」

「車は?」

「校舎裏に一台あります。市民センターまで十分程度です」

 僕たちは走った。

 校舎裏の駐車スペースに、白いワゴン車があった。睡眠観察支援班と書かれた車だ。以前は恐ろしく見えた文字が、今はかろうじて残された避難手段に見えた。

 朝霧が運転席に乗り込む。

 僕と澪、水無瀬、黒瀬が後部座席に乗った。市の職員が二人、機材を抱えて乗り込む。車が動き出す直前、校舎の角から住民たちの一部が回り込んできた。

「いたぞ!」

「その子だ!」

 誰かが窓を叩いた。

 澪が身を縮める。

 僕は彼女を庇うように前へ出た。

 ワゴン車が急発進した。

 敷地を出ると、町はさらに異様な状態になっていた。

 道路のあちこちに車が止まっている。運転席で眠っている人。歩道に座り込んで動かない人。家の窓から赤い光が漏れている。防災無線は壊れたように同じ文言を繰り返していた。

「不要不急の外出を……不要不急の……睡眠中の異常を……不要……」

 信号はすべて赤だった。

 いや、赤に見えているだけかもしれない。

 赤い月の光が、町の色を奪っていた。

 車内で、澪はずっと黙っていた。

 僕は彼女の手を握っていた。

 彼女の手は冷たかった。

「月代くん」

 澪が小さく言った。

「何」

「もし、私を殺さないせいで、あなたのお母さんが目覚めなかったら」

「言うな」

「でも」

「言うな」

 僕の声は、自分でも驚くほど強かった。

 澪は目を伏せた。

「ごめん」

 謝らせたかったわけじゃない。

 でも、その問いに答えたくなかった。

 母か、澪か。

 町か、一人か。

 そんな天秤を僕に渡さないでほしかった。

 けれど赤い月は、まさにその天秤を僕の前に置こうとしている。

 市民センターに着く前に、道が塞がれていた。

 交差点に車が何台も放置されている。運転手たちは眠っているか、どこかへ逃げた後だった。朝霧は車を止め、舌打ちに近い息を漏らした。

「ここから歩きます」

「歩いて何分」

「五分」

 朝霧は車内の職員に指示を出した。

 簡易モニター、救急バッグ、予備バッテリーを持つ。澪には毛布をかける。バンドの警告は止まらない。黒瀬のバンドも赤く点滅していた。

 車を降りた瞬間、赤い月の光が肌に刺さった。

 町の空気が、夢の中とほとんど同じになっている。

 現実が薄くなっていた。

 水無瀬が言った。

「急いだ方がいい」

 その声もまた、遠く聞こえた。

 僕たちは交差点を抜け、市民センターへ向かった。

 途中、眠っている子どもを抱えた母親が、道路の端に座り込んでいた。

「起きて」

 母親は何度も子どもの頬を叩いていた。

「お願い、起きて。ねえ、起きて」

 澪が足を止めた。

 僕は彼女の手を引いた。

「見るな」

「でも」

「今止まったら、助けられない」

 その言葉が、自分でも嫌だった。

 誰かを助けるために、目の前の誰かを見捨てる。

 そういう選択を、僕たちはもう始めている。

 市民センターは、赤い光に包まれていた。

 入口には避難者が集まっている。中では簡易ベッドが並び、眠った人々が寝かされていた。職員と医療スタッフが慌ただしく動いているが、スタッフの中にも倒れている者がいた。

 体育館のような大ホールに入ると、電子音がいくつも重なって聞こえた。

 睡眠管理バンドのモニター音。

 心拍計の警告音。

 発電機の唸り。

 そして、人々の寝息。

 何百人分もの寝息が、同じリズムで響いている。

 朝霧は中央の機材へ向かった。

「バンドのネットワークに接続します。覚醒刺激を送れるか試す」

 職員たちが慌ただしく端末を操作する。

 僕はホールの中を見渡した。

 母がいた。

 入口近くの簡易ベッドに横たわっていた。

 僕は走った。

「母さん!」

 母は目を閉じていた。

 顔色は悪くない。眠っているだけに見える。だが、呼びかけても反応しない。腕には睡眠管理バンドがつけられており、赤く点滅していた。

 胸の奥が潰れた。

「母さん、起きて」

 肩を揺さぶる。

 反応はない。

 母の手は温かい。

 生きている。

 でも、戻ってこない。

 澪が僕の隣に立った。

 彼女は何か言いかけたが、言わなかった。

 僕は母の手を握りしめた。

 守れなかったとき、自分を殺さないでほしい。

 朝、母はそう言った。

 その母が、今、夢に沈んでいる。

 朝霧の声がホールに響いた。

「覚醒刺激、送ります」

 端末の画面にカウントが表示される。

 三。

 二。

 一。

 ホールのあちこちで、バンドが一斉に振動し、短い警告音を鳴らした。

 眠っている人々の体が、小さく震えた。

 しかし、目覚めない。

 朝霧の顔が険しくなる。

「もう一度」

 二回目。

 三回目。

 結果は同じだった。

 浅い眠りではない。

 町の人々は、すでに深い夢に落ちている。

 水無瀬が低く言った。

「中から呼び戻すしかない」

 朝霧は端末から目を離した。

 彼も同じ結論に至っていた。

 澪は、ホール中央へ歩き出した。

 僕は慌てて追いかける。

「篠宮」

「わかってる」

「何が」

「私が中心になれば、みんなの夢につながれる」

「だめだ」

「でも、他にない」

「それは十年前と同じだ」

 澪は振り返った。

「同じじゃない」

「何が違う」

「今は、私が選んでる」

 その言葉が、僕の怒りに火をつけた。

「選ばされてるんだよ」

 ホールの中で、僕の声が響いた。

「町が眠ってる。君を差し出せって人が叫んでる。母さんも倒れてる。そんな状況で、君が本当に自由に選べるわけないだろ」

 澪は黙った。

 僕は続けた。

「十年前も、きっとそうだった。いい子だから、強い子だから、みんなのためだから。そう言われて、君は選んだと思わされた。でも、それは選択じゃない。押しつけだ」

 澪の目が揺れた。

「じゃあ、どうすればいいの」

 その声は、初めて年相応の少女の声だった。

「何もしなかったら、みんな死ぬかもしれない。月代くんのお母さんも、黒瀬くんも、水無瀬くんも、白鳥さんも。私が生きたいって言ったせいで、みんなが目覚めなかったら、私はどうすればいいの」

「そんな責任、君が持つ必要はない」

「でも、持ってしまうよ」

 澪は泣いていなかった。

 でも、泣くよりも苦しい顔をしていた。

「持つ必要がなくても、持ってしまう。だって、私が中心なんでしょう。私が死ねば終わるかもしれないって知ってしまった。もう知らなかったことにはできない」

 僕は言葉を失った。

 黒瀬が近づいてきた。

「篠宮」

 澪が彼を見る。

 黒瀬は苦しそうに言った。

「俺は、お前に死んでほしくない」

 澪は少し驚いた顔をした。

「ありがとう」

「でも、町の人たちが目覚めなかったら、たぶん俺も迷うと思う」

 僕は黒瀬を見た。

 黒瀬は逃げなかった。

「最悪だろ。でも、本音だ。親が倒れて、友達が倒れて、子どもが倒れて、誰か一人で助かるかもしれないって言われたら、人間は迷う。俺はもう、自分だけは違うなんて言えない」

 黒瀬は唇を噛んだ。

「だから、今言っておく。俺が迷う前に、間違える前に、篠宮を殺すなって俺を殴ってくれ」

 その言葉は、ひどく不器用だった。

 だが、本物だった。

 水無瀬が言った。

「前の町では、みんな黙った」

 僕たちは彼を見た。

 水無瀬はホールの眠る人々を見ていた。

「誰か一人が犠牲になれば助かるかもしれないって話が出たとき、誰も賛成とは言わなかった。でも誰も反対しなかった。沈黙が、その子を殺した」

 彼の拳が震えていた。

「僕も黙った。怖かったから。自分が死にたくなかったから。あの子が『私が行く』って言ったとき、止めなかった。止めたら、今度は自分が選ばれるかもしれないと思った」

 水無瀬は澪を見た。

「だから、今度は言う。死ぬな」

 澪の表情が崩れた。

 初めて、涙が頬を伝った。

 そのとき、ホール全体の照明が赤く明滅した。

 発電機の音が乱れる。

 眠っている人々が、一斉に呻いた。

 朝霧が端末を見る。

「接続率、七十八パーセント」

 八割に近づいている。

 時間がない。

 澪は涙を拭った。

「私、死なない」

 彼女は言った。

 僕は息を止めた。

「でも、夢には入る。逃げていたら、たぶん終わらない」

「一人では行かせない」

 僕が言うと、澪は頷いた。

「うん」

 水無瀬も頷く。

 黒瀬が前に出た。

「俺も」

「黒瀬、お前は」

「俺も行く」

「危険すぎる」

「危険じゃない場所なんてもうないだろ」

 黒瀬は眠っている人々を見た。

「俺が密告したことで、赤い月に名前を渡したかもしれない。だったら、夢の中で取り返す」

 朝霧が近づいてきた。

「四人で夢に入るなら、身体の管理はこちらで行います。手首を接続し、心拍を監視する。危険値に達したら、外部刺激で引き戻す」

「引き戻せるんですか」

「保証はできません」

「正直ですね」

「今は、嘘をついている余裕がありません」

 朝霧は僕を見た。

「月代くん。君は殺す役に近い。夢の中で、最も危険な行動を取らされる可能性がある」

「知ってます」

「篠宮さんを傷つけそうになったら」

「止まります」

「止まれなかったら」

 僕は澪を見た。

 澪も僕を見ていた。

「止めてもらいます」

 黒瀬が僕の肩を叩いた。

「殴ってでも止める」

 水無瀬が言った。

「置いてでも戻す」

 澪が小さく笑った。

「みんな、言い方がひどい」

 それは、赤い月が出てから初めて聞く、澪の自然な笑いに近かった。

 僕たちはホール中央に簡易ベッドを四つ並べた。

 朝霧と職員たちが、僕たちの手首にモニター用のコードをつける。睡眠管理バンドは外さない。その上から、細い布紐で互いの手首を繋ぐ。

 僕の右手は澪の左手に。

 僕の左手は黒瀬に。

 澪の反対側は水無瀬に。

 水無瀬と黒瀬の手首も繋がれ、四人で輪を作る。

 中央には、白鳥のノート。

 それから、朝霧が古い写真を置いた。

 十年前の施設で撮られた、子どもたちの写真。

 幼い澪が写っている。

 澪はそれを見て、深く息を吸った。

「大丈夫?」

 僕が聞くと、彼女は頷いた。

「大丈夫じゃないけど、見る」

 朝霧が言った。

「目的は、町全体を夢から切断することです。篠宮さん一人に悪夢を集めるのではなく、町の記憶として全員に返す。理論上は、赤い月の中心を分散できます」

「失敗したら?」

 黒瀬が聞いた。

「全員が深い夢に沈みます」

「最悪だな」

「ええ」

 朝霧は否定しなかった。

 ホールの照明がまた赤く瞬いた。

 端末から警告音が鳴る。

「接続率、七十九・五」

 もう限界だった。

 澪が僕の手を握った。

「月代くん」

「何」

「もし夢の中で、私がまた殺してって言ったら」

「聞かない」

「うん」

「絶対に聞かない」

 澪は頷いた。

「じゃあ、私も月代くんが自分を犠牲にしようとしたら止める」

 僕は返事に詰まった。

 澪はじっと僕を見た。

「月代くんは、そういうことをしそう」

「しない」

「嘘」

「……できるだけ、しない」

「できるだけじゃだめ」

 澪の手に力が入る。

「私を一人で生き残らせないで」

 その言葉は、澪が初めて口にした自分の願いだった。

 誰かのためではなく。

 町のためでもなく。

 赤い月を終わらせるためでもなく。

 ただ、彼女自身の願いだった。

 僕は頷いた。

「わかった」

 黒瀬が隣で言った。

「約束したからな」

 水無瀬も目を閉じながら言った。

「破ったら、夢の底まで殴りに行く」

 澪が少しだけ笑った。

 朝霧の声が遠く聞こえた。

「開始します」

 睡眠導入剤は使わなかった。

 必要なかった。

 赤い月が、僕たちの瞼を閉じさせる。

 ホールの寝息が、一つの波のように押し寄せる。

 母の手を、最後にもう一度握りたかった。

 だが、僕の手は澪と黒瀬に繋がれている。

 それでいいのだと思った。

 一人ではない。

 誰か一人を差し出すためではなく、誰か一人に背負わせないために、僕たちは繋がっている。

 意識が落ちる。

 赤い底へ。

 夢の中で、僕たちは教室にいた。

 そこは二年三組だった。

 けれど、教室の壁はなく、外には町全体が広がっている。机には眠っている人々が座っていた。僕の母もいた。白鳥もいた。間宮もいた。榊先生も、貯水施設の女子生徒も、知らない子どもたちもいた。

 全員が、こちらを見ていた。

 黒板には、白い文字が書かれている。

《最も罪のない者を殺せば、全員が目を覚ます》

 澪が小さく息を呑んだ。

 黒瀬が吐き捨てるように言った。

「最悪だ」

 水無瀬は黒板を睨んでいた。

「前の町と同じだ」

 教卓の前に、幼い澪が立っていた。

 白い検査服姿だった。

 彼女は、今の澪を見上げて言った。

「今度は、ちゃんと終わらせて」

 澪の体が震えた。

 僕は彼女の手を握った。

「言葉を信じるな」

 水無瀬が言った。

「光景を見るんだ」

 その瞬間、教室中の人々が一斉に立ち上がった。

 彼らは声を揃えて言った。

「殺せ」

 母の声もあった。

 白鳥の声も。

 間宮の声も。

 町中の人々の声が、ひとつになって響く。

「その子を殺せば、目が覚める」

「その子が中心だ」

「その子が背負えば終わる」

「その子は強い」

「その子は選んだ」

 澪の手が冷たくなる。

 僕は叫んだ。

「黙れ!」

 声は教室に反響した。

 だが、人々は止まらない。

 黒板の文字が赤く変わる。

《篠宮澪を殺せ》

 僕の右手が、澪の首へ向かった。

 黒瀬が僕の腕を掴んだ。

「悠真!」

 水無瀬が背後から僕の肩を押さえる。

 澪は逃げなかった。

 でも、今度は言った。

「月代くん、だめ」

 その一言で、僕の意識が戻った。

 右手が止まる。

 指先は、澪の首の数センチ手前にあった。

 僕は歯を食いしばった。

 赤い月が、窓の外で膨らむ。

 教室の人々が、さらに声を強める。

「殺せ」

「殺せ」

「殺せ」

 僕は黒板を見た。

 最も罪のない者。

 その言葉が、急におかしく思えた。

 誰が決めた。

 澪が罪のない者だと。

 罪がないから殺していいと。

 罪がある者なら殺して悪いのか。

 そもそも、誰かを殺せば全員が助かるというルールを、誰が作った。

 赤い月だ。

 赤い月が、町にそう思わせている。

 十年前、大人たちが澪に言った言葉と同じだ。

 君は強い子だから。

 君なら背負えるから。

 君が受け止めれば、みんな楽になるから。

 それは優しさの顔をした暴力だった。

 僕は右手を下ろした。

 そして、黒板へ向かった。

 教室中の声が止まる。

 チョークが置かれている。

 僕はそれを握った。

 澪が息を呑む。

「月代くん」

 彼女は僕が何をしようとしているのか、気づいたのだろう。

「だめ」

 僕は振り返らなかった。

 黒板の赤い文字の下に、自分の名前を書いた。

《月代悠真を殺せ》

 教室が静まり返った。

 黒瀬が叫んだ。

「ふざけんな!」

 澪の声が震えた。

「約束した」

「わかってる」

 僕はチョークを置いた。

「でも、これは犠牲になるためじゃない」

 赤い月を見る。

「選ぶ相手を変えただけじゃ意味がない。澪を殺す代わりに僕を殺しても、同じだ。だから、これは答えじゃない」

 黒板の文字が滲む。

 僕は続けた。

「赤い月。お前は、誰か一人を選ばせたいだけだ。澪でも、僕でも、誰でもいい。誰か一人に恐怖を押しつけて、みんなが助かったふりをする。それを繰り返させたいだけだ」

 教室の床から黒い水が滲み出す。

 人々の顔が歪む。

 母の顔も、間宮の顔も、白鳥の顔も、知らない顔に変わっていく。

 赤い月の声がした。

「選べ」

 低く、重く、町全体の底から響く声だった。

「誰かを選べ。選ばなければ、全員が沈む」

 僕は答えた。

「選ばない」

 澪が僕の隣に立った。

「私も、選ばれない」

 黒瀬が反対側に立つ。

「俺も、選ばせない」

 水無瀬が、少し遅れて前へ出た。

「もう黙らない」

 四人の手首を繋ぐ紐が、赤く光った。

 黒板の文字が崩れていく。

《最も罪のない者を殺せば、全員が目を覚ます》

 その下に、別の文字が浮かび上がった。

《最も怖がっている者を差し出せば、全員が楽になれる》

 さらに下。

《十年前も、そうした》

 澪が息を止めた。

 教室の壁が崩れた。

 その向こうに、白い研究施設が現れる。

 十年前の夢。

 子どもたちの泣き声。

 大人たちの記録する声。

 幼い澪が、ベッドの上で目を閉じている。

 周りの子どもたちは、眠っている。

 研究者の一人が言う。

「媒体に恐怖が集中しています」

 別の声。

「このまま進めれば、他の被験者の悪夢は軽減される」

 幼い澪の唇が動く。

「もう、いや」

 誰も聞いていない。

 僕はその光景を見た。

 澪も見た。

 黒瀬も、水無瀬も見た。

 おそらく、ホールで眠る町の人々も見ている。

 赤い月が悲鳴を上げた。

 いや、悲鳴を上げたのは月ではなく、見ないふりをしてきた町そのものだったのかもしれない。

 夢の教室に戻ると、黒板の前に幼い澪が立っていた。

 彼女は泣いていた。

 今の澪が、ゆっくり近づく。

 そして、幼い自分を抱きしめた。

「もう、私だけが持たなくていい」

 澪の声が震えていた。

「返そう。みんなに。全部」

 幼い澪は、今の澪の胸の中で泣き続けた。

 赤い月が、さらに大きくなる。

 教室の天井が割れ、赤い光が降り注いだ。

 声がした。

「返せば、みんな壊れる」

 澪は顔を上げた。

「壊れても、知らないふりよりはいい」

 僕は彼女の横に立った。

「一人を壊して保つ町なら、そんなものは一度壊れた方がいい」

 黒瀬が言った。

「そのあと、直せばいい」

 水無瀬が静かに続けた。

「今度は、誰かを置いていかずに」

 赤い月の光が、僕たちを飲み込んだ。

 その直前、僕は見た。

 教室の隅に、白鳥玲奈が立っていた。

 彼女はノートを抱え、泣きながらこちらを見ていた。

 間宮もいた。

 榊先生も、知らない子どもたちも。

 彼らはもう「殺せ」と言っていなかった。

 ただ、見ていた。

 忘れられていたことが、ようやく見られる瞬間を。

 赤い光が、すべてを白く塗りつぶした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。