第7話 共犯
検疫官が来たのは、午後の光が家の廊下に斜めの線を落とす時間だった。玄関のチャイムは一度だけ鳴って、すぐ止んだ。鳴り続けないことが、最近の礼儀だった。母は台所の布巾を握った手をそのままにして、音のほうへ歩きだした。布巾は絞りきれず、床にぽたぽた水が落ちる。父は新聞をたたみ、工具箱を半分開いたまま立ち上がる。二人の肩は、同じ角度でこわばっていた。
「役場の者です。睡眠検疫の巡回です」
扉の向こうの声は、若いのに古びていた。古びて聞こえるのは、言葉が磨耗しているからだ。何度も同じ文を言い直し、角が擦り切れ、芯だけが残った。
母は小さく咳払いをして、チェーンをはずした。扉を開ける動作が途中で止まり、また進む。検疫官は腕章の青を見せ、顔だけを少し傾けた。ユウは廊下の奥からその光景を見ていた。靴は履いていない。裸足の足裏に床の冷たさが静かに登ってくる。
「失礼いたします。ご家族の睡眠状態、共眠の有無の確認です」
「共眠……は」
母の声が少し割れた。割れたところを、布巾の水がちょうど落ちて濡らす。父が前に出て、検疫官に会釈をした。会釈に込められた「家族を守る」は、そのまま「家族を疑う」にも繋がっていた。
「うちは、眠りません。規則に従っています」
「ありがとうございます。念のため、確認のための聞き取りだけ。最近、夜間に来客はありませんでしたか」
母と父の視線が、ほんの半秒ずれた。ずれは生きている証拠だ。ずれの間に、名前のないものが滑り込む。
「ありません」
「今後も、万が一、浅くでも眠る必要がある場合は、役場の体育館へ。ご存知の通り、共眠は推奨されておりません」
推奨されていないものが、いちばん人間らしいのだと、ユウは思った。考えを言葉にする前に、検疫官が書類を差し出した。紙の角は揃っていて、角の冷たさに汗がにじむ。
「匿名の密告がありました。『この家の子は、共眠をしている』と。確認までです」
母の指から布巾が落ちた。音は小さく、濡れた布は床にやさしく広がる。父はわずかに顎を上げ、視線をユウに寄越した。視線は叱責ではなく、問いだった。ユウは頷きもしなかった。頷けば嘘になり、首を振れば夜に戻れなくなる。
「学校のしおりも見ております。腕バンドの記録は今のところ正常。今夜も巡回いたします。なにかあれば、すぐに」
検疫官は頭を下げ、靴音を軽く置いて帰っていった。扉が閉まる。チェーンがかかる。金属の擦れる音が、やけに長く廊下に残った。
父は無言で物置に行き、錠を確かめた。ひとつ、ふたつ。いつもよりゆっくり、鍵を増やす。鍵が増える音は、家の中の空気を固くする。母は布巾を拾い、ぎゅっと絞った。もう濡れていないのに、絞り続ける。指の関節が白く浮いた。
「ユウ」
「うん」
「……ほんとうに、来客はないのね」
母の問いの中身は、うすい祈りだった。祈りに正確な答えを与えることはできない。ユウは背を伸ばし、廊下の窓を開けて風を通した。海の匂いはまだ薄い。赤い泡の残り香は、昼よりも遠くにいた。
「物置の錠、もうひとつ付ける」
父の声は、ねじを回す音と混ざって届いた。家族が家族を守るために、家族を疑う。疑う気配は、足音に似る。遠くで鳴りはじめ、近づいてくるときだけ音がする。通り過ぎれば、なにも残さない。残らないことが、いちばん残る。
夜までのあいだに、ユウは屋根裏へ上がった。ハシゴは軋む。天井裏の梁は熱を吸っていて、掌に粉を残す。梁の上、古い鞄の後ろに、たたんだ毛布がふたつ隠してある。どちらも保健室から借りたものと同じ色で、ふちの縫い目がほどけはじめている。ユウはそれらをビニール袋へ入れ、さらに古い段ボール箱に入れて、別の場所へ移した。移す先を選ぶのは、祈りに似ていた。ここなら大丈夫、とつぶやくたび、胸の内側で薄い紙が破れる。
物置の棚の奥に、古い扇風機と折りたたみ椅子のすき間があった。そこへ箱を押し込み、金具で固定する。父の付けた新しい錠は重く、鍵穴は小さかった。鍵穴の小ささは、息を細くする。細くした息で、ユウはハシゴを降りた。
ミサキへの連絡は、スマホから紙へ変えた。短い言葉で、住所のない地図を書く。家と家の間の曲がり角を二回、塀の割れ目、空き地の端、ブランコの影、海風の方角。紙は薄く、破れやすい。破れやすいものだけが、今は通り抜けられる。
夕方、裏通りのポストに紙片を挟んだ。赤いポストの口は、笑っているようにも見えたし、叫んでいるようにも見えた。挟むとき、風に紙がふるえた。ふるえたぶんだけ、落ち着いた。
日が落ちる前に、ユウは家を出た。母は何も言わずに指先を水にひたし、父は錠の確認を二度した。二度は、愛情の回数だった。表の通りを避け、石垣の暗い影を選んで歩く。港のほうから、鉄の匂いが少しずつ濃くなる。錆びた匂い。血に似た夕暮れの匂い。
海辺の廃遊園地は、町の地図からはとうに消えている。観覧車の骨組みだけが海の空に輪郭を残し、赤いゴンドラは半分ほど外され、残りは鎖で縛られたまま止まっている。錆の線が空へ向かって伸び、そこに風がひっかかる。鳥の声はしない。砂の上を猫が横切った。猫の足跡は、波打ち際で消える。
観覧車の支柱の影に入ると、潮風が音を低くした。鉄骨が鳴く。どこかに、まだ油の匂いが残っている。ミサキは、骨組みの足元に座っていた。膝を抱え、肩に薄いカーディガン。髪は海側へ流れて、耳が少し赤い。ユウを見ると、微笑んだ。微笑むだけで、体温が少し上がるのがわかった。
「来た」
「来た」
ユウは隣に座り、背を鉄の柱に預けた。鉄は冷たく、冷たいから安心した。安心すると、眠くなる。眠くなることが、罪の入口になっている。
「これ」
ミサキは小さな紙片を取り出した。図書館の白布の棚の下で拾った、半分の文字。袋から出すと、風が舐める。紙は少しだけ光を吸った。
「持ってくるなって、自分で決めたのに」
「持ってきていいよ。行き帰りのあいだだけ、守りになる」
「守り?」
「おまじないの別名」
「べつめい」
「うん」
紙片を指で挟んだまま、ミサキは観覧車のほうを見上げた。鉄の円は空にほどけ、月を囲むには足りない。赤い月はまだ上がらず、空は薄い青を残している。鳥居に貼られた標語の白は、ここまで届かない。届かないもののほうが、多い場所だ。
「検疫官、来た?」
「来た。密告があったって」
「誰だろう」
「わからない。わからないから、手の中のものを移動させた」
「毛布?」
「うん」
「ごめん」
「謝らないで」
「謝るほうが、楽だから」
「楽になって。今は、楽のほうがいい」
ミサキは小さく笑い、観覧車の足元に額をあてた。鉄の匂いが髪に移る。海から来た細い風が、錆の粉を少し運ぶ。粉は、まぶたの裏の重さに似ている。重さは、名前を持たない。持たないものは、そばに長くいられる。
「ユウ」
「なに」
「あなたといると、眠くなる。安心して」
その言葉は、ほんのわずかに甘く、すぐに刃の端に触れた。眠くなることは、今は肯定の反対側にいる。安心と、落下の距離が、指一本ぶんしかない。ユウは目を伏せ、砂をひとつつまんで指の上で転がした。砂の粒がひとつ落ちる音は、心臓の音より小さいのに、よく聞こえた。
「……ありがとう」
「変だよね。ありがとうって言うの、変」
「変なことほど、今は正しい」
「正しいって、こわい」
「わかる」
遠くで、町のサイレンが短く鳴った。三つの音のうち、二つで止まる。止まったあとの静けさが、いちばん長い。長い間に、誰かの夜が終わる。終わった夜の数は、張り紙の空白の狭さでわかる。
「シュウト、最近、どう?」
「正義を信じてる顔で、生きてる」
「尾けてきたでしょ、昨日」
「うん。話した」
「殴らなかった?」
「殴らない。殴ったら、ここに戻れない」
「戻る場所、だいじ」
「だいじ」
海は、赤い泡の縁取りを薄く残して、ゆっくり呼吸をしている。呼吸、という言葉をユウは避けて思った。波の上がる音、下がる音。音と音の間に、鐘の影が通り過ぎる。ミサキの肩に、ユウは毛布の代わりに自分の上着をかけた。布の重さはほんの少しで、重さのほうが負ける。
「紙、今度からどこに挟む?」
「観覧車の三番の柱の根元。ボルトの陰に隙間がある。潮でふやけるかもしれないけど」
「ふやけたほうが、見つかりにくい」
「そう思う」
ミサキは頷き、ポケットから短い鉛筆を出した。折れた芯の先が、すぐ紙を汚す。汚れは目印のように残る。字は小さく、直線は少し震えている。
会おう。
明日も。
三番の柱。
ここにいる。
紙片は薄く、けれど言葉は重くなった。重さは罪悪感の形と似て、同じポケットに入った。ユウは海のほうを見た。遠くで、灯台の白がまだ働いている。灯台の白は、夢の反対側にいる。反対側の光で照らしても、こちらの影は薄くならない。
「守るって、なに」
ミサキの声は、砂の上に置かれたガラス玉の音に似ていた。小さくて、無防備で、透明で。
「わからない」
「わたし、ユウに守られてる?」
「守ってるつもり」
「守られてると、眠くなる」
「うん」
「眠くなると、夢に近づく」
「……うん」
「守るって、わたしの夢を殺すこと?」
言葉の刃先が、ユウの胸の内側を細く撫でた。撫でられたところが、わずかに赤くなる。赤は見えない。見えないのに、鉄の匂いが強くなる。
「たぶん、今は、そうだ」
「わたしも、ユウの夢を殺してる?」
「たぶん」
「ごめん」
「謝らないで」
「謝るほうが、ここにいられるの」
「じゃあ、謝って」
ミサキは笑って、目を伏せた。その笑いは弱く、目を伏せる角度は深かった。浅い眠りのふちに座って、浅い眠りの反対側を見ているみたいだった。ユウは肩を寄せ、額をほんの少し触れさせた。額の皮膚は薄く、そこからすぐに骨へ触れた。骨は静かで、静かであることが救いだった。
「ここにいる」
「うん」
「ここにいるよ」
「いる」
ユウは囁き、ミサキは頷く。ふたりの間の空気が、すこしだけやわらぐ。やわらいだ空気の中で、眠気がふくらむ。ふくらみは花ではなく、泡だ。赤い泡の縁が、ふたりの会話を囲む。囲まれる前に、ユウは名前を呼んだ。
「ミサキ」
「うん」
「もし落ちても、戻す」
「戻して」
「戻れなかったら」
「そのときは、隣に落ちて」
「落ちるよ」
約束は短く、硬く、正確だった。正確に口に出された約束ほど、破るのが難しい。難しい約束しか、今は残っていない。
風向きが変わった。海のほうから、より強い鉄の匂い。赤潮の粉が空気に溶け、観覧車の骨と擦れて音を立てる。音は低く、鐘の手前に滞留する。町のほうで、またサイレンが鳴った。今度は一度だけ。音が短い夜は、どちらかの終わりが急だったという合図だ。
「紙、明日の分も書いておこう」
「うん」
ミサキは鉛筆を回し、もう一枚の紙をひざの上で押さえた。字はさらに小さくなり、線はかすかに曲がる。曲がる線は、壊れずに進む。まっすぐより、長く生きることがある。
帰りは別々に歩いた。ユウは堤防の影を選び、ミサキは砂浜の端を選んだ。影と端のあいだに、赤い泡の薄い帯が揺れている。泡の音はしない。しない音が、いちばんよく聞こえる。堤防の階段を上る足裏に、冷えが戻る。戻る冷えは、家の扉を叩く前の、最後の助けだ。
家に入ると、父はまだ錠の確認をしていた。母は縁側で指を水にひたしている。水は新しく、底に薄い光が揺れている。ユウは靴を脱ぎ、廊下に座った。母がこちらを見る。目の縁は赤くない。赤くないことは、泣きたいの反対だった。
「ユウ」
「うん」
「あなたは、なにもしてないのよね」
「……うん」
うなずく声は小さかった。小さいのに、壁に当たって跳ね返る。父が物置の鍵をもうひとつ増やした。金属の音が、今日最後の音になった。
自室に戻り、机の引き出しを開ける。いちばん底に、空の封筒を三枚。封筒の紙は薄いクリーム色で、角が少し丸い。そこに予備の紙片を入れ、地図の線の書き方をもう一度練習する。曲がり角の角度、塀のひびの長さ、観覧車の柱の位置。紙の上を鉛筆の先が歩く。歩く音が、微かに眠気を呼ぶ。
窓の外が赤くなる前に、机の上の針の箱を閉じた。閉じた音は、軽かった。軽いものは、落としやすい。落とさないために、机の隅に寄せる。寄せたところで、指を離す。離した指は、毛布の縁を探したが、そこに毛布はない。毛布のない夜は、風が通り過ぎるのが速い。速い夜には、言葉を多く置きすぎないこと。ユウは胸の中で、今日の決まりをひとつ増やした。
灯りを消すと、家のどこかで木が鳴った。乾いた音。柱の中の年輪が、ひとつ過去へずれる音。ずれた年輪の隙間に、誰かの夢が挟まらないように。挟まったとしても、抜く手を忘れないように。祈りに似たことを、ユウは心のいちばん小さな場所で言った。口には出さない。出せば、刃が鈍る。
夜は静かに満ちてきた。赤い月が雲の縁から現れ、黒い穴を真ん中に抱えた。穴は、こちらを見ない。見ないものほど、よく見える。港のサイレンは鳴らない。鳴らない夜は、誰かが静かに終わったのか、誰も終われなかったのか、どちらかなのだ。
ユウは目を閉じずに、天井の木目を数えた。数えるたび、廃遊園地の観覧車が頭の中で回転を始める。回らないはずなのに、回る。回るものの中心は空洞で、空洞のふちに、短い言葉が貼り付いている。
ここにいる。
ここにいる。
ここにいる。
言葉は三度で止まる。止まったあと、静けさが長い。長い間に、遠くの風が鉄と混じる。鉄の匂いはかすかに甘く、眠気に似ている。眠気に似ているから、罪は薄い。薄い罪は、すぐ重くなる。重くなる前に、ユウは両手を胸の上で組み、指の隙間で自分の脈を確かめた。ずれは小さい。その小ささが、今夜の共犯の形だった。
明日の朝も、扉は一度だけ鳴るだろう。巡回は来る。標語は増える。図書館の白布は重くなる。紙片は潮にふやけ、鉛筆の線は曲がる。曲がる線の上を歩いて、三番の柱へ行く。誰かの夜が終わる音が、また短く鳴る。鳴るたび、それでもと言う場所を探して、わたしたちは観覧車の骨組みに背を預ける。
守ることと、一緒に落ちることは、ほとんど同じだ。ほとんど同じものを、異なる名前で呼び直し、罪悪感の縁をやわらげる。それでも、刃は刃のまま残る。刃の上に指をそっと置き、切れない程度の圧で確かめる。切れないことが、切れていないことの証拠ではないと知りながら。
ユウは息をひとつだけ浅くして、夜の底を見つめた。見つめることだけが、今は刃に触れないやり方だと思った。外のどこかで、猫が鳴いた。遠くのどこかで、海が笑った。笑いは、すぐに錆びた音に変わった。錆びる音の向こうに、ミサキの囁きの形が残った。
安心して。
眠くなる。
その順番のまま、ユウは目を閉じないで、朝を待った。




