第6話 否認の街
町のいたるところに、白い紙が増えた。バス停の掲示板、商店街のシャッター、駐在所の塀、神社の鳥居の額。どれも同じ大きさで、同じ太さの黒い字が並ぶ。
夢はない。
眠らない。
見ない、言わない、書かない。
朝、登校の列がそれらの紙の前を通るたび、足音がわずかに合う。合うのは、気持ちがひとつになっているからじゃない。紙に足取りが吸い寄せられるからだ。紙の角は風で少しめくれ、ホチキスの針が陽に光った。神社の鳥居にまで貼られたそれを見上げて、誰かが苦笑した。「神さまは許すのに、紙さまは許さないんだ」と。笑いはそこで終わる。続ける余裕はなくなった。
掲示板には祭り中止の紙も増えた。夏に延期された春祭りは、さらに秋に延期され、ついに「未定」と書かれる。町内会の大鍋は倉庫の奥へ戻され、浅草紙の色札は日に褪せて白に近づいた。学校の廊下の掲示も同じだ。合唱祭はない。短距離走の記録会はない。図書館の開館予定は赤い斜線で消され、窓の内側から白布がぶら下がる。
物語の棚に白布がかけられた。図書室のそれは、まるで骨折した腕のギプスのようだった。外から見える開架の一角だけが真っ白に沈み、残りの百科事典や年鑑だけが露出している。布のふちから、青や赤の背表紙が一ミリだけ覗いている。色を隠されると、色のことばかり考えてしまう。ユウはそうやって、昼の終わりの黒板をぼんやり見た。
古典の時間、先生は赤ペンで本文の上に線を引いた。引かれる線は「夢」の字の上だけではない。「まどろみ」「まぼろし」「うつつ」「うたたね」。重ねた語のあいだの、やわらかい継ぎ目。そこに赤が引かれていく。教科書がやせる音がした。紙の上からことばが引き抜かれるたび、空気が一回ぶんだけ沈む。沈むのは眠気ではなく、意味の重さだ。
「ここは飛ばす。こっちも。語りの技法として重要だが、今は扱わない」
先生の声はいつもより細く、細い声はよく通った。赤い線が走ったページをめくる音が、教室のあちこちで重なった。シュウトは前の席で姿勢を正し、真っ直ぐ手を挙げた。
「先生、夢に関する記述を避けるのは、検疫指針ですか」
「……学校としての判断でもある」
「正義に従います」
正義、と白い口の中で音が転がる。シュウトの目の下の影はさらに濃くなっていて、それが「従う」の顔の形に似ていた。ユウは視線を黒板の上に逃がし、掲げられた標語を数えた。教室の壁にも白が増えていた。夢はない。眠らない。起こし合う。文字は整いすぎていて、人の字ではないように見える。けれど、誰かの手がそれを切って、誰かの手がそれを貼った。その温度だけは、どうしても消えなかった。
放課後、ユウとミサキは図書館の裏口へ向かった。正面は鎖で閉ざされている。裏の搬入口は半分だけロックがかかり、錆びた蝶番の隙間から夜の匂いが漏れていた。フェンスの影に立ち、しばらく風向きを確かめる。港の匂いではない、紙と布と人の体温の薄い混ざり。職員の足音はしない。ミサキが小声で言う。
「今日、どうしても見たい。あの棚」
「わかってる」
鍵の音を立てないように、押して、ずらす。扉は弱い抵抗のあと、息を吐くみたいに開いた。中は薄暗く、カウンターの横だけ非常灯の緑が滲んでいる。白布の棚は奥だ。布はピンで要所を止められ、めくるとバサ、と音を立てる。その音で見張りが来るかもしれない。けれど、ユウの指は止まらなかった。
白布の下の本たちは、眠ったふりをしていた。背表紙の金の文字は光を飲み、ページの端には古い貸出カードの名残が差さっている。手に取ると、紙は乾いていても温かい。人が読んできた温度だ。ミサキはゆっくりと開いて、ページを指でなぞった。
「眠りの描写、どこだっけ」
「付箋、残してないかな」
見覚えのある箇所へ指を滑らせる。そこに、四角い穴があった。きれいに、真っ直ぐ切られた穴。太さは指一本ぶん。穴の向こうのページが見える。文字が欠けている。欠けたところだけが、冗談みたいに白い。白は静かだ。静かであることが、いちばん怖い。
「切り取られてる」
「これも」
「これも」
開く本ごとに、眠りの言葉が四角く抜かれている。カッターの刃を新しくして切ったのだろう。縁に毛羽はない。紙の粉も残っていない。誰かが集め、どこかへ持っていった。持って行って、何にするのだろう。焼くのか。貼るのか。祈るのか。祈りと検疫は、隣り合っている。
「行方不明だね、ページの欠片」
「誰がやったと思う?」
「わからない」
「わたし、たぶん、先生は違うと思う。あの赤ペンの線は、切る手の線じゃないから」
「うん」
ことばを抜かれたページの穴から、次のページの字が覗く。覗く字は、別のことを言っている。眠りを言わない物語は、呼吸が短い。短い呼吸で、次の章の重さだけを運ぶ。ユウは本を戻し、白布をそろそろと下ろした。布は肩の上に落ちるみたいな音を立て、静けさが元通りになる。
戻ろうとしたとき、ミサキが指を止めた。「待って」。白布の下から、薄い紙片が一枚、床に落ちていた。誰かが切ったあと、見落とした破片。拾い上げると、半分だけ残った文字が見える。夢、とあったのか、ム、と読める線。細い縦画の途中でちぎれている。ミサキはその小さな紙を掌にのせ、しばらく見つめた。
「これ、持ってていい?」
「うん」
「意味はないけど」
「意味はないよ」
「でも、持ってるあいだだけ、わたし、ここにいる気がする」
掌の上の破片は、風に飛ぶほどの軽さだった。その軽さを袋に入れ、二人は裏口から外へ出た。鍵を戻し、音を消し、フェンスの影に溶ける。夕方の色は薄く、赤はまだ上っていない。上っていない時間帯の町は、たしかに息をしている。それでも標語は増え続ける。目に入るたび、視界の端の色が削れる。
角を曲がると、足音が一歩、遅れてついてきた。二歩、三歩。ユウが歩幅を変えると、足音も変わる。ふたりで並んだ影の少し後ろ、細い影が一本伸びた。振り向くと、シュウトが立っていた。制服の第一ボタンはとめたまま、腕には教科書の束。目の下の影は朝よりも深く、口の形は「従う」のままだ。
「どこ、行ってた」
問いは短い。短い問いは冷える。冷えると、返事が縮む。ユウは口を開き、ミサキの手首を小さく握った。ミサキの指が、破片の入った小袋をそっと押し込むように握り返す。
「本、借りようとして」
「開いてないよ、図書館は」
「閉まってた」
「裏から入ったろ」
言い切る声に、揺れはなかった。揺れがないことは、誠実の証明でもあった。シュウトは真面目だ。真面目だから、信じる。信じるから、強い。強いから、どこかで折れそうだ。
「君たち、眠ってるだろ」
言葉が地面に打ち込まれ、白線の上で音もなく跳ねた。ユウは足の指に力が入るのを意識した。殴る、という動詞は、簡単すぎる。簡単すぎる動詞は、すぐに世界を壊す。壊れた世界を、自分たちは今、どうにも直せない。殴れば、ここから先の夜に戻れない気がした。戻れない、という実感が皮膚の内側で冷たく伸びる。
「眠ってない」
「嘘をつくな。共眠、だろ」
「浅く」
「浅い眠りは眠りじゃないのか」
「浅いから、戻れる」
「戻れなかったやつ、見ただろ」
シュウトの声は少しだけ震えた。その震えの下で、別の音が続く。正義、という名の硬い板が胸の前に立っている音。板はまっすぐで、きれいで、重い。板の裏側に立っている人の膝が、どれだけ笑っているか、誰も見ない。
「おれ、報告した。音楽室の件も、老夫婦の件も。正しいことだと思うから」
「うん」
「今日のおまえらのことも、書くべきなのかもしれない」
「そう思う?」
「思う」
即答だった。即答は勇気の形にも、恐怖の形にもなる。ユウは呼吸の回数を数えず、言葉の数だけを数えた。言えることは少ない。少ない言葉を、なるべく壊さないように置く。
「殴らないよ、俺は」
「誰も殴るなんて言ってない」
「俺が、殴りたくなったから。今、それだけはしないって決めた」
シュウトの眉が、わずかに動く。動いた分だけ、影が浅くなる。影の浅さは、痛みの出どころを露出させる。露出は恥ではないのに、顔は勝手にそれを隠そうとする。シュウトは視線をずらし、神社の鳥居の紙を見た。夢はない。紙の上の言葉は、風に照らされても揺れない。
「正義は、安心する。おれは安心したい」
「うん」
「妹が昨日、また聞いた。“夢ってなに”。答えられないから、おれ、正義って言葉を見て安心するしかなかった」
「わかる」
「わかる?」
「わかる」
ミサキが小さく前へ出た。掌の中の破片が微かにこすれ、音にならない音がした。
「わたしも今、安心したい。安心するために人を抱くと、落ちそうになる。落ちそうになっても、抱かないよりはまし、だと思いたい。でないと、誰にも触れられない」
触れる、という動詞は、この町でいちばん重くなった。重いのに、いちばん残された。残されたから、使うたびに指が震える。シュウトはその震えを見て、口を固く結んだ。
「見たのか。君は」
「わからない。覚えてない」
「覚えてないのは、逃げだ」
「逃げでも、いい夜がある」
言ってから、ユウは自分の言葉の薄さを知った。薄いからこそ、今は、雪の上に落ちる灰みたいに残る。灰は目立たない。けれど、踏めば音がする。その音で、誰かが振り向くことがある。
「シュウト」
「……なに」
「ここで言い合っても、どっちの正しさも減るだけだ。報告するならする。でも、その紙を書く場所、体育館の枠の外にしてくれ。ベッドの横じゃないところで」
「どうして」
「人の眠気は、満ちるから。紙と紙の間に水が入るみたいに。言葉の音が強いと、満ちるのが速くなる」
「科学的根拠は?」
「ない」
「ないのに、言うのか」
「言うよ。ないから、言う」
強がりではなかった。強さもなかった。ただ、今夜のふちが見えた気がして、その線に沿って歩こうと決めた。その線から落ちる前に、ひとつでも言葉を置こうと。置いた言葉が、どこかのベッドの端にひっかかってくれればいい。
「……おまえ、ずるいな」
シュウトが言った。目が笑っていないのに、声はわずかにほどけた。ほどけた声は、風の温度に似る。港のほうから、ひと呼吸分の塩の匂いが届いた。赤い泡の残り香。それが、会話の端に沈む。
「ずるいから、生き延びるのかも」
「正直だな」
「正直なふりだよ」
「ふりって言うのも、ずるい」
「ずるいって言ってくれるの、助かる」
ユウは一歩、近づいた。殴らない距離。殴れない距離。殴ったら壊れてしまうものの数を数えて、ゼロにならないあいだは、手を開いたままでいる。開いた掌に、ミサキの指が軽く触れた。その軽さで、ユウの背中の強張りが少しほどける。
「今夜、体育館に来る?」
「……行く」
「なら、そこでまた話そう」
「話すことなんて、あるか」
「あるさ。妹の質問の答えを、たとえば一緒に考えよう」
「夢ってなに、か」
「そう」
「おれ、答えられないよ」
「だから、考える」
言いながら、ユウはミサキの横顔を見た。彼女は疲れている。瞼の端に薄い影が差し、目の奥に遠い光が刺さっている。髪の塩の匂いが、夕方の湿り気に混じる。体育館へ急ぎたかった。急ぎながらも、足を速くはしなかった。速さを上げると、影はついて来られない。影が置いていかれると、夜はすぐ崩れる。
「じゃあ、あとで」
シュウトが背を向けた。歩き出す肩は細く、正義の板は見えない場所に仕舞われた。仕舞っても、重さは消えない。重さと一緒に歩く背中は、頼りないのに、まっすぐだった。ユウとミサキはしばらくその背中を見送り、角で別れた。
体育館に近づくと、いつも通りの灯りと、いつも通りの紙の匂い。入口には新しい張り紙が増えている。「夢の否認を徹底」。青い文字に丸いスタンプ。笑っている顔のスタンプは、だんだん怖く見えてきた。笑いの輪郭は、夜の中で簡単に裂ける。裂け目から赤い色がのぞく。のぞいても、見るふりをやめない。
ベッドの列の端に腰を下ろすと、ミサキの肩が少し震えた。震えは寒さではない。彼女は小袋を掌の上で転がす。中の破片が、かすかに擦れて音にならない。ユウは毛布を広げ、肩にかけ、彼女の額に自分の額をほんの触れるだけで寄せた。
「ここにいる」
「……うん」
「ここにいるよ」
「いる」
秒針のない広間で、合図は自分の心臓が引き受けた。脈と脈。ずれとずれ。間と間。浅く落ちそうになるたび、呼び戻す。呼び戻しながら、さっきの白布の下を思い出す。四角い穴の向こうに、字が覗いていた。抜かれたことばの縁があまりにもきれいで、思わず触れたくなった。触れたら、指が切れそうだった。見えない刃の線。その線の上を、町はみんなで歩いている。
「ユウ」
「なに」
「今日ね、先生が引いた赤い線、少しだけやさしかった気がする」
「わかる」
「線は線なんだよ。でも、引き方に迷いがあった」
「迷いは、よかった」
「うん。正義に従いながら、迷ってくれてる。そういう人は、まだここにいる」
ミサキの声は毛布に吸われ、布の目のあいだに留まる。留まっているあいだだけ、鐘は遠い。遠い、と言い切れない距離にいるのに、遠いと名付ける。名付けることは、いつだって祈りに似ている。
やがて、シュウトが入ってきた。入口で腕章の光を検疫官に見せ、ベッドのあいだを真っ直ぐ歩いてくる。足取りは固いが、目は硬くなかった。ユウを見る。ミサキを見る。少しだけ逡巡して、となりのベッドに腰を下ろした。
「おれ、書かないことにする。図書館の件」
「ありがとう」
「ありがとう、って言われる筋合いない。正しいことではない」
「正しい言い方ではないけど、ありがとう」
シュウトは息を吐き、天井を見上げた。「妹にさ、こう言ってみることにした。“夢ってのは、見ないでいるときに残る形だ”って。うまく言えないけど」
「うまい」
「うそつけ」
「うそじゃない」
ミサキが笑った。笑いは小さく、ほどけて、消える。消えると、少し寒くなる。寒くなったぶんだけ、毛布を寄せる。寄せた肩の上に、標語の白が遠く光る。夢はない。眠らない。見ない、言わない、書かない。書かないと、紙は増える。増えた紙の影が、町の輪郭を細くする。細くなった輪郭を触って、確かめて、今夜も落ちないでいる。
夜半、誰かのすすり泣きが遠くで細く続き、やがて止んだ。止む前に、何度か呼び戻す声が重なった。呼び戻す声は、似てくる。同じ言い回し、同じ速度。けれど、それぞれの名前だけは、毎回違った。違う名前が、同じ浅さで揺れる。その揺れの上に、わたしたちは横になる。
ユウはミサキの手首に触れ、わずかなずれを確認した。ずれは生きている。ずれが生きているあいだは、戻れる。戻れない夜が来たときのことを考えるのは、明日にする。明日は、来る。来るたび、標語は増え、本はやせ、赤い泡は岸に沿って縁取られる。けれど、破片は掌に残る。残るものがあるなら、ここにいると言える。
「ここにいる」
「いるよ」
ふたりの声の間を、シュウトの小さな息がつないだ。彼は目を閉じないまま、天井の白を数えている。白は一定で、見ていると眠くなる。眠くなる前に、誰かが肩を叩く。叩く手は、殴る手とは違う。違う手を、どうか忘れないでいられますように。ユウは目を閉じないまま、胸の内側で小さく祈った。祈りは紙に書かれない。書かれないものは、今夜だけ、救いの形に似ていた。




