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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第4話 夢を殺す方法

 共眠のやり方は、黒板の端から始まった。誰が最初に書いたのか、だれも覚えていない。チョークの粉で白くなったその隅に、三つの短い文が並んだ。

 肩と肩。

 額と額。

 脈と脈。

 深く沈まないこと。揺らすこと。呼びかけること。

 科学の授業でも、保健の教科書にも載っていないやり方だったのに、教室の空気はそれをすぐに受け入れた。受け入れたほうが、崩れにくいから。受け入れないでいるには、夜が長すぎるから。

 保健室へ行くと、奥村先生は「科学的根拠はない」と前置きしてから、畳まれた毛布を机の上に積んだ。茶色、クリーム色、病院から借りた青いもの。毛布はやわらかくて、ふちの縫い目に擦り切れがあった。毛布の山の向こうで、読み取り機の小さなランプが青く瞬いている。

「ほんとうは、こういうのを配るのは良くないのかもしれない。でも今は、身体を冷やさないで、浅く眠るほうがいい。眠らないより、浅く眠るほうが、人間には優しいの」

 先生の言葉は、いつもよりゆっくりだった。早口では崩れてしまう場面がある。ゆっくりなら、とりあえず形は保てる。毛布を両腕に抱えたミサキが、目だけで笑った。笑うというより、目の縁を少しだけやわらげた。

「ユウ、今夜、カーテン二重にしていい?」

「うち、両開きのやつだから、洗濯ばさみで止めればいける」

「秒針、合わせよう」

「合わせよう」

 決め事は、ふたりを支える柱になった。柱に背中を預けるように、放課後の鐘のあと、わたしたちは町へ散った。赤はまだ空に出ていない。出ていないのに、港のサイレンの根っこは昼の底でも生きていて、耳の奥でごく薄く鳴っていた。

 ミサキの部屋は、子どものころからほとんど変わらない。壁際の本棚、机の上に並ぶ消しゴムの破片、小さなガラスの置きもの。窓は南を向いていて、カーテンは薄くて、風が通るとふくらむ。ふくらむのが好きだったのに、今はふくらみが怖い。風が入ると、町全体がほどけそうになる。だから、洗濯ばさみを使って二重にした。布どうしが重なる音は、やさしい紙の音に似ている。

 秒針は壁の時計で数える。六十の間に、呼びかけを落とす。乾いた言葉をゆっくり濡らすみたいに、ユウは声を低くした。

「ここにいる」

 ミサキが頷く。秒針が次の目盛りに触れるたび、もう一度。

「ここにいる」

 声は細くなる。細いのに、部屋の隅まで届く。机の引き出しの奥や、カーテンの内側や、毛布の目のあいだの空気に分けて置かれていく。置かれた言葉は、耳よりも先に皮膚に触れ、皮膚から骨へ入っていく。

 「肩と肩」は簡単だった。肩の丸いところを、そっと寄せる。寄せすぎない。押さない。押すと眠くなるから、寄せるだけ。

 「額と額」は、少しむずかしい。額は熱を持つ。熱は浅い眠りに包帯を巻き、包帯は重くなる。重さに負けないように、ほんの触れるだけ。

 「脈と脈」は、一番むずかしかった。指の先の薄い皮膚の下で、鼓動が別のリズムを叩いている。ユウの「トン」と、ミサキの「トン」が、時々ずれて、時々重なる。ずれがあるから、ふたりはふたりでいられる。重なりがあるから、ふたりはひとつにならずに、そばにいられる。

「秒針、もう少しゆっくりだったらいいのにな」

「遅い時計に変える?」

「それも、こわい」

「だよね」

 窓を二重にしても、外の世界は薄く入り込んでくる。近所の家の食器の音、風の方向を変える灯台の小さな鳴き声、遠くの道路を渡るトラックのブレーキ。音は脈よりもすこし速い。速いのは、夜のせいだ。

 うとうと、という言葉はやさしいけれど、今の町では刃の側にいる。うとうとに、ふたりで少しだけ身体をゆだねて、秒針に引き戻される。毛布の上でまつ毛が触れ合う。ミサキの呼吸は浅く、喉の奥であたたかい。あたたかさが怖くなる前に、ユウは囁く。

「ここにいる」

 それから、ミサキの口から欠片のような言葉がこぼれた。糸のはしっこみたいに、ほぐれた声の欠片。

「海の底で、鐘が鳴っていた」

 ユウの背中が、薄く冷えた。鐘、という音の形が、部屋の白い壁に波紋を描いた。波紋は色を持たないのに、赤の手前の薄い色でにじんだ。ユウはミサキの肩をそっと叩いた。叩くというより、呼び戻す。

「ミサキ」

 まぶたが持ち上がる。瞳にユウが映る。映るまでの時間が、わずかに長かった。

「……ごめん。今、落ちた?」

「すこしだけ」

「なんて、言ってた?」

「覚えてる?」

「覚えてない」

「なら、いい」

 言ってから、胸が痛んだ。「いい」という言葉は便利で、何もなおさない。けれど、その便利さがなければ、今夜はもたない。ミサキは額に手を当て、ひたいの熱を確かめた。熱は少しあって、人間の温度だった。

「鐘、ってさ」

「うん」

「教会の鐘じゃなくて、灯台の鐘でもなくて、もっと、沈んだとこにあるやつ。誰も鳴らしてないのに、鳴ってるって、そういう感じ」

「誰の名前も呼ばない鐘?」

「ううん。呼んでる。誰かの名前の形で。でも、きっと、その人の名前じゃない」

 言葉が怖くなる前に、秒針が助けに入る。ひとつ進んで、ユウは囁く。

「ここにいる」

 夜が少し深くなる。港のサイレンが一度だけ短く鳴いて、止む。止んでいる間の静けさが長い。長い間に、町外れの老夫婦の家の前を、冷たい風が通り過ぎる。ふたりはいつも並んで歩いていた。冬には厚いコートを着て、夏には麦わら帽子をかぶった。ユウは小さい頃、その二人に飴をもらったことがある。白い紙に包まれた、十円の、すこし湿気た飴。湿けた甘さは、すこし、やさしかった。

 朝、その老夫婦が同時に亡くなって見つかった。手は離れていて、枕は別々で、けれど枕元には結婚当初の白黒写真が置かれていた。太陽で色あせた庭先、笑っている若いふたり、手を握り合う影。写真の角はひとつ折れていて、そこだけ白い三角ができていた。検疫官は淡々と記録し、役場の車は静かに去った。近所の人は玄関先で手を合わせ、誰かが言った。

「愛は、夢を殺すのかね」

 返事が風に混ざって聞こえなかった。愛、という言葉はこの町では大きすぎる。大きい言葉は、薄い板の床をすぐに抜く。抜いたあとは、穴になる。穴という言葉は、夜の月の中心と同じ形をしている。ユウは廊下の端で立ち止まり、写真の中の笑顔を思い出した。写真の笑顔は、音を持っていない。持っていないのに、朝の鳥の声と同じ方向へ、なぜか心を引っぱる。

 登校すると、保健室には新しい紙が増えていた。「浅い眠りのすすめ」。図解で、肩と肩、額と額、脈と脈。紙の角に、奥村先生の丸い字で小さく書いてある。

 科学的根拠はまだありません。けれど、夜を渡るための橋は、いくつあってもいい。

 シュウトは黒板の前で、チョークを握ったまま動かなかった。目の下の隈はさらに深く、声は低くなった。

「ユウ。おれ、あの老夫婦の話、役場に出したらいいのかな。夢の内容はわかんないけど、写真が置いてあったってこと、なんか、関係あるかもしれないし」

「報告するのは、正しいって、昨日、言ってた」

「ああ。言ってた。今朝、妹に“愛ってなに?”って聞かれて、やっぱり答えられなかったけど」

 シュウトは笑わなかった。笑わないことは、新しい正しさのひとつになりつつある。無理に笑わない。笑うふりをしない。できることだけする。シュウトはチョークをほっそりと握り直し、黒板に小さな字で書き足した。

 浅く眠る。隣にいる。呼び戻す。

 その字は、一行書かれるごとに粉になり、空気に浮いた。浮いた粉が窓の光を拾って、目に見えない雨になった。雨という言葉は、この町ではとうの昔に止んでいるのに、粉の雨は降り続ける。

 夜に戻るまでのあいだ、世界は白い。白い板書、白い紙、白い雲、白い花。葬式の白は朝の白よりも重く、花の匂いは、線香よりもよく笑う。笑う匂いの中で、娘や息子の年齢を推し量る人たちの声は、なるべく静かだった。老夫婦の棺の間には、白黒写真のコピーが置かれた。コピーは、元の写真よりも遠かった。遠いのに、見つめる時間は長い。長いほど、胸の奥に柔らかい傷ができる。柔らかい傷は、夜に痛む。

 ミサキは葬式に来なかった。学校に残り、図書室で毛布を畳む手伝いをしていたらしい。帰り道、ユウは灯台へ寄った。昼間の灯台は、白くて眩しい。階段の木はぎいぎい鳴り、手すりの塗料は剥げかけ、手のひらに薄い粉を残す。上まで登ると、町が遠く戻る。赤はまだいない。いないように見えるだけで、空のどこかにふくまれている。ユウはフェンスに額を寄せ、遠くの海を見た。波はゆっくりで、音は届かない。届かない音の代わりに、頭の中に鐘のかたちが浮かぶ。海の底で鳴っている鐘。鳴らしているのは誰か。誰でもないのか。誰でも、なのか。

 夜が来る。来ると決まっている。秒針は昼よりも正確だった。ミサキの部屋のカーテンは二重で、洗濯ばさみは四つに増やした。窓際に洗面器。針の箱はテーブルの端。毛布は二枚。ひとつは脚、ひとつは肩。

「今日は、寝返りしたら起こすって決めない?」

「いいよ」

「後ろに倒れたら、肩。前に倒れたら、手首」

「脈のほうを」

「うん」

 肩と肩、額と額、脈と脈。三つの柱に、今日の決め事を結ぶ。秒針が、最初の「ここにいる」を呼ぶ。ユウは囁く。ミサキは頷く。しばらくすると、瞼の重さが、自分たちの年齢より古くなる。古い重さは、毛布の縫い目の上でよく滑る。滑る前に、言葉を置く。

「ここにいる」

 うとうと、と意識が薄く溶ける。溶けたところで、ミサキの唇が少し開く。こぼれる言葉は、欠片になりきれず、ほこりみたいに軽い。

「水……ひかりが、逆さに……」

 ユウは、肩。そっと叩く。呼び戻す。ミサキの呼吸が、ひとつひっかかって、戻る。目の縁にほんのり水がたまる。涙になる前に、ユウはまた囁く。

「ここにいる」

「ありがと」

「なんか見えた?」

「いい。覚えてない」

「なら、いい」

 言葉に、少し罪悪感が混じる。罪悪感は、今夜も薄く丸い。丸いのは、転がるからだ。転がる音がすれば、起きていられる。転がる音がしなければ、鐘の音が来る。鐘の音は、水の中を歩くみたいに遅くて、遅いのに、すぐそばにある。

 夜の真ん中で、一度だけ風が強く吹いた。カーテンの洗濯ばさみが鳴り、布が小さく揺れる。揺れに合わせて、秒針がすこしだけ長く止まった気がした。止まった気がするだけで、時計は動いている。わたしたちは、動いているものに合わせて生きるしかない。止めることは、できない。

 「愛は夢を殺すのか、それとも夢が愛を殺すのか」

 昼に聞いた問いが、夜の端で静かに顔を出す。ユウは答えをもたない。もたないまま、ミサキの手首に触れ、脈のずれを撫でる。ずれは小さく、ふたりの間にちょうどいい。答えがあったら、ずれが消える。消えたら、だれかの肩が落ちる。落ちた肩を、誰が起こすのか。起こす手を、誰が握るのか。

「ユウ」

「うん」

「もし、もしだよ。わたしたちがほんとうの夢を見てしまったら、次の夜、またあなたはここにいる?」

「いる」

「いて」

「いるよ」

 ミサキは目を閉じないまま、笑った。笑いは薄く、けれど確かに、部屋の空気をやわらげる。やわらいだ空気は、毛布の端に吸い込まれる。毛布の縁の糸が一本飛び出していて、ユウはそれを指で丸めた。丸めて、ほどかない。ほどいてしまうと、布は布でなくなる。

 やがて、窓の向こうが白くなる。赤はまだ天の端に残っている。黒い穴は、薄くなった。薄くなっても、かたちは消えない。消えないものを、見ないでいるためには、見ているふりを続けるしかない。ユウはカーテンの隙間を手のひらで押さえ、朝の匂いをひと呼吸ぶんだけ入れた。新しい空気は、冷たくて、少し甘い。甘さは、今日をはじめるための最低限の糖分だった。

 朝食のパンは固く、コーヒーは薄かった。母の目は赤くなく、父は新聞の同じ行を何度も指でなぞった。なぞった指先は白く、爪の根元が乾いている。ユウは食器を片づけ、縁側の洗面器の水を捨て、新しい水を張った。水面に光がすべり、光は一瞬だけ鐘のかたちに見えた。見えただけだ。音はしない。

 学校へ向かう道の途中、郵便局の掲示板に新しい紙が貼られていた。「睡眠検疫 協力ありがとう」。黒い字の下に、小さな赤いスタンプが押されている。スタンプは丸く、笑っている顔の形をしていた。笑っているのに、誰も笑わない。笑うべきでない場所が増えたから。笑うことをやめるのではなく、笑う場所を選ぶために。

 昼休み、音楽室のピアノのふたが閉じられ、鍵がかかった。鍵の小さな銀色が、窓の光を吸った。誰かが「鐘の音って、ピアノの低いところに似てるよね」と言い、誰かが「似てない」と答えた。似ているかどうかは、どちらでもいい。話しているあいだだけ、鐘は水の底に留まっている。

 放課後、ユウは灯台には行かなかった。行くと、海が必要以上に近くなるから。代わりに、学校の屋上で風を受けた。風はまだ冷たく、冬の練習をしている。フェンスに額を寄せると、鉄の匂いがした。額の骨に、遠い鐘の残響がじわりと届く。届く前に、ユウは額を離した。

 次の夜が来る。来るたびに、決め事は増える。増えるたびに、ふたりの間に細い橋が何本も架かる。橋を渡る順番、戻る順番、呼びかける順番。順番は、ひとまず秩序になる。秩序は、壊れる前の壁になる。

 カーテンは二重。洗濯ばさみは四つ。洗面器の水は新しく、針の箱は閉じたまま。毛布は二枚。肩と肩、額と額、脈と脈。秒針は、壁の上で淡々と働く。ユウは声を置く。

「ここにいる」

 ミサキが頷く。目の縁が少しだけ赤い。昼の涙ではなく、夜の緊張で擦り減った赤だ。ユウは指先で彼女の手首を包み、ずれの幅を読む。読むことは、わかることと違う。わからないことを、読める範囲で読む。読めるところから、呼び戻す。

「ここにいる」

 ミサキのまぶたが、ゆっくり重くなる。秒針に合わせて上がり、また下りる。欠片のような言葉は、今夜はこぼれない。こぼれない代わりに、息の間がほんの少し広くなる。広くなったところへ、どこか遠い鐘の影が入ろうとする。入ってくる前に、ユウは肩をやさしく叩く。

「戻っておいで」

 目が戻る。視線が合う。合うたびに、部屋の四隅がすこし明るくなる。明るいことは、こんなにも頼りないのに、いまはそれで十分だ。十分であり続けるために、わたしたちは決め事を増やす。増やすたび、紙が増え、毛布がすり減る。すり減るたび、夜はまた来る。

 老夫婦の葬式は明日の朝だという。白い花はもう並んでいるだろう。写真はコピーのままだろう。コピーは遠く、遠いものほど、長く見られる。長く見れば、どこかに答えが出ると思うかもしれない。けれど、答えはたぶん、出ない。出す必要も、ないのかもしれない。今夜は、ただ、ここにいる。

 愛は夢を殺すのか。夢が愛を殺すのか。

 その問いの上に、わたしたちは毛布を広げる。広げた毛布は、最低限のあたたかさで、最大限の怯えを包む。包んだものが何かは、明日の朝には半分忘れられている。忘れられることは、救いになる。忘れないことは、祈りになる。祈りと救いの境目に、わたしたちは座り、肩を寄せ、秒針に合わせて囁く。

「ここにいる」

 港のサイレンが、夜の底で短く鳴る。赤い月は、また昇る。黒い穴は何も言わないで、じっとこちらを見ている。見つめ返す力は、まだ残っている。残っているあいだ、わたしたちは橋を渡り続ける。肩と肩、額と額、脈と脈。浅い眠りに、互いの名前の形を結びなおしながら。

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