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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第2話 眠りの検疫

 町役場の玄関に、黒い布が垂れていた。半旗でもない、ただの黒。入口のガラス戸を押すと、塩の匂いと古い書類の匂いが混ざった空気がまとわりつく。掲示板には「睡眠検疫」の大きな紙が貼られ、白い紙の上に黒い文字がぎゅうぎゅう並んでいた。読めば読むほど、胸の中に粉のような不安が降り積もっていく。


 睡眠時間の申告。家庭ごとの見張り番の当番表。夜間、灯を絶やさないこと。配布される覚醒用品の受領サイン。検診用の腕バンドの再装着。違反者は指導の対象となる。指導、という言葉はやさしく見えるのに、紙の角は鋭く尖っていた。


 窓口では、漁協の人たちが並んでいた。顔見知りばかりなのに、誰も目を合わせない。配布カウンターに若い職員が二人増え、苦い飴の入った透明な袋を渡している。袋の底には、針とアルコール綿。そして、青いプラスチックの桶。桶には、冷水用、と黒ペンで書いてあった。ユウの母親は受領書に名前を書き、袋を受け取ると、ユウの手首にそっと触れた。


「今日は、わたしが見張り。明日はお父さん。土曜は交代で」


「わかった」


 言葉は短いほうがよかった。長い言葉は、どこかに隙間を作り、そこに赤い色が入り込んできそうだった。


 学校も、空気の目盛りがひとつ下がったみたいに静かだった。夜間待機は当たり前になり、体育館の床には借りてきた折りたたみ椅子が並べられている。配られたトランプ、古い映画のDVD、図書室から運ばれた雑誌の束。笑い声はあるにはあったが、乾いていた。砂の上を指先でこすったみたいな、音の軽さ。誰かが笑うと、別の誰かも笑う。けれど、それで温度は上がらない。


 保健室の扉は開け放たれ、机の上では腕バンドの読み取り機が休みなく鳴いている。ピ、ピ、と機械が音を立てるたび、誰かの記録が紙に印字され、奥村先生がホチキスで留めた。午後一番、先生は教室を回りながら、小さな箱を配った。蓋を開けると、黒い飴が並んでいる。口に含むと、漢方みたいな苦さが舌に溶けた。飴が小さくなるほど、苦みが骨にまで沈んでいく。友達のコウタが顔をしかめて言った。


「これ、ほんとに効くのかな」


「効くかどうかじゃなくて、やってるってことが大事なんだって」


 答えたのは理科係のミチルだ。カーテン越しに赤くなりかけた空を見て、ミチルは眼鏡を押し上げた。真面目な言葉は、時々、頼りになる。頼りになるふりをしてくれる。みんな、そのふりに寄りかかる。


 夜間待機の時間になると、教室は一瞬だけ祭りの準備に似た賑わいを見せる。机を後ろに寄せ、中央に小さなスペースを作る。ミサキはそこに薄い毛布を敷き、空いた椅子に座って、紙コップのココアを両手で包んだ。


「苦いの、口に残ってる」


「飴、まだある?」


「あるけど、もうやだ」


 ミサキの笑いは、ふと小さくなる。笑う顔のあたりだけ時間が薄く伸びたみたいに見えた。ユウは自分のカップに残ったココアを一口飲み、机の上で手を組んだ。ミサキの視線が、腕に巻かれた青い点に落ちる。光は穏やかに明滅している。穏やかであること自体が不気味だった。


 体育館では先生たちが交代で映画の上映をしていた。古いコメディ。笑うところで、笑いは起きる。けれど、それが波にならない。拍手も起きない。ユウたちは椅子の背にもたれて、薄いスクリーン越しに揺れる光を眺めた。映画の中の人たちは、何も知らない顔をしている。画面の端にちいさな丸い照明が並び、それが星みたいに見えた。星は静かだった。今、空にあるものは、星とは違う。


 休憩のとき、女子たちが輪になって、毛布を肩にかけた。誰かがそっと、誰かの腕に額を寄せる。誰かの手が、誰かの背中に触れる。共眠、という言葉が目の前で形になっていく。深く落ちないために、浅く寄り添う。保健委員のチエが、小声で言った。


「これは、先生に言わないの。ちゃんと起きてる。ちゃんと…ね」


 言葉は、そこで曖昧に消えた。曖昧は、やさしい壁になった。壁の向こうに何があるのか、誰も見に行かない。


 ユウとミサキは、教室の隅に目をやった。そこは暗くて、人の流れから少し離れている。黒板のチョークの粉がうっすら積もり、窓際には鉢植えのミニサボテンが並んでいる。ミサキは小さく息を吐き、指先で自分の手首の皮膚を撫でた。ユウは頷いて、椅子から腰を上げた。


「ちょっとだけ」


「うん。ちょっとだけ」


 教室の隅で向かい合うと、夜の学校の匂いがした。古い木の匂いと、窓の隙間から入る冷たい空気。ミサキが手を差し出し、ユウの手首に触れる。体温が移るほどではない、浅い触れ方。けれど、ちゃんと触れている。ユウも、ミサキの手首にそっと指を置いた。皮膚の下に、ぬるい鼓動があった。強くも弱くもない、人のいる証拠。ユウは声を低くした。


「ここにいるよ」


「いるね」


 それだけで、少し世界の輪郭が戻る。教室の明かりが反射して、窓の外の暗さに色が混じる。ミサキは目を伏せ、言葉を探すみたいに唇を噛んだ。


「深く落ちないように」


「落ちない」


「落ちないって、言って」


「落ちない」


 約束みたいに言うと、ミサキの肩から少し力が抜けた。目を閉じてもいい場所と時間は、今の町にはほとんど残っていない。けれど、互いの手首に触れていると、急に眠気が柔らかくなる。眠気は危険だけど、柔らかさは生きている証でもあった。


 帰り道、空には薄い雲がかかり、赤い月の輪郭がぼやけていた。ぼやけた輪郭の内側に、また黒い丸がある。雲が流れるたび、海面に赤い筋が伸びては、途切れて、また伸びた。防波堤の上を歩くと、足元のコンクリートが夜露で光り、遠くの灯台はまだ灯を点けていなかった。


「明日も待機かな」


「たぶん」


「家でも…」


「うん。交代制」


 ミサキはポケットから小さな袋を取り出した。苦い飴が二つ残っている。ひとつをユウに渡し、ひとつを自分の舌の上に置く。飴はすぐには溶けない。少しずつ角が削れて、形が丸くなる。丸くなるほど、眠気は遠くにたゆたう。たゆたう、という言葉が、やけに水っぽく響いた。


 翌朝、港の倉庫の前に人だかりができていた。朝の光は白いのに、倉庫の影はやけに濃い。漁師の男が、縄の上に横たわっていた。顔は穏やかで、目は閉じている。眠っているとしか見えないのに、冷たさが身体全体に広がっているのが、素人にでもわかった。誰かがそっと顔に布をかけ、誰かが祈るふりをした。ふりという言葉に触れるだけで、胸の奥が痛んだ。


 男の娘が泣いていた。まだ小学六年くらいの顔。涙はとめどなく流れるのに、声は思ったほど出ない。泣きながら、何度も何度も同じ言葉を言った。


「うちは夢なんか見ない。見ない。見ないんだ」


 誰かが肩に手を置く。誰かが頷く。頷きは、ここでは合言葉だ。否認、という言葉は本来冷たいもののはずなのに、ここではぬるい湯みたいに町を包む。温度はあるが、何も洗い流さない。葬式がすぐに決まり、白い花が並べられた。焼香の列は静かに進み、持ち寄られた香典袋には震えた字が並ぶ。祭壇の前で、誰かが低い声で言った。


「誰も夢なんて見ていない」


 列のひとりひとりが、その言葉を自分の口の中で転がし、同じ形で吐き出した。誰も夢なんて見ていない。否認は、悲しみの新しい言い方になった。悲しみと嘘の境目は曖昧で、その曖昧さゆえに人は立っていられるのかもしれなかった。


 放課後、学校の掲示板には「共眠」に対する注意が貼られた。抱き合って寝ること、または過度な接触は控えるように。浅い眠りの推奨。睡眠計の青い点が一定以上の状態から外れた場合は、隣の者が揺り起こすこと。揺り起こす、という言葉が具体的すぎて、読んだ瞬間に背中がぞわっとした。具体は、安心を連れてこない。現実だけを連れてくる。


 それでも、夜になると誰かの肩は誰かの肩に触れ、誰かの額は誰かの腕に寄りかかる。それは秘密ではなく、声にしないだけの共有になっていく。ミサキはユウの机の横に座り、薄い毛布を膝にかけた。飴は机の上で黒い点のように並び、青い光は机の裏で静かに揺れている。


「ねえ、ユウ」


「なに」


「わたしね、否認って、便利だって思ってた。きのうまで。今日も、すこし。誰かが死んだとき、わたしは夢なんて見てない、って言えば、ほんの少しだけ平気になれる。けど、それって…」


「嘘だよ」


「わかってる。嘘。わたしたちは、ずっと嘘に寄りかかってる。じゃないと倒れるから」


 ミサキは笑わないで言った。笑わなかったことが、なにより切なかった。ユウは机の端に置いた自分の手の上に、ミサキの手の甲を重ねた。教室の明かりが蛍光みたいに白い。窓の外では、灯台が夜の準備をしている。赤い色は、まだ遠いのに、もう近い。


「港の人、どうしてひとりで倉庫にいたんだろう」


「魚網の片付けだって。夜明け前に」


「ひとりで起きてるほうが、落ちないって思ったのかな」


「ひとりでいると、呼ばれるんだよ」


 呼ばれる、という言葉は、昨日の灯台で聞いた記憶とつながった。穴の向こうからの声。名前ではないのに名前の形をしている音。言葉というより、引っ張られる感触。ユウはその感触から目をそらして、机の上の黒い飴をひとつ指で転がした。


「今夜も、屋上に行く?」


「行きたい」


「じゃあ、見張りの交代の間に」


 夜の屋上は、昼よりも狭く感じた。フェンスの向こうはすぐ空で、空の向こうはすぐ海で、海の向こうはすぐ穴だった。赤い円の中心にある黒は、写真よりも静かで、静かであるほどこわかった。遠くで港のサイレンが低く続いている。もう合図なのか、ただの習慣なのか、わからない。


 屋上のコンクリートは冷たく、ミサキはフェンスに背を預けた。ユウは隣に立ち、ふたりで空を見上げる。風が髪を揺らす。揺れる音はしないのに、揺れが耳の裏をかすめる。ミサキが言った。


「共眠ってさ、眠らないために、誰かに触れてるんだよね」


「うん」


「でも、触れてると、眠りたくなるんだよ。安心するから。安心するのって、もしかして危ないのかな」


「安心は、必要だよ」


「必要だけど」


 ミサキは言葉を切り、小さく首を振った。ユウはポケットからスマホを取り出し、カメラを月に向けた。画面の中、赤い円はにじみ、中心はやはり黒い穴になった。穴は、撮れば撮るほど深くなるように見えた。ユウはカメラを下ろし、画面の黒を消した。黒を消せるのは、画面の上だけだった。


 深夜になって、学校は家みたいになった。誰かが教室の隅にカーテンを引き、簡易の仕切りを作る。そこに数人が入り、毛布を肩にかける。浅い眠りだけを拾うための、小さな巣。ユウとミサキも、その中に入った。木の机が並ぶ薄い匂い。絵の具の古い香り。だれかのシャープペンの芯の、粉っぽい気配。


「ここで、手首」


「うん」


 互いの脈に触れる。脈は音ではないのに、音の代わりになる。耳の奥にある空っぽの場所が、少し埋まる。ミサキの指は冷たいわけでも熱いわけでもなく、ただ、そこにいた。ユウは目を閉じないまま、視界の端で赤い影が動くのを感じた。影は窓の外にあり、窓の外は空で、空は遠い。遠い、という言葉に寄りかかる。


 どれくらい時間がたったのか、わからない。時間は、いまや地図の端の海みたいに曖昧だ。急に、誰かの小さな悲鳴がした。仕切りの外で、誰かのバンドの青がすっと消え、すぐに戻る。戻るまでの短い間に、仕切りの向こうの空気が波立った。先生が走ってきて、名前を呼ぶ。名前が答えを見つけるように戻ってきて、みんながほっとする。ほっとすることは、罠に似ている。それでも、必要だ。


 明け方、町は白くなる直前の薄灰色に眠そうな顔をしていた。眠そうな顔をしていても、眠るわけにはいかない。役場の係の車が校庭に入り、拡声器の試験音が短く鳴る。今日も検疫。今日も否認。今日も、今日だけに必死になる。


 その朝のホームルームで、担任が黒板に新しい合言葉を書いた。安全確認の文句、らしい。みんなで声を合わせ、読み上げる。


「誰も夢なんて見ていない」


 ユウは口を動かしながら、黒板の白い粉の舞い方を見ていた。粉は真横に流れず、少し上に行き、少し落ちて、また浮いた。浮いた粉は、光を拾って小さく光る。光る粉の向こうに、ミサキの横顔があった。真剣に口を動かしている。動かした先に、何かが届くように。


 放課後、港の倉庫の前に白い布がもう一枚、静かに垂れた。娘は泣き止み、かわりに砂浜に小さな穴を掘っていた。穴はすぐに崩れ、また掘り直す。掘ることに意味があるのかどうか、誰にもわからない。けれど、動きは続く。続けることで、日が暮れる。日が暮れたら、また赤い。赤いなら、また起きていなければならない。その繰り返しの中で、言葉はだんだん軽くなる。軽くなるほど、胸の奥で固くなるものがあった。


 夜。ユウの家の台所のテーブルには、苦い飴の袋と、針と、青い桶と、アルコール綿が並んだ。母親は針を手に取り、光に透かしてから、また袋に戻した。


「ほんとは、使いたくないね」


「使わないで済めばいい」


「済むよ。済むように、する」


 母親の声は落ち着いていた。落ち着きは、ここではいちばんの薬だ。父親はラジオのダイヤルを回し、どこからか拾った古い音楽を流した。ラジオは時々、雑音の向こうから人の声を連れてくる。知らない地方の天気予報。どこかの道路情報。そこではきっと、夢の話はしていない。していないと思いたい。


 ミサキからメッセージが来た。短い文だった。


 一緒に起きていて。今夜、ずっと。


 ユウは、うん、と書いて送った。送ってから、学校の屋上の鍵のことを思い出した。見張りの交代の時間なら、先生が一瞬離れる。フェンスの影の場所なら、だれにも見つからない。見つからなくていいことは、町にたくさん増えた。


 屋上でふたりが並ぶと、赤い光は昨日より少し弱く見えた。雲が厚いのか、目が慣れたのか。弱く見えることに、安心はなかった。安心したふりを、少しだけした。ミサキは毛布を肩にかけ、フェンスに背を預けた。


「ユウ、手首」


「うん」


 指先が触れる。浅く、確かに。名前を呼ぶ音はしなかった。しないことに、安堵が混じった。安堵の重さは、すぐに別の重さに変わる。重さは胸の中に丸くなり、そこに言葉が積もる。積もった言葉は、やがて静かに溶ける。溶けた言葉が、涙になる。涙になる前に、ユウは小さく言った。


「ここにいる」


「いるね」


「いる」


「いるよ」


 何度も同じ形を確かめる。指先の鼓動が、不規則に笑った。笑った、と思うくらいの揺れ方。あれほど嫌いだった曖昧が、この瞬間だけは救いに見える。救いと呼ぶには頼りないのに、呼ばないと、それはどこかへ行ってしまう。


 夜の半ば、どこかの家のサイレンがひとつだけ鳴り、すぐに止んだ。止んだのに、止んだ音が耳の奥でいつまでもこだました。屋上のコンクリートは冷たく、体温は指先から少しずつにじんでいく。にじんでいく前に、ユウはミサキの指を握った。握りしめるのではなく、指先に指先を重ねる。触れていることを知るために。


 やがて東の空が、ごく薄く白んだ。白さは弱く、頼りなく、しかし確かに、赤を押しのける力を持っていた。赤は引き、黒は薄れ、穴は遠ざかる。遠ざかるたび、胸の奥の丸い重さは、少しずつ形を変える。形を変え、また同じところに戻ってくる。


 朝の校門の前で、役場の車が止まり、拡声器から声が流れた。


「本日の睡眠検疫、継続します。家庭ごとの見張り番の確認を」


 ユウは目を細め、ミサキの横顔を見た。彼女はうなずき、髪を結び直す。ゴムが弱く鳴った。二人で階段を降りる途中、ミサキが言った。


「今日、葬式だって。港の人」


「行く?」


「行こう。否認するためじゃなくて、手を合わせるために」


 葬式の会場では、いつもの匂いがした。畳と線香と、少し湿った木材の匂い。娘は泣かなかった。かわりに、両手を胸の前で組み、強く強く指を絡めていた。絡めた指は白く、関節が出ていた。焼香の順番が近づくと、娘は小さな声で言った。


「わたしたちは、夢なんか見ない」


 その言葉に、誰も反論しなかった。反論してはいけない空気があり、反論したい心は別の場所に置かれた。ユウは線香の灰が落ちる様子を見た。灰はまっすぐには落ちず、ひと呼吸分ふわりと揺れて、それから皿に落ちた。揺れる前の、短い浮遊。その短さが、不思議に長く感じられた。


 外に出ると、空は白くて、風が少し冷たかった。灯台は昼の顔をしていて、昨夜の赤とは別の世界のものに見えた。見えるだけで、別ではない。夜はまた来る。来るたびに、嘘はやさしくなり、本当は遠くなる。遠くなるほど、だれかの手の温度にすがりたくなる。すがることは、恥ではない。ここでは、もう。


 その夜も、町は明るかった。窓という窓から零れる白い光が道を照らし、遠くの海は薄く赤い線で切られていた。役場の掲示板には、新しい紙が一枚増えている。共眠についての追加の注意。それでも、人は肩を寄せる。寄せた肩のあいだで、否認は囁きに姿を変え、囁きは合図になった。合図のあと、誰かが言う。


「誰も夢なんて見ていない」


 ユウは、その言葉を呑み込んだまま、ミサキの手首に触れた。触れた先で、鼓動が確かに生きていた。生きていることは、まだここにある。ここにあることを、今夜も確かめ続ける。確かめている間だけ、穴は遠い。遠いと信じられる。信じるという行為の細さに、町がすがっている。


 窓の外で、赤い月がまたのぼる。黒い穴は、じっとこちらを見ていた。見られていると感じるたび、ユウは指先の温度を確かめた。確かめる相手がいる。そのことが、たった一つの、否認ではない真実だった。

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