水女 5/5
「なによあんた、あたしのこと母親だなんて思ったことあるわけ?」
優しいお母さんが欲しかった。
安っぽいホームドラマみたいな、道徳の教科書にのっているみたいな、優しいお母さんが欲しかった。
金切り声を上げない母親が欲しかった。
子供を置いて出ていかない母親が欲しかった。
欲情を煽らない母親が欲しかった。
残念な両親に育てられたかわいそうな子供のままでいられたらよかったのに。
でももう子供じゃない。
――いや、子供であったことなんてない。
子供のようにいていいと、誰も許してくれなかったじゃないか。
「あんたのこと母親と思ったことなんて、ない。」
彼は“ダメな母親”を叱るように言った。
彼はその言葉の真偽を知らない。
自衛のために彼女を傷つけなければならなかった理性の嘘かもしれない。
しかし本能にとっては、まぎれもない真実かもしれない。
彼は考えない。
ただそこはかとなく苦しい。
「思ってもないのに『母さん』なんて呼ぶのはやめて。」
彼女はいつものように喧嘩腰だ。
雪女のくせに、炎のような気性の女だ。
それでは雪が溶けてしまう。
水になってしまう。
女がかすかに呟く。
「名前で呼んで。」
もし、数年前の狐の嫁入りの日に、彼が死んだバス停で、彼女に偶然に出会っていたとしたら、どうだっただろうか。
母でなく、父の女としてでもなく、高校の後輩として――赤の他人の“女”として出会っていたなら。
この欲望を、素直に運命と呼べただろうか?
「…………みぞれ、…………」
紅潮を隠すために彼の手は口元を覆った。
唾が呑まれて喉仏が上下する。
呼んではいけなかった。
彼は後悔する。
彼女に触れてはいけなかった。
彼女を見つめてはいけなかった。
彼女を嗅いではいけなかった。
それなのに、今日この真夏日に、すべてしてしまった。
――この欲望を、これ以上どうやって騙せばいい?
今日まで必死に本能を欺いて、下っ腹に溜めてきた、この欲望を抑えて、理性で以て“子供”のふりをつづけることなど、もう――
悔しい。
この女には母親としての責任を取ってもらわないといけないのに、この女を今この夜どうしても、名前で呼びたい。
嗅ぎたい、見つめたい、触れたい、それから――。
すくと立ち上がってあとじさりする。
逃げなければいけない。
ここは常識の埒外だ。すぐに戻らなければ――
「実幸。」
女がこちらを見上げている。
見つめ合う。
瞳の奥に、熱が渦巻いている。
その熱で、彼女の皮膚に張った氷は溶けてしまった。
「あたしも――」
彼女はまず雪であった。
それから霙になり、水にまで溶けた。
そしていま、滾る熱湯である。
「――あんたを息子だと思ったこと、ないは。」
女の白い指は引き潮になって、男の腕を巻き込んだ。
男は無抵抗に水へ飛び込む。
そして柔らかな感触で、男は包み込まれた。
「ごめんね、ごめんなさい、あたしのせい、あたしが悪いのよ、あたしがいけないの――」
花火の音が終わるまで、粗雑な呼吸に混ぜて女は男に詫びつづけた。
そのようにして免罪符を与えつづけた。
男は金輪際、女を名前で呼ぶことはなかった。
だから女は再び凍って、雪女に戻った。
母に戻った。
【御挨拶】
もし二人のハッピーエンドで終わらせたいなら最後の三文は記憶から消去していただいてどうぞ。
これにて義母エンド完結です。
ご愛読ありがとうございました。




