35.カチに呑まれる
【前回までのあらすじ】
生霊、生身に戻るために雪女を退治しに行くが、青鬼の邪魔が入る。
空気が違う。
肺の隅々まで届いていると感じるほど、細かく冴えていた。
ここは洞窟のなかの開けた空間らしい。
足場は悪い。恐らくいつもは冠水しているのだろう、滑る岩場だ。
目先には泉が広がっていて、ぼうと青く光っている。
覗き込めば、鬼火が群れになって泳いでいた。
周囲からは風か、なにか獣の唸る低音がやまない。
壁に開いているいくつもの横穴から、音だけが響いてきているようだ。
美しい、――しかし今すぐにでも逃げ出したい、そういう空間だった。
青鬼先生はもう“先生”とは呼べない姿になっていた。
履いているのが虎の皮のふんどしとかではなく、教室にいたときと同じ黒いジャージだから辛うじて先生だとわかるが、それ以外は見る影もない。
ガタイはヒトよりも一回り大きく、鎧のように形状変化し硬化した皮膚は濃紺、手も足も太く鋭く、まさに武器だ。そしてツノ、太く硬くそそり立ち、バリバリと帯電している。
青鬼は泉の中央、下から青い光を浴びながら、さもありなんと水面の上に立っていた。
「ここから動くなよ。」
青鬼の声が低く響く。
「逃げて迷ったら、おれでも追えなくなる。」
「ここは……?」
「魔窟、……ヤツの地獄よ。」
おれの背後にいた雪女が応える。そして、青鬼を睨みつけた。
「あたしたちは、ヤツの世界に呑み込まれてしまったの。」
……もしかして……
「カチ?」
おれの呟きに、雪女が反応する。
「実幸いつの間にそんなこと……」
なんだよさっきから知り合いみたいな態度とりやがって馴れ馴れしんだよなー。
と、いうような表情でおれは雪女を見やった。
「……まぁ、そんなところよ。」
これが、先生の知覚している世界?
これが、化け猫先輩が言っていた『凄いヤバいカチ』?
しかも先生は、詠唱なしで、手を叩くだけで、カチに引きずり込んだのだ。
――これが、鬼のカチ。
……いますぐ逃げ出したい。
どこでもいいから走り出したい。
足が疼いている。
いやたぶん、恐怖で震えている。
「三善いいか?」
鬼の呼びかけに視線を上げる。
「俺が護ってやる。ここで待ってろ。」
と、言いながら先生は泉に沈んでいくが、膝まで浸かったあたりで水が一瞬にして凍った。
「なんのつもりだ白井ぃ。」
青鬼が雪女をねめつける。
「いますぐこっから出して。」
「急ぐな。すこし待て。それだけでいい。」
「こんな危険なところ1秒でもいられない。」
雪女が巨大な氷のツララをいくつも作って空に並べ、切っ先をすべて、鬼へ向けた。
湿度が高い空間だ。雪女の武器になるものはいくらでもある。
「出してくれないなら、力尽くであんたの“己界”を潰すだけよ。」
青鬼が訝しげに、かつ挑発的に顔を歪める。
「俺の“象場”が怖いか?」
ちょっとまって、『キカイ』とか『ショウジョウ』とか、なに言ってんの? 『彼ノ地』じゃないの? いろいろ呼び方があるってこと? なんか認識違いじゃなくて?
……てゆうかこの険悪なムード何? ケンカ?
2人、仲間じゃないの?
三つ巴?
「安心しろ、すぐに眠らせてやるよ。」
(三つ巴かよ!)
青鬼は氷から足を引き上げ、氷は大きな破片になって弾け飛んだ。
そこへ雪女がツララを打ち込む。
が、青鬼は素手で殴ったり叩き落としたりしながら雪女へ猛然と迫った。
「教育指導パンチッ!!」
青鬼の声とともに強靭な拳が繰り出され、雪女はガードを上げるが彼女の華奢な体では受け止められるはずもなく、吹き飛ばされて壁にぶつかって、力なく崩れ落ちた。
おれは立ち竦む。
……いや体罰やん。
ていうかカチに引き込むときは何にも言わなかったのに『教育指導』は言うんだ……コンプライアンスかな? センシティブなのかな??
「じゃ、三善も寝とくか。」
青鬼が、おれの背後でさらっという。
おれがじわっと振り返ったとき、いつの間に来たのか、ボロボロの雪女の後ろ姿があって、青鬼の手刀の手首を掴んでいた。
両者、力んで震えている。
(チャンス!)
おれは手元にあった石を両手で掴んで、雪女の後頭部へと振りかぶった――
――のに、手ごたえはなく倒れ込んで、顔面から雪にぼふっと落ちていた。
急いで顔だけあげると、視線の先では両手首が氷の塊で拘束されている。
立ち上がろうとするが足が動かない。膝から下も、同じように拘束されているらしい。
焦燥に駆られるままに立てなおそうとして、腕を引き膝を引き、尺取虫のように無様に上がったおれの尻が、――平手で強か叩かれる。
「アンッ!」
「もう反抗しないね!?」
NOを許さない声調で雪女が言うから、おれは絶対屈したくない。
「ぃ……イヤだッ!」
「……しょうのない子……」
バチンッ! と、もう一発喰らう。
「ウゥッ!」
高校生にもなって、しかも後輩の女子に、手加減なくお尻ぺんぺんされて、変な声が出ちゃう情けなさ……恥ずかしさ……。
お母さんにもお尻ぺんぺんされたことないのに!
「……ぅう……ふえーん!」
おれはガチ泣きした。
「反抗しないって言いなさい!」
「……やだ。そんなの…、だって…、おれ死にたくない! 最後まで抗ってやる! 人殺しなんかに屈して堪るか!!」
雪女が黙る。
ちらと見上げてみると、おれの怯えとは裏腹に、彼女は悲しそうだった。
「実幸……違うの。」
雪女の声が弱い。
「あたしが悪かった。ごめんね。」
雪女は拘束する氷を溶かし、代わりにおれの頭を胸にかき寄せた。
「一緒に帰ろう。」
涙の滲んだ優しい声とともに、視界が歪んで、気付いたときにはまた世界が変わっていた。
【次回予告】
明かされる死の真相。




