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 綾音が救出されてから数週間の時が過ぎていた。

 春が終わり、日差しが少しずつ強くなってきて、外に出ると少し汗ばむような季節になった。

 庭の緑が少しずつ濃さを増していく。椿の趣味で植えられた花々も今が盛りとほころぶように咲いていた。


 救出された後から綾音は二日ほど意識の戻らないまま眠り続けた。

 精を溜めすぎたことと、誘拐されたことのストレスが原因であった。

 その間、斉冶は綾音に付き添い、意識のない綾音に溜まり続ける精を吸い出したという。その部位がどこであったかなどは聞かずともいいだろう。

 奏は斉冶とのことを応援するという姿勢を取りながら、あまり彼のことを歓迎していないようなので聞くのがためらわれたものある。

「男心も色々と複雑なのですよ」

 苦笑いと共にそう言われたことを思い出す。


 元村の家はその後、鈴代の手によって取り潰された。

 直接的にではなく間接的に。

 元々ほとんど黒に近かった元村県議会議員の贈収賄疑惑やら税金の不正使用やらの証拠資料が次々に出てきたのだ。

 ワイドショーでは連日の報道合戦が続いた。

 ただの県議のネタがそこまで加熱したのは、ひとえに息子の公彦のことがあったためだ。

 元村県議に対する証拠と共に各報道関係者に出回ったのは、公彦が陰で行っていた覚醒剤及びハーブ系の輸入転売、若い女性に対する監禁・暴力事件そして未遂も含む強姦事件。

 県議の息子がひとつでもやっかいな案件を複数持っていたということは、世の正義という建前を持つ報道関係者にとっては垂涎もののネタだったのだ。


 連日続いた報道。だが、その中に綾音の名前が出されることはなかった。

 直接言及はしてはいなかったが、あの優秀な秘書がそのあたりも含めて鈴代の名を通して菅原に頼んだのではないかと綾音は思っている。


 肝心の元村公彦は自身も覚醒剤を使用していたということで、容疑がきっちりと固まるまで一旦それ相応の病院に送られると聞いた。

 聞いたのは事件直後のことで、その後の公彦の行方は綾音の耳に入ってきてはいない。

 だが知らなくていいと思う。

 公彦は二度と綾音の前に姿を現すことはないだろうと奏がそう言い切ったからだ。

 長く綾音の面倒も見てくれた人だ。彼の言葉に疑いを持つことはありえないことだった。


 訪れた平穏は優しく綾音を包んでいる。

 綾音はその一番の理由となった存在を思って笑みを浮かべた。


「何にやにやしてんだよ」


 部屋の窓枠に腰かけた斉冶が尋ねてくる。

 綾音は勉強のために広げていた教科書を閉じて窓のほうを向いた。

「またそんなところから入ってきて。堂々と表から入ってくればいいのに」

「表から入ると時間がかかるんだよ」

 靴を脱いで斉冶が入り込んでくる。


 ここは綾音の部屋。

 季節もいいので窓は開け放したままにしている。そこから斉冶は入り込んできたのだ。

 いくら綾音の部屋が一階であるとはいっても、斉冶のやっていることは礼儀のなっていないことだ。

 それをちくちくと言われるのは綾音なのにとため息を吐くと、斉冶が手を取りくちづけてきた。

 くちづけながらも綾音の様子を観察するような視線を向けてくるのはいつものことだった。

 今では習慣のようになってしまったそれを綾音は目を細めて見つめる。猜疑心やお互いの心の駆け引きのためではない。愛しい人に微笑みかけるためだ。


「お前からも言っておけよ、あいつらに。もういい加減諦めろって」


 休日のたびに斉冶は綾音の元にやって来る。綾音自身に会いに来るためと、溜まる精を取るためにだ。

 もう綾音は斉冶以外にそれを許さない。奏にももう代わりを頼むことはしていなかった。

 綾音にはもう斉冶以外にはありえない。

 失えばすべては意味のないことなのだ。


 斉冶の言う「あいつら」というのは、それを知りながら二人の防壁になっているものたちのことを指す。

 斉冶のうんざりとした口調に綾音は「私が言ってどうにかなるならいいんですけど」と苦笑いを浮かべた。


 つがいの女がくちづけなしに生きられないことを知りながら邪魔をする存在は二つ。

 会長と、そして奏だ。


 彼らは斉冶がやって来る頃になると玄関先で待ち構える。

 一方が仕事のために出られないとなれば一方が待ち構えている。

 やれ斉冶の身なりがだらしないだとか、やれ口の利き方がなっていないだとか、ねちねちと重箱の隅をつつくような文句を言って防壁を作るのだ。

 特に会長は自身もつがいの伴侶であるくせに、斉冶を阻む壁となっている。

「お前みたいな奴にうちの綾音はやらん。修行して出直してこい」

 そんなことまで口走っていた。

 身内ながらとても恥ずかしい。

 これまでの少し突き放しつつも見守るようなあの寛大な態度は何だったのだろうかと思わないでもない。

「綾音さんのことを堂々と孫娘と言える立場になったから調子に乗りたいのよ。もうしばらく付き合ってあげてちょうだい」

 椿からそう言われては、綾音もあまり大きく反論できない。

 さすがに玄関でのやり取りが一時間を越えるようなときは「おじい様、それくらいにしてください」と止めに入るが。


 綾音の「おじい様」は絶大な威力を発する。

 その一言さえあれば会長は目尻を下げて大人しくなってしまうのだ。

 斉冶から意識を逸らすために、お茶でも飲んで落ち着けと言えば綾音まで連れられて三十分は離してもらえない。

 会長はまだいいのだが、奏の場合はそれは効かないのが問題だ。

 綾音が止めても続く小言に斉冶が苛立って目つきを悪くすると、それを見て「綾音様、やはりこの男はダメです。考え直して私に乗り換えませんか」と冗談を飛ばしてくる。

 その後、斉冶と奏のにらみ合いが続いて時間を潰すということも多々あることだった。

 斉冶も斉冶でいちいち取り合わなければいいのに、正面きって奏と対峙してしまうのだ。

「譲れることと譲れないことがあんだよ」

 綾音には理解できない男の論理だった。


 一連の動作を終える頃には午前の時間はすっかり終わってしまうのだ。

 だからここのところ斉冶は塀を乗り越えて直接綾音の部屋までやって来てしまう。

 それを発見されるとまた小言の嵐なのだが、斉冶は聞く耳を持たない様子で綾音の出した茶をすするのだ。

 でもそれを見て綾音は平和だなぁと感じるのだ。

 少し前までなら考えられない変化だった。

 鈴代の者たちとは距離があったし、斉冶のことをこうも受け入れている自分がいることも想像にしていなかった。


 ただ生かされるままに生きていた。


 孝仁が綾音のすべてだった。

 孝仁に出会う前までは誰のことも好きではなかったし、憎いとも感じていなかった。

 愛人と逃げた父親を責める気持ちもなく、自分を放置する母への望みも何もなかった。それらへどういう感情を持てばいいのか教えられてこなかったからだ。

 孝仁が初めて綾音に笑いかけてくれた人だった。

 どうしてこの人は自分に笑いかけてくるのだろう。不思議に思うも孝仁は綾音の目を見て笑いかけてくれた。

 困惑する綾音に、次に孝仁がしたことは泣いたことだった。

 綾音がそれまで受けてきたことを知って、孝仁は自分のことのように泣いてくれたのだ。


『幸せにならなければいけないよ。綾音は僕が幸せにするから。必ず、いつかそう思えるようになる日がくるから』


 綾音がようやく笑顔らしい笑みを浮かべたときは、本当に喜んでくれたものだ。

 いつしか孝仁の中ではそれは義務のようになっていたのかもしれない。――綾音を幸せにする義務。

 そんなものはありはしないのに。鈴代の家の重責と共にそれは孝仁の心に重く圧し掛かっていたのかもしれない。

 綾音が孝仁に対してする後悔といえばそのことだ。

 幸せになるために一緒に頑張ろう。

 ただそれだけを言えば、孝仁はこちらを振り返ったかもしれない。

 くちづけを受けるだけでなく、孝仁に何かを言って、してあげればよかったと綾音は思う。

 綾音は孝仁に甘えてばかりだった。

 いつかこの人が私に幸せをくれる。そうでなければ私は幸せにはなれないのだ。

 刷り込みのように孝仁に心を預けるようになって、そう考えるようになっていた。まるで餌を与えられるのを待つ雛鳥のように。


 綾音は待つことしかしなかった。孝仁が優しくしてくれることを、振り返ってくれることを。

 自分は孝仁のつがいだからと、その立場に安心して――。

 それは怠惰と言うべきものではなかっただろうか。今ではそう思う。


 綾音の髪に触れる斉冶を見上げる。

 綾音の価値観を壊したのはこの男だ。

 つがいという因習に凝り固まって動けなかった綾音の価値観を叩き壊してぐちゃぐちゃにかき回した。

 綾音は斉冶が新しいつがいに成り代わることができるから惹かれたのではない。

 斉冶が斉冶だから惹かれたのだ。

 斉冶がつがいの女を得る能力があって良かったと思うのは、この先も続けて共に生きられるからにほかならない。そうでなければ、斉冶と触れ合える時間の短いまま儚い生を終えることになっていたことだろう。


「何だよ」


 じっと自分を見つめ続ける綾音に斉冶が問いかける。

 綾音が見つめ続けたとして、孝仁はこうして返してくれただろうか。気持ちを分かろうとしてくれただろうか。


「いいえ、何でも」


 考えてもどうしようもないことだ。過ぎ去ったことをいつまでも考えていても仕方がない。

 それに斉冶に言う必要もないだろう。

 斉冶は割合と嫉妬深い男なのだ。過去の男のことを聞かされても機嫌が悪くなるだけだ。


「斉冶さん……」


 少しつま先立って唇にくちづける。

 過去にかかずらっている場合ではない。今日こそは言わなければならないのだ。

 あれから何週間も経っているというのに、綾音はまだ自分の気持ちを斉冶に伝えていなかった。


――頬が熱い。


 赤く色づく自分の頬を感じつつ、綾音は大切な言葉を出そうと息を吸い込んだ。

 出そうとした言葉は次の吐く息を待たずに封じられた。

 斉冶が腰を抱き、綾音の頭に手を置いて深くくちづけてくる。

 これまで軽いくちづけしかしてこなかった綾音はすぐに力が抜けてぐったりとしてしまう。

 斉冶に身を預けてしまったら、後はなし崩し的に床に降ろされた。

 頬に、まぶたに、耳に、そしてまた唇に。こうなってしまってはもう言葉は紡げない。

 斉冶の気の済むまでか、誰かに止められるまでこれは続く。


――また言えなかった。


 斉冶の行動にはいつも困らされる。いつも言いかけたところでこうして止められてしまうのだ。

 彼のせいで開かれた色香のためとは露知らず、綾音は落とされるくちづけを受け続ける。精の受け渡しのない普通の恋人同士のくちづけを。


 だが、このくちづけが今の綾音を生かし続ける。これなしに綾音は生きてはいけない。

 綾音は斉冶のこのくちづけで生かされているのだ。


 熱に浮かされたようにぼうっとする綾音の耳に入ってくるのは、廊下の先からどしどしと近づいてくる迷惑な彼らの足音。

「斉冶さん……」

 これ以上はと身をよじる。だがそれはくちづけに封印される。

「気にするな、――」

 そして愛しい男が自分の名前を呼ぶ声が、他のすべての音をかき消した――。





補足:奏という男について


綾音が鈴代に来てからずっと成長を見守り続けていた。

孝仁が消えた後は、綾音を陰に日向に支え続けた。

斉治が現れなかった場合、少しずつ綾音を懐柔して真に支える立場になったであろう男。

本人もそれなりに綾音のことを想ってはいたが、一番は綾音の心のため、己の恋心は封印した。


でも邪魔はする。

綾音が斉治と結婚しても、ちょくちょく邪魔しに行く。

斉治に文句を言われても、「私は大切なものを奪われたのです。これくらいしても罰は当たらないでしょう」としれっとした顔をして邪魔をする(笑)

その後は綾音の一番の理解者という立場を確立し、斉治から嫉妬されることになる。

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