鏡面性再生疾患
書類を読み終えると、途方もない倦怠感が私を襲った。テーブルにうつ伏せになってしまいたい欲求に駆られる。
「もう一枚の方もご覧になりますか?」と芥川がいう。私は首を振った。
「つまり私は、この少年Aとおなじ、鏡面性再生疾患とやらなわけ?」
芥川は頷きながら、私が書類を読み入っている間に用意していたウーロン茶を一口飲んだ。私もそれにならう。唇が乾燥しきっていた。
「ただ、これだけじゃ判らないわ。この書類を読んで判ったのは、十年以上前世間を騒がせたあの少年Aが私と同じように、大切な者を失って、自ら心に新しいピースを創り上げていたこと。そういう人間が私の他にいたこと。そして可哀想に、彼はそのピースとそりが合わなかったってことくらいよ。結局、鏡面性再生疾患って何なの? これが病気だとしたら、いつかハネは消えてしまうの? もう一枚の書類を読めば、それについて判るっていうの!?」
『姉さん、落ち着いて!』
「ハネ君の言う通りです。あなたは少し落ち着くべきだ。質問には一つずつ答えましょう」
私は残ったウーロン茶を一息に飲み干すと、大きく深呼吸した。医者に癌の宣告をされたような気分で、芥川に回答を迫る。
「鏡面性再生疾患」と芥川はいう。
「これは正確には病気ではない。神宮氏の所感にあるように、現行の精神病理に当てはまらないので便宜的にそのような名称をつけているだけです」
「なら、ハネは消えないのね?」
「少年Aの事件以来、鏡面性再生疾患において発現するもう一つの人格、否、もう一人の人間を総称して《心の闇》と呼ぶことが慣例になりましたが、一度発現した《心の闇》が消失した事例は今のところありません。それについてはご安心ください」
私は胸を撫で下ろした。良性の癌だ、よかったな、と教えられたような奇妙な安心感だった。しかし、ハネを《心の闇》などという名称で呼ぶことは有り得ない。あまりにも、語弊がありすぎる。
「鏡面性再生疾患とは~である、と解説してあげたいところですが、これに関しては仮説しか申し上げられません。実のところ、私にもよく判らないのです。患者に共通している点は、大切な人を――ほとんどの場合理不尽で容赦のない死別によって――失い、その人のいない世界に対して強固な否定を行うこと。世界を否定するということは、すなわち価値観の否定であり、常識の否定であり、観念の否定であり、概念の否定であり、そして歴史の否定です。今在るもの全てを否定することによって、自己の精神世界を一度カオスに戻します。そして再びビッグバンを起こし、一瞬で新しい世界を創造する。旧世界のあらゆるルールが通用しないその世界では、失われた大切な人が再生しています」
芥川の突飛な説明に、私は豚男の腹の中で見た宇宙と《敵》を思い出す。
「一人の人間の内にもう一人別の人間の精神が宿る。このことから、解離性同一性障害とよく混同されがちですが、決定的な相違があります。鏡面性再生疾患によって創造された《心の闇》は、オリジナル――あなたの場合、弟さんですね――の記憶を完全に有しているのです。《オリジナルのみしか知り得ない記憶でさえも》」
私とハネは、元々人生を共有して生きてきた。ハネが知っていて私が知らないことはない。しかし、芥川の説明にはやはり心当たりがあった。
「これが、愛するってことよ。あなたに判る?」と豚男はいった。
あの言葉は、私が心の中で別の場所にいる豚男に放ったものだ。それを、あの男は口にしたのだ。
「そしてもう一つ。鏡面性再生疾患にかかると、患者は《心の闇》のオリジナルが持ち合わせていた才能を取得することができるのです。正確には、才能以上のチカラをね。蓬田卵さん。あなたのダーツも、元々は羽根君の特技だったのではないですか?」
才能以上のチカラ――これもわかる。私は今では、ダーツのみならず、どれほど離れていても、目標が視界に入る限り百パーセントの確率で命中させることの出来る投擲技術を身につけていた。私は目線だけで頷いた。
「この疾患が確認された患者は、全国で百名に届いておりません。公式な発表もまだです。治療方法は今のところ確立されておりません。一般の人格障害において有効とされるカウンセリングの類は、この疾患に対してまったくの無力です。《対話で人格を消すことは出来ても、人間そのものを消滅させることは不可能》。神宮真理はもう一枚の書類でそのように語っていますよ。もっとも、あなたがそうであるように、治療を望む患者は一人も存在しませんがね」
その人たちの気持ちが手に取るように解る。愛する人を二度失う恐怖。創り直した楽園を再び理不尽な台風によって蹂躙される危惧。その人たちも私と同じように感じて……その人たち?
「他の患者は、どこにいるの? 入院でもしてるっていうの?」
「いいえ。先ほど申し上げた通り厳密にいえばこれは病ではない。仮に病だと定義したところで、そもそも治療を望まない方々が、敢えて入院なさると思いますか?」
芥川は不敵な笑みを浮かべた。この男は、何か《良くないこと》を語ろうとしている。針のような予感が、私の肌を粟立てた。
「もったいぶってないで、教えてくださるかしら?」と私はいった。
「病ではないとはいえ、当然ですが、それは健康であるという意味ではありません」と芥川はいった。
「《心の闇》は、《ある条件》を一定の期限内に満たさないと、消失こそしないものの、その人格を破綻させてしまいます。あられもない言い方をすれば、狂ってしまうというわけですね。あなたの中の羽根君も、決して例外ではありません。そして、その時はもう間近に迫っている」
目眩がした。視界が暗黒に染まり、楽園が分厚い黒雲に覆われていく。ハネが、狂ってしまうですって?
「羽根君。君には心当たりがあるのでは?」と芥川はいった。それは質問というより、決定事項を確認するような、確信に満ちた口調だった。
「そうなの、ハネ?」
『……よくは、わからない。でも最近、根拠なしに不安になることがある。今の自分が、ふっと消えてしまうんじゃないかって』
芥川と出会った夜、ハネはやはり、自分について『ふっと消えちゃうかもしれないような、曖昧な存在』と語っていた。私は私を殴りたくなる。あれは芥川に会うということに対する、一種のジェラシーがそういわせたのだと、決め込んでいた。それどころか、そのようなハネを可愛らしいと。
なんて愚かな姉だろう。なんて愚かな恋人だろう。誰よりも近くにいるくせに、ハネの不安の根幹を解ろうともしていなかった。
私はハネに対する謝罪の代わりに、芥川を問い詰める。
「その条件を教えて」
勝ち誇ったように笑いながら、芥川はテーブルに手をつき、身を乗り出して、私の眼前に顔を突き出してきた。
「あなたがその契約書にサインするというのなら」
「いいわ」と私はいう。
「皿洗いでも、あんたの奴隷でも、なんでもする」
『姉さん、ちょっと待って!』
「ごめんなさい、ハネ」と私はいう。あなたを失わない為に。私は初めて、あなたの言葉に耳を傾けない。
「教えて」
「人を殺すことです」と躊躇なく芥川はいった。
「旧世界の否定から生まれた《心の闇》は、アイデンティティの確立が非常に困難な生き物なのです。自己を証明する手段が存在しないのだから、無理もありません。無意識のレベルで、常に自我崩壊の恐怖に晒されている。彼、あるいは彼女らは、精神的にもろいのですよ」
『あなたを殺すことで、私は初めて《完全なる奴隷としての蓬田卵》になることができる』と、かつて《敵》はいっていた。《敵》もまた、アイデンティティの確立に悩み、苦しんでいたということか。
「殺人とは、いうなれば最も明瞭な形における他者の世界の否定です。《心の闇》にとって否定とは生みの親であり、象徴だ。お解りですね? 《心の闇》は他者を否定することによってしか自己を定義付けることが出来ないのです」
そんなの、と私は思う。
そんなの、哀しすぎるじゃない。
「個体差にもよりますが、殺人を行わずに《心の闇》が正気を保てる期間は三~四年が限界といわれております。羽根君があなたに発生したのは?」
四年前。もう、時間がない。
『いいんだよ、姉さん』とハネがいう。
『僕は、もう姉さんに人殺しなんてして欲しくないんだ。それで、僕が壊れたとしたって、僕は……』
駄目よ、駄目、駄目! ハネが壊れていいはずない! ハネに何の罪があるの? 幼い時分から大病を患い、自由に歩くことすら叶わず、暗い人生を歩んできたハネ。ようやく掴んだささやかな幸せも束の間、豚男から私を守るためにその命を失ったハネ。
なぜ、ハネにばかりこんな辛い運命が? ハネが一体なにをしたっていうの?
私は拳を強く握り締めた。すでに腹は据わっている。殺そう。誰でもいい。ハネを守るために、私はきっと赤子でさえ残酷に殺すことができる。
いえ待って。目の前に、都合のいいのが、いるじゃない。
「おやおや、なにやら剣呑な目つきをしておられますね。私を殺すおつもりかな?」と楽しそうに芥川はいう。
「だが、契約を交わすという口約は守ってもらわないとね。あなたは【アクタリ】の従業員になる。管理職を殺すというのは、あまり賢い選択ではない」
「約束を破るのは好きじゃないわ」と私はいう。
「でも、私の最優先事項はハネなの」
契約書を破り棄てようとする私を、芥川が右腕を伸ばして制した。
「私もまた、鏡面性再生疾患です」と芥川はいう。私は手を止めた。
「私の中にも、《心の闇》は存在する。羽根君の声を聴くことができるのは、《心の闇》が、いいえ、大切な人が私にもたらした尊いチカラによるものです」
芥川は胸に手を当てて、ゆっくりと瞼を閉じた。
「だからね、蓬田卵さん。私には、あなたの気持ちがよく解る。安心なさい。私だけではない。この【アクタリ】で働く全ての者は、あなたの良き理解者だ。そう、従業員も皆、鏡面性再生疾患にかかっている、私が集めた仲間たち。同胞といって差し支えないでしょう。そして、飲食店は【アクタリ】の本来の姿ではない。我々の真の業務は、殺人なのです」
目を丸くした私に構わず、芥川は続ける。
「【アクタリ】に就業すれば、あなたは人を殺すことによって対価を得ることができる、といっているんですよ。それも決して安くはない額の対価をね。ハネ君の存続に加えて安定した収入の獲得。どう考えても、ここで私を殺すより遥かに有意義な選択肢だと思いますが」
「待って、話が」
一気に飛躍しすぎて、ついていけない。私の思考回路は、新しいロムが読み込めない型の古いパソコンのように、停滞してしまっていた。
「突拍子もない? この極ありふれたダイニングバーが、実際は殺し屋の詰め所であるという事実がにわかには信じられない? まぁそうでしょう。ならば考え方を変えてごらんなさい。同じ病を抱える方を救いたいという動機で、医者を志したり専門の病院を建設する人間がいたとして、何の不思議がありましょう。私はそれと同じように、殺しを生業とする会社を創立しただけだ。極めて自然な帰結だとは思いませんか」
出来の悪い生徒に道徳を説く教師のように、芥川は私を諭した。その説法の効果か、あるいはハネを救いたいという私の気持ちが思考回路をバージョンアップさせたのか。いずれにせよ、私は芥川の言葉を信じ込み始めていた。もしくは、無理やり信じ込もうとしていた。
「信じようが信じまいが、サインを頂いた時点で、早速業務に移って頂きます。否が応でも、あなたは今日、殺し屋として記念すべき第一歩を踏み出すことになる。さぁ、サインなさい。羽根君を羽根君として愛し続けたいのなら、あなたには【アクタリ】が必要なはずだ」
最後の言葉が、引き金になった。ハネをハネとして愛し続ける。私はもう、動けない卵でいたくはない。
『よしてよ姉さん、頼むから』
ごめんね。私を嫌いにならないで――。
呟き、私はサインする。ようこそ【アクタリ】へ、と芥川がいう。




