第51話 果報は寝て待て
ディンバードーナツ。
夕方の店内は、窓際から差し込むオレンジ色の光でゆるく満たされているのに、一角のテーブルだけ、まるでそこにだけ雲がかかっているみたいに、重く沈んでいた。
グラスの氷が、カランと乾いた音を立てる。
「……はあぁ〜〜〜〜〜〜……………」
もう何度目かもわからない、長すぎる溜め息。
テーブルに突っ伏した朔也の背中からは見えない黒い瘴気みたいなものが、ゆらゆらと立ちのぼっている。
その雰囲気はまさに。
ズーーーーーーーーーン…………。
空気圧が一段下がったみたいに、テーブル周辺だけ温度が低い。
颯太はストローをくるりと回しながら、半ば呆れた声を落とした。
「…朔也…いくらなんでもあからさま過ぎるぞ」
咲も苦笑いで肩をすくめる。
「…いつもの強がりも…こうなると流石に無理か」
二人の視線の先。
陽向の席は……空。
放課後になると陽向は、ほぼ毎日俊輔と過ごしてそのまま一緒に帰る。
その事実が、じわじわと、確実に、朔也のHPを削り続けていた。
テーブルに沈んだまま、朔也がぼそりと口を開く。
「……二人は……まさかと思って……びっくりするかもしんねぇけど……俺…今更だけど……実は…」
一拍。
「……ひなの事、好きだったわ」
「「いや知ってる知ってる」」
二人から間髪入れずに返ってきた現実に、朔也の眉がピクっと跳ねる。
「え、まじ!?なんでわかった?」
颯太が真顔で言い切る。
「あれで逆に隠せてると思ってるのがこえーわ」
「歪んでたけど…感情はダダ漏れだったね」
咲の追撃が容赦ない。
朔也は、再びテーブルに額を押し付けた。
咲がふと、少しだけ真面目な声になる。
「そんなに落ち込むんだったら…なんで陽向の恋、応援したりなんかしてたのよ」
「それな。」
自分で頷いてしまう朔也。
一瞬の沈黙。
店内のBGMが、やけに遠く聞こえる。
やがて朔也は、ゆっくり顔を上げた。
その目は、どこか自嘲気味に乾いている。
「ひなの中で俺は、気体レベル化し過ぎててもはや可視化不能。干渉不可。観測しても反応なし。」
颯太と咲が同時に顔をしかめる。
「空気より軽いポジションだったってこと?」
「そう。」
指先でテーブルを、トン、と叩く。
「俺単体の入力じゃ、ひなの自己認識パラメータは一ミリも変動しない。つまり、俺→ひなの作用は、常に誤差範囲内。だから外部から高エネルギー刺激を与える必要があったわけ。」
理系の目になる。
「藤崎先輩は、ひなの感情閾値を一気に超える唯一の起爆剤だった」
朔也は、テーブルの上に、指で見えないグラフを描きながら、淡々と説明を続けた。
「まず先輩への憧れでドーパミン急上昇 → 自己肯定感のベースライン底上げ → 垢抜け成功」
指が、すっと横に滑る。
「そのまま恋愛フェーズに遷移させて、情動依存を形成」
そして、最後に。
指先が、トン、と止まる。
「で、失恋で自由落下させて、落下点を俺が回収する予定だった、ってわけ。」
一瞬。
店内の時間が止まった。
「理系脳すぎるだろ!!」
「最低だわ!!」
咲と颯太のツッコミが、ほぼ同時に炸裂する。
朔也は、がくりと再びテーブルに突っ伏した。
「……本気の勝ち筋を……俺は無意識に……計算してたのに………」
朔也の声は、テーブルの上に落ちた水滴みたいに、ひどく小さかった。
脳内で何度も何度も、同じ式を解き直している。
あり得たはずの分岐。
掴めたはずの最適解。
それなのに──
導き出された現実だけが、どうしても一致しない。
そして、次の瞬間。
胸の奥に溜まっていた澱が、一気に噴き出した。
「なんなんだあの藤崎俊輔とかいう想定外の変数はーーーー!!!」
ドンッ、とテーブルがわずかに揺れる。
店内の数人が、びくっと肩を震わせて振り返った。
けれど朔也本人は、そんな視線にすら気づいていない。
計算が崩壊した数式みたいに、思考がぐちゃぐちゃに乱れている。
咲は、そんな朔也を見て、ふっと小さく息を吐いた。
慌てるでもなく、呆れるでもなく。
ただ、少しだけ優しい顔で。
「まぁ……恋愛には……」
紙ナプキンの端を指先でなぞりながら、静かに言葉を落とす。
「どんな方程式も、どんな物理学も、通用しないって事だね。」
その声は、騒がしい店内の中で、不思議なくらい真っ直ぐ朔也に届いた。
朔也は、抵抗する力を失ったみたいに──
バタンッ、と再びテーブルに額を預けた。
「……俺らだって想定外だよ。」
蒼太がストローを軽く回しながら、低く続ける。
「まさかあの藤崎先輩を、本当に陽向が仕留めるなんてな」
「ほんとー!私の考察も大外れ!」
咲も両手を軽く上げて降参ポーズをする。
けれどその表情には、どこか清々しさすら混じっていた。
そして──
咲は、ふっと視線を遠くに流す。
店のガラス越し、春の光の中を行き交う人影をぼんやり眺めながら、
穏やかな声で、ぽつりと呟いた。
「………結局……一途って強いんだなぁ〜」
その言葉は軽い感想みたいに落ちたのに、テーブルの上で静かに重みを残した。
朔也の指先が、ほんのわずかに動く。
反論も。
否定も。
もう、出てこない。
しかし、次の蒼太のひと言が、朔也の世界を大きく揺るがした。
「ま、でも1年で別れなきゃなんねーんだろ?今はしゃーねぇけど、1年後にまたチャンスは到来すんじゃねぇか」
一瞬、世界が止まる。
「………は?」
朔也の声が、遅れて落ちた。
「「え?」」
咲と蒼太の声が、今度は逆に揃う。
朔也の視線が蒼太へ向く。
理解が、追いついていない。
「どゆこと?は?1年で別れる?」
声の温度が、明らかに変わっていた。
さっきまでの沈み切った低温じゃない。
咲が、そっと様子を窺う。
「え…もしかして…聞いてない?」
その一言で、空気がまた一段重くなる。
蒼太は、一拍だけ間を置いて。
そして、事実を落とした。
「陽向から聞いてねぇのか?藤崎先輩、海外の大学に進学してそのまま永住するって。」
──カチン。
頭のどこかで、乾いた音がした。
次の瞬間。
「なんだそれーーーーーー!!!!!」
ガタッ!!!
椅子が大きく鳴り、朔也が勢いよく立ち上がる。
色を失った世界に、一気にパアァァァッと彩りが満ち溢れる。
血が巡る。
脳が覚醒する。
しかしその直後に、感情がぐちゃりと歪んだ。
「…は……だったら……」
声が低く、擦れる。
「1年後にひなを捨てるのに……わざわざ付き合ったって事かよ……」
怒りが、ジワジワと込み上げる。
朔也の奥歯が、ギリ…と鳴った。
「………最低な野郎じゃねぇか……許せねぇ…!」
朔也の握った拳が、ブルブルと震えている。
筋肉の震えじゃない。
抑えきれない感情が、出口を失って暴れている震え。
「朔也ー?落ち着いてー?」
「おい…それは陽向が……それでもいいって……」
すかさず咲と蒼太が宥めに入る。
だが、もう届いていない。
朔也の瞳の奥で、完全に何かが振り切れた。
「ぶっ殺してやるーーーーー!!!!」
店内の空気が、ビリッと震えた。
「「待てー!!」」
咲と蒼太が同時に立ち上がる。
さっきまで静かに沈んでいた午後は、一瞬で制御不能の嵐に飲み込まれていた。
────────。
翌日。
朝一。
即効で。
朔也は三年生のクラスへと乗り込みに行く。
廊下の窓から差し込む白い朝光の中を、朔也はほとんど一直線に歩いていた。
迷いはない。
けれど、その足取りの奥で、何かがずっと燻っている。
胸の奥に溜まり続けた、行き場のない熱。
それを押し殺すみたいに、朔也は三年生の教室の前で足を止めた。
一拍。
そして、扉の縁を指先で軽く叩く。
「藤崎先輩。ちょっといいすか」
“おい、藤崎俊輔、ツラかせやこの野郎”
と言いたいところを、グッと堪えて精一杯言葉を選んだ朔也。
「…黒川くん?」
俊輔はすぐに立ち上がった。
周囲に軽く断りを入れて、何の躊躇もなく廊下へ出てくる。
その落ち着きが、余計に癪に触る。
朔也は何も言わず踵を返し、三年生フロアから直結している、屋上へと続く階段の踊り場まで、俊輔を連れ出した。
朝の踊り場は、ひやりと静かだった。
上の窓から落ちる光が、コンクリートの段差を白く切り取っている。
まだ誰も通らない時間帯特有の、張り詰めた無音。
その中央で、朔也は足を止めた。
振り返る。
視線が、真っ直ぐに俊輔を射抜く。
「……どうゆう事すか?1年で別れるって。」
低い声。
抑えているのが、逆にわかる温度。
「……………。」
俊輔は、一瞬で空気を読み取った。
黒川朔也が纏う、明確な敵意。
怒り、焦燥、守るような圧。
それでも俊輔は、表情を崩さない。
ほんの僅かに息を整えてから、静かに口を開いた。
「…家庭の事情で……海外へ引っ越すんだ。」
淡々とした声音。
その一言が、朔也の導火線に火をつけた。
「そーゆう事聞いてんじゃねーよ!!」
踊り場に、怒声が叩きつけられる。
コンクリートの壁が、びりっと震えた気がした。
朔也の瞳が、明らかに熱を帯びる。
「お前のしてる事が、一年後のあいつをどんだけ傷つけるか…あいつがどんだけ苦しむか……そんな事もわかんねぇのかよ!!」
拳が、ギリ…と鳴る。
「………っ」
俊輔の睫毛が、ほんのわずかに揺れた。
「最初から捨てるつもりなのに……一時の遊びで付き合って……」
朔也の声が、さらに低く沈む。
「そんなのぜってー許さねぇっっっ!!!!」
張り詰めた空気が、限界まで軋む。
一拍。
俊輔の唇が、静かに動いた。
「…わかってる……全部……わかってる……」
その声は——
さっきより、ほんの少しだけ、深かった。
ガシッ…!
「わかってねーよお前は!!だったら最初から付き合ったりなんかすんじゃねぇっっ!!!」
朔也の両手が、俊輔のブレザーの襟を掴んだ。
布が強く引かれ、わずかに皺が寄る。
距離が、一気に詰まる。
吐き捨てる声は、怒りだけじゃない。
焦り。
苛立ち。
守りたい衝動。
その全部が混ざって、ぐしゃぐしゃに滲んでいた。
その至近距離の中で。
「それでも好きなんだ。彼女のことが。」
俊輔は、逃げなかった。
視線を逸らさず、真正面から朔也を見返す。
「………っ!」
朔也の呼吸が、止まった。
空気が、変わる。
俊輔の声が、わずかに震え始める。
「別れが決まってるから、抑えるつもりだった。好きな気持ちを、ずっと…我慢してた。」
その“我慢”という言葉の重さが、じわじわと滲み出す。
喉が、小さく上下する。
俊輔の声が、掠れる。
「でも抑えきれなかったんだ……陽向のことが、本気で好きで仕方がなかった。」
——ドクン。
踊り場の空気が、重く沈んだ。
俊輔の言葉の端々から、苦しいほどの痛みが滲んでいる。
計算でも。
遊びでも。
衝動でもない。
逃げ場のない、本気。
「一年後に訪れる別れが考えられなくなってしまう程…陽向と一秒でも一緒にいたくて…」
俊輔の瞳が、真正面から朔也を捉える。
「地獄のような覚悟を持って、僕の彼女になって欲しいとお願いした。」
その瞳は真っ直ぐで、本気の色を宿していた。
「僕は最低だよ。殴りたかったら殴っていい。」
その言葉のあと。
朔也の指先から、力が抜けた。
「…………。」
パッ……
掴んでいた俊輔のブレザーの襟が、朔也の手から放された。
「………………。」
信じられないほどの、俊輔の重たい陽向への気持ちがズシンッと朔也の全身を押し潰した。
…まさか………ここまで…………。
その事実が、否応なしに全身へ流れ込んでくる。
拳を振り上げる理由が、どこにも残らない。
朔也は何も言わなかった。
何も…言えなかった。
ただ、視線を外し——
踵を返す。
コンクリートの階段を、重い足音で下りていく。
朝の光の中に、その背中だけが、やけに遠く沈んでいった。
女なんて、星の数ほどいる。
藤崎俊輔ほどの男であれば。
相当よっぽど美人で。
スタイルが良くて。
品があって。
聡明で。
育ちが良くて。
完璧を身に纏った女が相応しい。
きっといくらでも選べたはずだ。
この世の、どんな女も落とせるだろう。
それでも。
そんな男が、地獄に落ちる覚悟で沼った女が。
俺の大切な………ひなだった。
まさか。
よりによって。
死ぬほど、本気だった。
朔也は、この瞬間。
幸せそうな二人を。
陽向の一番すぐ側で。
何も出来ずに。
大人しく指を咥えて眺め続けるだけの。
拷問のような地獄の一年間に、腹を括った。
「…果報は……寝て待て…。」
吐き出した独り言は、やけに乾いていた。
誰に届くわけでもないその言葉が、重たい鉛みたいに、朔也の胸の奥へ沈んでいく。
ゆっくりと。
逃げ場のない重さのまま。




