第73話 替え玉だろうが、特別だ
夏休みも、いよいよ最終週に差し掛かっていた。
窓の外では、夕立の名残みたいな湿った風が、網戸をかすかに鳴らしている。
咲はベッドの上に寝転んだまま、スマホに届いた通知を開いた。
画面に並ぶ短い文章を目で追った瞬間、小さく息を吐く。
「発熱かぁ〜……まぁ、仕方ないか……」
恋人からの“ごめん、熱出た”というメッセージ。
残念ではあるけれど、責めるような気持ちは湧かなかった。
むしろ、こういう時に不機嫌になる自分にはなりたくなくて、咲はすぐに指を動かす。
“また改めよー!お大事にね!”
送信ボタンを押したあと、ぽつんと静けさが落ちた。
そのまま画面を切り替えて、予約していた映画のチケット画面を開く。
二枚分。
きっちり確保していた座席。
予定されていた明日の楽しさだけが、そこに取り残されているみたいだった。
「これ払い戻し出来ないもんなぁ〜……誰か誘うか……」
独り言は軽いのに、胸の奥にはほんの少しだけ空白ができる。
せっかく空けておいた時間。
せっかく少しだけ気合いを入れて選んだ服。
このまま一人で過ごすには、なんだかもったいない気がした。
咲は友達リストを開く。
誰にしよう、と考えるより先に──
何故か、ひとりの顔が浮かんだ。
蒼太。
いつも静かで、文句は言うのに、結局なんだかんだ付き合ってくれる人。
ベタベタ甘やかしてくるわけじゃないのに、気づけば隣にいてくれる人。
その顔を思い浮かべた瞬間、咲はあまりにも自然な手つきで通話ボタンをタップていた。
コール音が鳴り、やがて通話が繋がる。
「あ、蒼太ー?ちょっと急なんだけどさー」
電話に出た蒼太の声は、いつも通り落ち着いていた。
低くて、ぶっきらぼうで、でも妙に安心する響き。
その声を聞いた瞬間、咲の胸の奥の“ぽっかり”が少しだけ埋まる。
「明日暇?」
その一言は軽かった。
────────。
翌日。
街中の繁華街は、夏休みラストスパートの熱気で満ちていた。
アスファルトの照り返しはまだ強く、ビルの隙間を抜ける風すらどこかぬるい。
駅前の大型ビジョンからは派手な広告が流れ、人の波は絶えず、笑い声や信号の電子音が重なり合って、街全体が休みの終わりを惜しむみたいにざわめいている。
その雑踏の中で、蒼太はやや不満げな顔をしていた。
「ったくよ。俺は熱出した彼氏の替え玉じゃねぇっつーんだよ」
口調はいつも通り刺々しい。
けれど、その言葉の裏に“本気で嫌なら来ていない”ことを、咲はもう知っている。
「えーだって陽向は藤崎先輩と図書室デートだし、朔也は陽向の旅行の件で咲にめっちゃガンギレしてるし、だから蒼太かなって!」
咲は悪びれもなく笑った。
太陽みたいに明るくて、屈託のないその笑顔は、蒼太にとって少し眩しすぎる。
蒼太は目を逸らすように小さく鼻を鳴らした。
「俺だって暇じゃねぇんだぞ」
照れ隠しみたいに落とした声。
けれどその胸の内では、咲に誘われた事への嬉しさが、じわじわと熱を帯びて広がっていた。
彼氏の代わりだろうがなんだろうが。
“自分の顔が浮かんだ”
その事実だけで、十分すぎるほど胸がざわついてしまう。
もちろん、そんなことは絶対に顔に出せない。
「でも来てくれたじゃんっ!固い事言うなって」
咲は笑いながら、蒼太の腕を軽く小突く。
その距離の近さに、蒼太の心臓が一拍だけ強く跳ねた。
午前中は映画館へ。
薄暗い館内で、スクリーンの光が二人の横顔を交互に照らす。
笑うタイミングが重なったり、息を呑む場面で同じように黙ったり。
隣にいるだけで、妙に呼吸が合ってしまうことが少しだけくすぐったい。
映画のあとに入ったランチの店では、咲がメニューを見ながらころころ表情を変えて、蒼太はそのたびに呆れたような顔をしつつ、結局は咲の話をちゃんと聞いている。
窓の外の強い光と、店内の涼しい空気。
グラスの氷が鳴る音。
咲の笑い声。
その全部が、不思議なくらい心地よかった。
咲の胸の奥に、ふっと力が抜けるような感覚が広がる。
無理に気を遣わなくてもいい。
取り繕わなくても、そのままでいられる。
(……蒼太といると、ほんと楽だな)
そんな小さな感覚が、言葉になる前に、静かに胸の中に落ちていく。
午後はショッピング。
「ねぇこれ可愛くない?」
「いやお前それ似たようなの持ってんだろ」
「えーでもこれはちょっと違うじゃん!」
「どこがだよ」
そんなやり取りを何度も繰り返しながら、二人は店から店へと歩く。
人混みに紛れて、時々肩が触れそうになる。
咲はそのたび気にせず前へ進み、蒼太は何でもない顔をしてその後ろを追う。
蒼太は、咲にあちこち連れ回されていた。
文句は言う。
ため息もつく。
でも心のどこかでは、この時間が終わらなければいいと思っていた。
彼氏の代わりでもいい。
急な穴埋めでもいい。
こうして隣で笑って、同じ景色を見て、同じ時間を過ごせるなら、それだけで十分すぎるほど特別だった。
咲の笑顔が夏の光の中で弾けるたび、蒼太の胸の奥には、言葉にならない静かな喜びが積もっていく。
夏の終わりに近づいた街のざわめきの中で。
二人の間には、まだ名前のつかない、けれど確かに温度を持った時間が、ゆっくりと流れていた。
夕暮れの帰り道。
深いオレンジに滲んだ空が、ビルの隙間にゆっくりと沈みかけていた。
昼間の熱をまだ残した風が、街の隙間を抜けて、ふわりと二人の間をすり抜けていく。
咲と蒼太は、駅へ向かって肩を並べて歩いていた。
他愛もない話に笑い合う。
さっきまで映画の話で盛り上がっていたはずなのに、今はもうどうでもいい話題に移っていて。
それでも、途切れることなく続く会話が、妙に心地よかった。
人波の流れに乗って、改札へ向かう。
同じ方向へ進む足音が、自然と揃っていく。
その何でもない一瞬──
「………っっっ!!??」
咲の足がピタリと立ち止まる。
会話は途中でいきなり途切れ、空気だけが一瞬で冷えた。
さっきまで浮かんでいた笑みが、音もなく消える。
呼吸が浅くなる。
異変に気づいた蒼太が、咲の視線を辿る。
「……え…………」
蒼太の口から思わず溢れた短い声。
数メートル離れた視線の先。
改札から出てきたその人物は────
「…戒斗………?」
彼氏の名前をこぼした咲の声は震えていた。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした気がする。
女と腕を組みながら、楽しそうに笑っているその姿は──
あまりにも自然で、あまりにも親密。
言い訳の余地なんて、どこにもなかった。
「……っ」
息を吸うことすら忘れていた。
次の瞬間、身体が勝手に動く。
踵を返す。
視界が滲む。
そのまま、咲は逃げるように走り出した。
「咲っ!!」
蒼太がすぐに後を追う。
ドンッッ
「キャッ!」
「あ…っすいません!」
人の波にぶつかる。
夕方の繁華街は、帰宅ラッシュと遊び帰りの人で溢れていた。
「大丈夫ですか!?怪我とか…ないですか?」
「こっちも…よそ見してたんですみません」
通行人と謝罪を交わしながらも、視線はすぐに前へ戻る。
肩と肩がぶつかり、進もうとするたびに流れに押し戻されて、蒼太の行く手を阻む。
さっきまでそこにいたはずの背中は、もう見えない。
「……ちっ……人が……多いな………」
舌打ちが漏れる。
行き交う人々が、視界を切り刻む。
同じような背中がいくつも重なって、彼女の姿だけが、どこにも見つからない。
くそ、見失った。
胸の奥が、嫌なざわめきで満ちていく。
蒼太は足を止めず、そのまま咲が向かった方向へ歩きながら、スマホを取り出した。
震える指で通話ボタンを押し、耳に当てる。
コール音。
「なんで出ねぇーんだよ…!」
焦りが、声に滲む。
胸の奥で、波のように不安が押し寄せる。
さっきの光景が、頭から離れない。
あの顔。
あの距離。
咲の、あの目。
既に陽は落ちかけている。
ネオンが点き始めた街は、昼とは違う顔を見せ始めている。
どこか湿った夜の匂いが、ゆっくりと広がっていく。
その中で──
蒼太だけが取り残されたみたいに、繁華街の中を進み続けた。
街は、もう完全に夜の顔に変わっていた。
ネオンが滲むように光り始め、昼間の熱気とは違う、湿ったざわめきが路地の奥まで広がっている。
アルコールの匂いと、どこか甘ったるい香水の香りが混ざり合い、空気はやけに重たい。
「居酒屋どうですかー?」
軽い声が、何度も背中に投げられる。
「いや、高校生なんで。」
短く返しながらも、蒼太の意識はもうほとんどそこにはなかった。
足は止まらない。
視線も、落ち着くことがない。
ポケットからスマホを取り出す。
ロックを解除して、トーク画面を開く。
“どこ?”
“大丈夫?”
“電話出ろ”
数分おきに送ったメッセージに、既読はつかない。
また閉じて、数秒後にはまた開く。
何度も、同じ動作を繰り返す。
コールをかける。
耳に当てる。
鳴り続ける音。
——出ない。
通話終了。
もう一度。
もう一度。
それでも、出ない。
「……咲……どこ行ったんだよ……」
喉の奥で、声が掠れる。
頭の中に、さっきの光景が何度もフラッシュバックする。
笑っていたはずの一日が、たった数秒で崩れ落ちた瞬間。
(……一人で……どこ行った……?)
人混みの中で見失った背中。
あのまま、どこへ向かったのかも分からない。
そして今、この時間。
夜。
人の多さは、むしろ危険だ。
紛れられるからこそ、何かあっても気づかれにくい。
咲は——
そこらの芸能人やインフルエンサーよりよっぽど綺麗で、そこに居るだけで誰からも目を引く。
一人、夜の街を彷徨っているのだとしたら危険過ぎる。
胸の奥が、ざわざわと嫌な音を立てる。
もし。
変な奴に絡まれてたら。
一人で泣いてたら。
誰にも頼れずに、どこかでうずくまってたら。
もう既に、良からぬ事態に巻き込まれてたら………
そこまで考えた瞬間——
ゾッ、とした。
血の気が、一気に引く。
「……っ」
気づけば、足が動いていた。
行き先なんて分からない。
それでも、立ち止まっていられなかった。
人の波をかき分けるようにして、蒼太は走り出す。
肩がぶつかる。
舌打ちが聞こえる。
誰かの声が背中に飛んでくる。
それでも、止まらない。
祈るみたいに、スマホを握る。
震える指で、メッセージを打つ。
“頼むから連絡して”
送信。
その瞬間——
ポン。
小さな通知音。
「……っ」
反射的に画面を見る。
“ごめん”
“いま南公園”
咲から、連続で届いた文字。
「……はぁ…………」
全身から、一気に力が抜けた。
その場に立ち止まる。
肩が落ちる。
肺の奥に溜まっていた空気を、ゆっくりと吐き出す。
安堵。
それと同時に——
遅れて押し寄せてくる、苛立ち。
「……くそ……心配させんなよ……」
小さく零れた声は、どこか震えていた。
画面を握りしめたまま、すぐに打ち込む。
“そこ動くなよ”
送信。
既読なんて待たない。
次の瞬間には、もう足は前へ出ていた。
夜の街のざわめきを背に、蒼太は街の外れの公園へ向かって走り出す。
胸の奥で、言葉にならない感情が、強く強く脈打っていた。




