第49話
ジュウウウウウッ……!
食欲を暴力的に刺激する音が、鼓膜を震わせた。
煙が充満する店内。
網の上で踊るのは、鮮やかなサシが入った最高級黒毛和牛のカルビだ。
脂が炭火に落ち、香ばしい薫煙となって立ち上る。
「……いただきます!」
俺は焼き上がったばかりの肉をタレにくぐらせ、大盛りの白飯の上にバウンドさせてから、一気に口へと放り込んだ。
甘い脂の旨味。
濃厚なタレのコク。
そして、それを受け止める白米の圧倒的な包容力。
「……んぐッ、んー!」
咀嚼するたびに、脳髄が痺れるような快感が走る。
味気ないゼリーとは次元が違う。
これが「メシ」だ。
質量を持ったタンパク質と糖質が、枯渇していた俺の細胞一つ一つに染み渡っていく。
「……生き返る」
俺は心からの声を漏らし、続けざまに白飯をかき込んだ。
大会中の『思考加速』による脳のエネルギー消費は、俺が想像していた以上に激しかったらしい。
胃袋がブラックホールになったかのように、いくら詰め込んでも満たされない飢餓感があった。
「ははは! 食うねぇ、アキト!」
向かいの席で、レオンがビールジョッキを傾けながら笑った。
彼の機嫌はすこぶる良い。
「いやぁ、最高の打ち上げだ。優勝は逃したが、俺のチャンネル登録者数、今日だけで五千人増えたぞ。同接も過去最高記録だ」
「五千……すごい数字ですね」
「ああ。『伝説の相打ち』の切り抜き動画、もうトレンド入りしてるぜ。コメント欄も『映画を見ているようだった』とか『今年一番の神回』とか、絶賛の嵐だ」
レオンはスマホの画面を俺に見せてきた。
そこには、紫色の毒ガスの中で俺とヴァルキリーが交差し、同時に倒れるシーンが再生されていた。
ドラマチックなBGMがつけられ、編集された動画は、確かに一つの作品のように見えた。
「結果オーライ、いや、それ以上だ。……アキト、お前のおかげだ」
「たまたま、たまたま。……それより、肉食おう、肉」
俺は網の上の肉をひっくり返した。
今回の宴の原資である、三万円分のギフト券。
ベストバウト賞の副賞だ。
「若いっていいねぇ。見てて気持ちがいいよ」
隣で、たぬきさんが目を細めていた。
VRの中では可憐な美少女だが、ここではジャージ姿の頼れるおじさんだ。
彼は自分の分はそこそこに、トングを持って俺とレオンの皿に肉を乗せ続けてくれている。
「たぬきさんも食べてくださいよ」
「私は酒があれば十分さ。それに、脂っこいのは胃に来るからね」
たぬきさんは苦笑しながら、枝豆をつまんだ。
「でも、楽しかったよ。久しぶりに『熱い』ゲームができた。君たちのおかげで、おじさんも若返った気分だ」
「また組みましょうよ、たぬきさん。あの索敵とサポート、最高でした」
「ふふ、ありがとう。……でも、無理はしちゃダメだよ、アキトくん」
たぬきさんの声色が、少しだけ真面目なものになった。
「君のあの反応速度……。あれは確かに凄い武器だ。でも、見ていて危なっかしくもある」
彼は俺の、空になった大盛りライスの茶碗を見た。
「脳も体の一部だ。酷使すれば壊れる。現実もゲームも、体が資本だからね。……ちゃんとケアするんだよ」
「……はい。肝に銘じます」
俺は素直に頷いた。
ただのゲーム仲間としての軽口ではない、人生の先輩としての温かい忠告。
それが、焼肉の熱気とはまた違う温かさで胸に染みた。
***
宴が終わったのは、午後八時過ぎだった。
「うーっ、食った食った!」
店を出ると、夜風が火照った体に心地よかった。
服には焼肉の匂いが染み付いているが、それすらも祭りの余韻のように感じられた。
駅前のロータリー。
ここが、解散の場所だ。
「じゃあ、また。アキト、たぬきさん! 今日は最高だった!」
レオンが拳を突き出してきた。
俺とたぬきさんも、それに拳を合わせる。
「また遊ぼうぜ。次もゲームでな」
「ええ。いつでも誘ってください」
「お疲れ様。気をつけて帰るんだよ」
三つの拳が触れ合い、離れる。
レオンは手を振りながら改札へと消え、たぬきさんもタクシー乗り場へと向かった。
一人残された俺は、夜空を見上げた。
都会の空は明るすぎて、星など見えない。
だが、今の俺には何かが足りないような空虚感はなかった。
ほんの数日前まで、俺はただ漫然と日々を消化するだけの高校生だった。
だが今は違う。
普段の学生生活以外でも、確かに「仲間」と呼べる存在ができた。
背中を預け、共に戦い、同じ釜の飯を食う仲間。
「……悪くないな」
俺は小さく呟き、自宅への帰路についた。
***
電車に揺られながら、俺は窓に映る自分の顔を見つめていた。
満腹感と共に訪れる、祭りのあとの静寂。
高揚していた神経が落ち着くにつれ、別の思考が頭をもたげてくる。
今日の大会での出来事。
ヴァルキリーとの死闘。
そして、彼女が別れ際に残した言葉。
『次は、向こう側で会いたいな』
彼女は気が付いていた。
俺が『ギャラクティック・フロンティア』のプレイヤーであり、あの世界に関わっていることを。
そして、彼女自身もまた、あの世界の「渡り人」であることを示唆していた。
宇宙連合軍汎用戦闘プログラム。
彼女の動きは、確かにあの世界でプログラムをインストールした者のそれだった。
(……彼女は何者だ? ギャラクティック・フロンティアについても何か知ってるだろうか……)
ただのプレイヤーか?
それとも、もっと深い部分で関わっているのか。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺の冒険は、まだ終わっていないということだ。
むしろ、ここからが本番だ。
最寄り駅に到着し、静まり返った住宅街を歩く。
足音だけが響く夜道。
俺の視線は、無意識のうちに夜空の向こう――雲に隠れた星々の方角へと向けられていた。
***
鍵を開け、自宅に入る。
廊下は真っ暗だ。
家族はすでに寝静まっている。
俺は足音を忍ばせて階段を上がり、自室へと戻った。
電気をつける。
見慣れた勉強机、本棚、ベッド。
何の変哲もない、高校生の部屋。
だが、その机の上には、存在感を放つモノが鎮座していた。
漆黒のVRヘッドセット『Cerebrum-07』。
最新鋭のデバイスであり、俺とあの宇宙を繋ぐ唯一の扉。
「…………」
俺はバッグを床に置き、着替えることもなく、ベッドに腰を下ろした。
体は疲れている。
焼肉を食べて満腹になり、強烈な眠気が襲ってきてもおかしくない時間だ。
このまま泥のように眠ってしまえば、明日の朝にはまた平凡な日常が始まる。
だが。
俺の視線は、ヘッドセットに吸い寄せられたままだ。
肉体的な飢えは、焼肉で満たされた。
だが、魂の飢えはどうだ?
あの華やかなEスポーツの舞台も楽しかった。
だが、俺の魂が真に求めているのは、もっと広大で、冷たくて、そして残酷なまでに美しい場所だ。
あの無限の星の海。
命のやり取りが日常のすぐそばにあった世界。
(……待たせているからな)
向こうには、仲間がいる。
俺の帰還を待つ、少女がいる。
共に死線を潜り抜けた、戦友たちがいる。
俺は立ち上がり、机の前へと移動した。
ヘッドセットを手に取る。
ずしりとした重み。
「……行くか」
俺は椅子に座り、ヘッドセットを装着した。
視界が闇に覆われる。
現実の音が遮断され、静寂が訪れる。
深呼吸を一つ。
スイッチを入れる。
意識が身体から遊離する感覚。
重力という鎖が解き放たれ、魂が光の速度で加速していく。
日本の、東京の、小さな部屋から、数万光年の彼方へ。
無数の星々が流線となり、通り過ぎていく。
ネットワークの海を越え、量子データの奔流を抜け、俺の意識は「あるべき場所」へと収束していく。
視界が開ける。
眼下に広がるのは、恒星の光を反射し輝く、巨大惑星。
その軌道上に浮かぶ、巨大宇宙ステーション『アマミヤ』。
そして、静かに眠る、漆黒の義体『ナイトハウンド』。
システムが起動する電子音が、心地よい音楽のように響く。
『――生体認証、確認。アキト様、おかえりなさい』
脳内に響く、電子音声。
その声を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが溶け、同時に新たな熱が灯るのを感じた。
ここが、俺のもう一つの現実。
俺が俺でいられる場所。
「……ああ、ただいま」
俺は口元を緩め、義体の感触を確かめるように拳を握った。
「さあ、続きだ」
星の海へ。
祭りは終わった。
だが、俺の冒険は、ここからが本番だ。
俺は広大な宇宙の世界へと意識を同調させた。




