第40話
スタジオ内の冷房の風と、PCファンの駆動音が意識を現実に引き戻してくる。
「……ふぅ」
俺は大きく息を吐き出し、背もたれに深く沈み込んだ。
脳の奥がジンジンと痺れているような感覚。
もはや「賢者タイム」といってもいいかもしれないこの感覚。
極度の集中状態から解放され、思考の回転数が急速にアイドリングへと落ちていく。
「お疲れ様。いやぁ、凄かったねアキトくん。最後の無双、鳥肌が立ったよ」
隣の席で、ジャージ姿の中年男性――たぬきさんが、スポーツドリンクを飲みながら声をかけてきた。
画面の中では可憐な猫耳メイドだった人物が、現実では無精髭のおじさんだ。
この視覚的な落差にはまだ慣れが必要かもしれない。
「ありがとうございます。……でも、自分でも驚いてます」
俺は自分の手のひらを見つめ、握ったり開いたりした。
あの感覚。
時間が泥のように遅くなり、敵の動きが止まって見えた瞬間。
「レオン。たぬきさん」
俺はずっと喉元に引っかかっていた疑問を口にした。
「別のゲームで手に入れたスキルが、なぜかこのゲームでも使えた……なんてこと、あり得るか?」
「ははは、何を言ってるんだい」
たぬきさんが笑い飛ばした。
「そんなわけないよ。ゲームエンジンも違う、運営会社も違う。データの互換性なんてあるわけないじゃないか。RPGのレベルを格ゲーに持ち込めないのと同じだよ」
「……ですよね」
「君が天才的な反射神経を持っているだけさ。ゾーンに入った、ってやつだよ」
たぬきさんの言葉は正論だ。
プログラム的にあり得ない。それは分かっている。
だが、あの感覚は『ギャラクティック・フロンティア』での『思考加速』そのものだった。
「……いや」
それまで黙ってモニターを見つめていたレオンが、不意に口を開いた。
その表情は、いつになく真剣だった。
「あり得ない話じゃ、ないかもしれない」
「え?」
レオンは椅子を回転させ、俺の方に向き直った。
「ちょっとね、少し前に似たような話を聞いたことがあってな」
彼は声を潜めた。
「俺の知ってるプロゲーマーで、トップランカーだった奴がいるんだ。FPS界隈じゃ有名な『鷹の目』って呼ばれてた男なんだが……そいつが、同じようなことを言ってたんだ」
「同じようなこと?」
「ああ。『脳の処理速度が上がった』『時間が止まって見える』ってな。最初はスランプからの脱却かと思ったんだが、様子がおかしくてな」
レオンは腕を組み、記憶を手繰り寄せるように天井を仰いだ。
「そいつは最後にこう言い残して、連絡が取れなくなった。『最新のVRデバイスは、視覚情報を介して、脳の神経回路そのものを書き換えている可能性がある』……ってな」
背筋に冷たいものが走った。
脳の書き換え。
「つまり、こういうことだ。アキト、お前は前のゲームから『データ』を持ち越したんじゃない」
レオンが俺の目を真っ直ぐに見据える。
「お前という『ハードウェア』そのものが、VR体験によってアップグレードされちまったんじゃないか?」
ハードウェアの進化。
ソフトウェアであるゲームが変わっても、それを処理するCPUである肉体が高性能化していれば、どんな環境でも超人的なパフォーマンスを発揮できる。
俺の異常な食欲。
現実世界での聴覚や視覚の鋭敏化。
全てが、脳の変質によるものだとしたら――。
俺は乾いた唇を舐め、自分の「異常性」に対する恐怖を吐露した。
「……もし」
声が震えないように、腹に力を入れる。
「もし、それが本当だとしたら……ゲームで培った能力が現実や他のゲームで使えたら、それは『チート』になるんじゃ?」
自分の存在が、ルール違反のバグのように思えて怖かった。
みんなと同じ条件で戦っていない。
それは、ゲーマーとして最も恥ずべき行為ではないのか。
「ぶっ、あはははは!」
深刻な顔をする俺を見て、たぬきさんが盛大に吹き出した。
「な、なんですか」
「いやいや、ごめんよ。あまりに真面目な顔をしてるからさ」
たぬきさんは笑い涙を拭いながら、俺の背中をバンと叩いた。
「そりゃあチートだよ! おじさんなんて衰えてきた反射神経と戦いながら必死にプレイしてるのに、若者がスローモーションで世界を見てるなんて、ズルいにも程がある!」
たぬきさんの冗談めかした口調に、張り詰めていた空気が緩んだ。
「まあ、そうだな」
レオンも鼻で笑った。
「スポーツ選手が動体視力を鍛えるのと同じだろ? 野球選手が飛んでくるボールの縫い目が見えるようになるのと一緒だ。ゲームを使って効率よく鍛えたなら、それは『努力』の結果とも言える。そんなに深く考えなくていいだろ」
「努力……か」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
ここのところ少し不安だったのだ。
得体の知れない何かに侵食されているのではないかと。
だが、彼らはそれを「才能」や「トレーニングの成果」として肯定してくれた。
そう考えれば、この力も悪いものじゃない気がしてくる。
「……そうだな。まあ気のせいってこともあるかもしれないし」
「おう、その意気だ。……まあ、明日の大会で勝てば『実力』、負ければ『妄言』ってことで」
レオンがパンと手を叩き、立ち上がった。
「さあ、話はここまでだ! 腹減ったぞ! 前祝いといこうぜ!」
「賛成! ここは私が若人のために奢ろう! 経費で落とすから遠慮なく食べたまえ!」
「マジすか、たぬきさん! 一生ついていきます!」
俺たちは笑い合いながら、機材の熱気がこもるスタジオを後にした。
***
スタジオを出ると、夏の夕暮れ特有の、湿気を含んだ熱風が肌にまとわりついた。
俺たちは繁華街の雑踏を抜け、たぬきさん行きつけだという大衆焼肉店へと入った。
「いらっしゃいませー! 三名様ですかー!」
威勢のいい店員の声。
店内は煙が充満し、肉の脂が焦げる香ばしい匂いと、サラリーマンたちの喧騒に包まれていた。
「とりあえず生三つ! ……あ、アキトくんはコーラだったね」
たぬきさんが慣れた手つきでタブレットを操作し、注文を入れていく。
運ばれてきたドリンクで乾杯を済ませると、すぐに肉が運ばれてきた。
「さあ、食え食え! 明日の英気を養うんだ!」
網の上にカルビが乗せられる。
ジュウウゥゥッ……!
食欲を刺激する音が響き、脂の乗った肉が踊る。
その瞬間、俺の脳が強烈な指令を出した。
『燃料を補給せよ』と。
「すいません、ライス特盛! あとカルビとハラミ、三人前追加で!」
「ぶっ!?」
ビールを飲んでいたレオンが吹き出しそうになった。
「おいアキト、お前そんなキャラだったか? 特盛って……漫画みたいな量くるぞ?」
「ああ、今の俺なら食える。むしろ足りないくらいだ」
脳が進化しているなら、その分エネルギー消費も激しいはずだ。
俺は運ばれてきた山盛りの白飯を片手に、焼けたばかりの肉をタレにくぐらせ、口へと放り込んだ。
熱い。
旨い。
肉汁とタレの旨味が口いっぱいに広がり、白飯と共に胃袋へと落ちていく。
細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているのが分かった。
「……若いねぇ」
呆れたように言いつつも、たぬきさんは楽しそうに目を細めていた。
彼は自分ではあまり食べず、トングを持って肉を焼く係――いわゆる「焼肉奉行」に徹してくれている。
「ほら、こっちも焼けたよ。焦げる前に食べな」
「あ、ありがとうございます」
俺の皿に、絶妙な焼き加減のロースが乗せられる。
VR内では猫耳メイド姿で「アキトくん守ってぇ♡」と言っていた人物が、現実ではジャージ姿で甲斐甲斐しく肉を焼いてくれている。
そのシュールなギャップに、俺は思わず吹き出してしまった。
「ん? どうしたんだい?」
「いえ……なんでもないです。ただ、頼りになるなって」
「ふふん、伊達に長く生きてないからね。ゲームでも現実でも、サポートは任せてくれたまえ」
たぬきさんは胸を張った。
「明日は僕が先行して索敵と撹乱をする。敵の位置を炙り出すから、レオンくんが全体指揮をして、アキトくんが遊撃として殲滅する。……完璧な布陣だよ」
「ああ。たぬきさんの索敵と、アキトのエイムがあれば、撃ち合いじゃ負けねえ」
レオンがビールジョッキを傾けながら、ニヤリと笑った。
「優勝賞金が入ったら、今度はもっといい肉食いに来ようぜ。銀座の回らない寿司でもいい」
「おっ、大きく出たねぇレオンくん。言ったね?」
「おうよ。そのためにも、明日は絶対に勝つ」
網の上でジュウジュウと焼ける肉を見つめながら、俺は確かな充実感を感じていた。
宇宙での命がけの戦いもリアルだった。
だが、こうして仲間と肩を並べ、煙に巻かれながら網の上の肉を突っつく時間もまた、愛すべきリアルだ。
脳が書き換わろうと、スキルがどうあろうと関係ない。
俺は今、この時間を心から楽しんでいる。
「……まずは明日、ベストを尽くそう」
俺は力強く宣言し、焼けたばかりの熱々のカルビを、山盛りのご飯と共にかき込んだ。
胃袋の底から、力が湧いてくるのを感じた。




