42 2016年8月29日のこと
時は過ぎ、
初めて美和の実家に挨拶に行ってから、三か月後の八月初旬に結納を済ませた。九月下旬に式を挙げる予定だ。
美和のお父さんは、僕らが実家を訪れた日、僕らが実家から帰る所を見て居たそうだ。
二十歳離れた僕の事は絶対に認められないと考えて居たそうだが、僕らが並んで歩く様子を見て、考え直してくれたと言う。
六月に東京から戻った時に、美和の実家に呼ばれ、そこで改めてご挨拶をして、許して貰った。
幼稚園が夏休みになると、美和は退職した。
元々一年という短い産休代理の臨時雇用だったと明かされた時は驚いた。
「それでよくこの家に移住したね。仕事なくなったらどうするつもりだったの?」
「何でもやるつもりだったよ?駅前スーパーのレジとか、清掃会社の深夜勤務とか。」
「へえ……じゃあ、次の仕事はどうするの?」
「今探して居る所。」
「僕に心当たりがあるけれど、紹介しようか?」
「えっ?どこ?何の仕事?」
「そうだなあ……幼稚園の仕事とはまた違うけれど。」
「どんな仕事?」
「僕の奥さん、という仕事。」
「それ、仕事じゃないでしょ。」
「僕と一緒に居るより外で働きたい?」
「そんな事はないけれど……」
「しばらくは忙しいから手伝ってくれない?」
「忙しいって、何が?」
「実は、この家を建て替えようと思って。この夏の間に。」
「ええっ?!」
「だけど、今夏中に建て替えるのは難しいらしい。来年になると思う。」
「あ、なーんだ。良かった。」
「建て替えには反対?」
「そういう訳じゃないけれど、急にどうしたの?元。この家を壊しちゃうって事でしょう?本気なの?」
美和が不安そうな声で訊いた。多分それは、この家を建て替える事に反対して居るのではなく、僕の考えが分からないからなのだろう。
わーさんとの想い出にしがみ付いて生きて来た僕だったから。
でも今は少し違う。わーさんとの想い出を捨てるのではなく、想い出は想い出のまま、この家を建て替えても無くならないって分かったから。
僕は、過去にしがみ付いて生きるのではなく、これからの未来を美和とこの場所で作って行くと決めたから。
それに必要な事をする。
「これから暮らすのに不便だから。もしも僕に何かあって、美和が一人で暮らす事になっても、安全な家だったら僕も安心して逝けるから。」
「もーっ!元はまたそれを言う。そうそう死なないから!考え過ぎないで!」
「そうは言っても、人はいつ死ぬか分からないからね。特に僕は年上だし────あ、正午だ。」
「もうお昼か……元は何がいい?暑いからおそうめん?でも昨日もおそうめんだったから、そろそろ飽きた?」
「それより、役場に用事があって。」
「役場?どうしたの?」
僕は立ち上がり、箪笥から封筒を出した。
「これを出しに行こうと思って。」
「何の書類?」
「これだよ。」
ガサッ、
封筒から取り出したのは、志歩理と泰道に証人になって貰った、あの時書いた婚姻届。
「でもこれ……」
「美和がこの家に来て、丁度一年。一年後にこんな風になるなんてあの時は思わなかったな。」
「本当だね。」
「美和は思ってたんでしょう?僕と結婚したいって。」
「それは……思ってなかったよ。本当に。だって元はわーさんをずっと想い続けて生きるんだろうって思ってたから。私は元の傍に居られるだけでいいと思ってたから。」
「今もそう?」
「うん。」
「ただ傍に居るだけで何もしないの?」
「えっ?」
「結婚しないの?」
「それは……するけど、でも、今日?」
「いつならいいの?」
「いつって、それは……」
「今日、先負。六曜気にするなら、もう午後だから出してもいいと思うよ?」
「え?そ、そうじゃなくて……」
「これを出して、正式な夫婦になって、美和は僕の家族という仕事に就く。嫌?退屈?」
「嫌だなんて、そんな……」
「お金は僕が稼ぐ。この家も僕が守る、と言いたい所だけれど、一人で守るのは不安だから、二人で一緒に守って行こう。」
「うん。」
「建て替えも来年になったから、設計図も見直して、美和の意見も聞きたい。悩んで居る所があって────」
「うん。何?あ!分かった。トイレ二つにするかどうか?」
「まあ、似たような所。違うけどね。」
「何?あ!分かった。仏間をどうしようかって事でしょう?」
「仏間?違うよ。子ども部屋。何部屋あったらいいかなあ。」
「えっ……?」
美和は絶句して、僕の顔を見つめた。
ちょっと遠回し過ぎた?いや、それとも露骨に感じた?
「間取りはまだ相談中なんだけれどね。」
僕の声はぼそぼそと、段々小さくなった。
「三つ、は欲しいかも……」
「えっ?みっつ?」────という事は、三人産みたいという事?
「駄目?」
子ども部屋を作るのは簡単だけど、それを使う子どもをってなると……
僕は今年の十月で46歳になる。この齢から三人の父親になるという事は可能なのだろうか?
「作れるよ。でも……」
「分かった。私も頑張るね!」
ん?今のって、えっと……
僕は自分の発言を振り返る。
"作れるよ"と言ったのは"部屋"の事。だけど取りようによっては"子ども"を"作れるよ"と誤解されてしまった?
しかし、途端に機嫌の良くなった美和を見て居ると、否定する気は起きなくて、まあいいかと僕は次の提案に移る。
「そこで美和、建て替えの計画前に、これを提出しておきたいのだけれど。」
僕は広げた婚姻届を目の前に翳した。
「今日中に提出すると、25歳で結婚したって言えるよ?」
「えっ?」
美和は、きょとんとした。
「あれ?違う?女性は25歳までに結婚したい人が多いって聞いたから……違った?」
大きく外したと思った僕は、冷や汗を掻いた。
青くなる僕を見た美和は、ぷっと吹き出して、あはは!と豪快に笑い出した。
「もうー!元ってば、面白過ぎ!分かりました。私が25歳の内に、急いで役場に行きましょう。」
「え?僕面白い事、言ったかな?」
「早く!」
ふふふと笑って、急かした美和が僕の頬にキスをした。
それから二人で出掛ける支度をして、婚姻届を美和がバッグにしまった。
勝手口から外に出て、車に乗り込む、その時、
「あ、ちょっと待って。」と美和が僕を見て言った。
「何?」
「わーさんに報告していい?」
「えっ?」
「ちょっと行って来るね。」
にっこり笑った美和は、花いっぱいのわーさんのお墓へ走り出した。
「あっ、美和!」
僕も慌てて美和の背中を追って、お墓に向かった。
先に着いた美和はすでにしゃがみ込み、手を合わせて居る。
僕も倣って、手を合わせた。
なんて報告すればいい?
『これから婚姻届を提出して来るね』かな?
わーさんは、
【おー、行って来い!気を付けてな!】とか言って送り出してくれそうだけど。
明日、8月30日は美和の誕生日。
そしてわーさんの命日。
一年前の僕は、生きる事に対して何も思わなくなって居た。
ただ死ぬ日を静かに待つだけの日々。
わーさんを偲び、色を失った景色の中で、時に流されるままだった。
それを、一年前の丁度今日、美和が変えてしまった。
今の僕があるのは、美和がここに来てくれたからだ。
僕の人生が悪いだけのものでは無かったと、再び考えさせてくれるきっかけになった人。
運命の人が幾人も居る事を教えてくれた人。
ただ"好き"とか"愛してる"とか、それ以上のものを僕に教え、与えてくれる人。
今もこうして、隣にしゃがむ僕の手にそっと触れ、ゆっくりと包み込んで、微笑む。
「元、そろそろ行く?」
「うん。」
「わーさんとお話出来た?」
「美和は?」
「いつもしてるよ。元とよりも話す日あるもん。」
「え?初耳。だけど、それはちょっと嫌だな。」
「嫉妬?」
「嫉妬。」
「どっちに?なんて、訊いたら嫌よね。」
「わーさんに。」
「え?嘘でしょ?本当に?」
「わーさんと話すなら、もっと僕と話してよ。」
美和は僕を見つめた。見る見る内に、その瞳に涙が溢れた。
「……嬉しいなあ。元にそう言って貰える日が来るなんて。」
「泣かなくても。」
「だって、だって……一年前を思い出しちゃう。」
「まあ、確かに。」
この一年で変わった。変わり過ぎた僕。
180度、世界が変わってしまうとはこの事だろう。
男にしか興味を持てなかった僕が女性と暮らし、果ては結婚までしようという。
一度死んだとして、生まれ変わってもこうはならないかもしれないって位、僕は変わったと思う。
世界は一つ、運命の相手も一人だけ、僕の生き方も死ぬまで変わらない、
それらすべてをひっくり返してしまう力を秘めて居た美和。
僕を驚かせ、退屈なんて言葉を吐かせてはくれない。
僕と繋いでくれた美和の手を強く握り返して誓うよ。
世界は一つだけで終わらない。運命の人も人生も、変わらない事なんてない。
すべては僕と君次第。
しあわせになろう。
この手を繋いだまま、ずっと。